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33 落ちた星は、また瞬く


 まだ遊ぼう、と縋るジェフをエルジオに無理矢理引き渡して、俺はなりふり構わずに外に駆け出した。


 砂利の混じった小道を辿り、足をもつれさせながらクリフの家へ向かって丘を下る。

 珍しく雲の無い晴天は太陽の強い光を余すことなく地上に降り注がせて、俺の弱い皮膚を焼く。


 何か上に羽織りでもすればよかった、と思ったのは一瞬で、後はもう何も考えなかった。


「すみません、グレイソン、グレイソン=チャールズ・ボイルです!」


 家の前に止まっている車を横切って、扉の横の呼び鈴を何度も鳴らす。


 間もなく扉の向こうから聞こえてきた足音は、マーサさんのものかはたまたオリバーのものか――どうかマーサさんでありますように、と願ったのも虚しく、俺を出迎えたのは怒り心頭のオリバーだった。


「ここに何の用があるんだ、え?」


 不良集団に対してのものと殆ど変わらない、荒々しい態度。


 眉を吊り上げて口を歪ませた彼が俺に対して怒りを覚えるのは当然のことで、けれど引き下がるわけにはいかない俺は


「……ダイアナに会わせてくれませんか? 迷惑なのも虫が良いのも分かってます、ただ話をしたいんです」


 と、頭を深く下げた。


 けれど、オリバーの怒りが収まる様子はない。明らかな怒気は纏わせていなくても俺を詰る淡々とした低い声は威圧的で、ひたすらに足元を見続ける俺を突き放した。


「お前を少しでも信用した俺が馬鹿だったよ。これ以上俺の機嫌を損ねる前にこの敷地から出ていけ、手足を折られたくなければな」


 オリバーが玄関先に立てかけられていた棒に手をかける。

 さっき野次馬たちに向かって振り回していた棒だ、このままでは拳で思い切り殴られた時よりも痛い目を見るかもしれない。


 だとしても、ここではいそうですかと諦めてしまえば以前の俺の選択とは何も変わらない。


 ダイアナに見えることが叶わないのなら、せめて言葉だけでも。

 叔母の話を信じるなら、オリバーは律儀に俺の言葉を彼女に嫌味たらしく伝えるだろうから。


「それならせめてダイアナに伝えてくれませんか、会いに行けなくて悪かったって。それに……いつでも待ってるから集会所に来て欲しいとも、まだあの時の約束が残ってるじゃないかと」


 果たせていない約束はいくつもある。迎えに行くだの一人にさせないだの――どれもまだ、何一つして。


 「ふざけるなよ」そうオリバーが青筋を立てたのを、真正面から見つめた。


 彼の向こう側にある闇の奥に踏み込むことは、きっと許されないだろう。それでもいい、彼女に俺の言葉を届けてくれるなら。

 

「どうしたんだい、オリバー君」

「あ、教授……実は――」


 客室からあの初老の男性が出てきて、振り返ったオリバーが俺から気を逸らす。それにこれ幸いと玄関から出て、扉を音を立てないように閉めた。  


 正攻法が駄目なら違う道を探すしかない――暫くはオリバーもあの教授との会話に時間を割くだろうし、取り敢えずはダイアナがいるだろう彼女の部屋の窓に手頃な石でも投げてみよう。そうすれば彼女が顔を出してくれるかもしれない。


 ゼフがいなくなってから余計な装飾が無くなった庭をぐるりと回り込む。

 オルティスさんの彫った小さな鳥の彫刻が花壇の端に置かれているのに気がついて、それに視線を吸い寄せられる。俺はまだ、ヘイゼルたちにも会いに行けていない。


 ――そうしている内に、ふと窓が開く音がして。反射的にそちらを振り返ると、頬杖をついたダイアナが俺を見下ろしていた。


「ダイアナ――」

「やっぱり来ると思った。おはよう、一ヶ月ぶりね」


 そう微笑んだダイアナは、かつての彼女とどこか違っていた。


 悲しみと虚しさに満ちた、穏やかに細められた瞳。酷く青褪めた顔をした彼女は、ただでさえ子鹿のようだった以前よりも遥かに痩せたようで。


「……ああ、おはよう」

「オリバーが貴方に酷いことを言ってるのが聞こえてきたの、折角来てくれたのにごめんね?」

「別に構わないよ、オリバーの立場からすれば俺を嫌ってもおかしくない。それに……ごめん、会いに行けなくて」


 風が揺らした髪を耳に掛けた袖口から、骨の形が浮かんだ細い腕が覗く。


 ゼフに切りつけられて出来た傷の痕が赤い糸のように薄ら色づいていて、ふと、彼女の体には一体どれだけの傷痕が刻まれているのだろう、と思った。

 

「いいよ、本当に酷い状態だったから見られたくなかったし。貴方が何かしらの不利益を被るくらいなら来てくれない方がずっとよかった」

「別に不利益なんてない、ただ俺が臆病なだけだったんだよ」

「どうせまたオリバーが変なことでも言ったんでしょう? それに来てくれるなんて正直思っていなかったの、合理的に考えればこれ以上貴方は私と関わるべきではないし……本当のことが世に出ないとは限らないわけじゃない? 人殺しなの、私は」


 そう肩を竦めて大したことではないように笑うダイアナが無理をしていることは、明白だった。

 まともに寝れていないのか目元には濃い隈が目立っているし、なにより右目の瞳の奥に力が無い。


 俺は知っていた。

 ダイアナのその目を、よく知っていた。


 あの日、洞窟の奥で人知れず首を吊った彼女の見開かれた瞳。


 空虚な、絶望に打ちひしがれた瞳――僅かな希望さえも徹底的に打ち砕かれた少女の、落ちた星。


「……言っただろ、俺は味方だって」


 握った拳に爪が食い込む。


 そうだ、真実を知らないオリバーがいくら親身に寄り添ったところで、真の意味で彼女の苦痛を理解することはできない。

 壊れかけの彼女の心を瀬戸際で押しとどめることができるのは、余所者であるが故に彼女の信頼を得、事件に加担した「共犯」の俺だけ。


 だから何があろうと、何を言われようと、俺はオリバーに決して屈してはならなかった。


 叔母家族や子供たちとの穏やかな日常を享受すべきではなかったのだ――今更後悔したって遅い、考えるべきは今だ。

 

「……何その顔、そんな変なこと言ったかな、私」


 訝しげに眉を顰め、眩しそうに目を細めた彼女が上半身を外に乗り出して俺の顔を見る。


 その表情の作り方も以前とは異なるように思えて、でも、それを口に出して言ってはならないと思った。彼女の中の根本的なものが全く別のものに変わったような、そんな気がするのだ。


 けれど、それでも俺のダイアナに対する感情は以前と何ら変わりない。


 運命めいた、偶然のようでいて必然の愛――多分、いや、絶対に。

 彼女がどんな姿形だったとしても、どんな人間だったとしても、俺はダイアナという魂に必ず惹かれたのだと思う。それくらいに彼女の纏うもの全てが輝いて見えるのだ。


 心臓を奮い立たせ、彼女を真っ直ぐに見つめ返す。俺の視線にたじろいだ彼女が身を引こうとしたその時、「ダイアナ」と、彼女の名を強く呼んだ。


「俺はそんな薄情な人間じゃない。俺が君のことを好きな気持ちは全く変わらないし、なにより前も言ったように君を呼び戻した俺も共犯なんだ、君が牢獄に行くなら俺も絶対にそこに行かなきゃならないんだよ」


 ダイアナが俺に釘付けになったその隙を突いて、一息にそう言い切る――彼女がこれをどう捉えてくれるかは賭けだった。


 否定的に物事を考える質の彼女は、いつだって俺の言葉を受け入れる前に一度は首を横に振る。

 それが彼女に備わった元来の性質なのか、それともゼフに抑圧される内に形成されていった後天的なものなのかは、俺には分からない。


 もし前者であれば以前のようにはぐらかされるだろうが、後者であるなら少しは違ってくるかもしれない。

 ダイアナの欠けた心を埋められるのは俺しかいないのだ、もう森から出られないヘイゼルは彼女を突き動かす原動力にこそなれど、彼女自身を救える存在にはどうしたってなり得ないのだから。


 風に明かされた丸い額に、赤紫の傷が目立つ。


 大きく見開かれた右目と、みるみるうちに真赤に染まりだした青白い顔――何度も瞬きを繰り返し、な、と漏らした彼女の声は震えていて、ああ、やはりかつてのダイアナと今目の前にいる彼女は全く違うのだ、と、痛いくらいに思い知った。


「……なんでそんなこと恥ずかしげなく言えるの」

「隠す必要なんて微塵もないからだよ、多分ダイアナが思っているより俺は君のことが好きだ」


 首まで朱色に染まった彼女が「なにそれ」と呟き、両手で顔を覆い隠す。


「……分から、ない、だって私、もう貴方が好きになってくれた私とは全然違うのに……」


 切実な響きが俺の胸を打つ。否定的な言葉とは裏腹に、誰かに認められたい、という強い欲求と期待が秘められた声。


 ふと、思った。ダイアナは彼女自身を(・・・・・)認めてほしいだけなのではないか、と。


 ヘイゼルやオルティスさんが言っていたように、内気で非社交的で、いつも姉の後ろに隠れているような不器用で要領の悪い、それでも鋭敏な知性を垣間見せる物静かな少女――それが幼い頃のダイアナの真実なのだろう。

 けれど初めて出会った時の彼女はそれとは真逆の明るく社交的な少女で、計算高く強かな性格の、自信に満ち足りた人物のように見えた。


 だがゼフやオルティスさんと相対する時は年齢よりも遥かに大人びた知的な態度を見せ、報われない愛情をひたすらに捧げ続ける献身的で盲目な少女の姿を見せていた。

 それはまるで太陽と月という相反する存在が、彼女の中で矛盾しながらも両立しているようだった。


 つまるところ、ダイアナは全ての人間が状況に応じて使い分けているあらゆる人格の側面よりも、完全な別人格のように独立している複数の「彼女」という仮面を持っていた。


 それは彼女の生まれ持った本来の性質を湾曲させ、基礎となる人格さえも確立させることなく脆弱な穴だらけの心を作り出したのだろう。

 その結果、ダイアナは自らの在り方を一貫することができずに「酷い嘘つき」になったのだ。

 

「グレイソン」


 ダイアナが俺の名を呼ぶ。

 

 戦慄く唇から震える息を吐き、紅潮しきった顔を振った彼女が窓枠に掌をついて身を乗り出し、「それなら」と興奮気味に上擦った声をあげる――赤く染った目の縁を引き攣らせた彼女の瞳に、無数の星の光が瞬くのを見た。


「貴方が首都に帰る日が必ず来ることは分かってる、でも、どうか……貴方の隣を、私の目指すべき場所にしてもいい?」



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