32 伸ばした腕の先
翌朝。
その日は丁度祝日にあたっていたからか、渦中の人物であるダイアナが戻ってくるという噂がアーベント中に広がって、日も南中しない内からクリフの家が建つ丘は騒がしくなっていた。
「アーベントの暇な人間が全員集まってるんじゃないかね、この様子じゃ」
朝食をしている間にもどこかの部屋の空いた窓から聞こえてくる喧騒が聞こえてきて、三兄弟にパンを切り分けてやっている叔母が顔を顰める。
有難くその内の二切れを頂戴した俺は、朝からぐずって食器を振り回しているジェフがこれ以上機嫌を損ねないように手遊びで構いながら
「こんなにすぐ広まるものなんですね、情報ってのは」
と、夜が明ける前に海に出ていった叔父の馬鹿力によって固く閉じられていたジャムの瓶をさっさと開けた。
「開きましたよ」
「どうも。エストゥーサみたいに人の関係が希薄なとこならともかく、人の少ない田舎ってのは何よりも情報網が命なんだ。海に出ていった誰々がまだ帰ってこないだの、あそこの家の息子の素行が酷いだの――それにアーベントの有力者が死んだっていう大事件の関係者とくれば大騒ぎも大騒ぎさ、ダイアナちゃん自身も人気があるしね。ちょっとエルジオ、あんた野菜をレオナルドに押し付けるんじゃないよ! レオナルドもわざわざ殴る必要ないだろ!」
騒がしいのは外だけではなく、内もだった。
野菜が嫌いなエルジオがスープの野菜をこっそり弟の皿に盛り付け、それに怒りを覚えたレオナルドが兄の背中を力一杯ひっぱたいたらしい――とうとう殴り合いの喧嘩にまで発展した二人のやり取りに、叔母がここまで粗暴になった理由が詰まっている気がする。こんなことを朝から毎日やられていたら、どんな人間でも論理的に優しく教えさとすことを諦めるだろう。
「だってこれ食べれないんだもん!」
「食べれないと食べたくないは大違いだよこの馬鹿! あんたが赤ん坊の頃はこれをすり潰したのをよく喜んで食べてたんだからね!」
「なんだよそんな昔のこと、そんなの言ったら母さんだって――」
取り敢えずジェフだけでも騒がせないようにしよう、と、椅子を引き摺って三人から遠ざけ、背中で視線を遮る。
「おこられてるね」と舌っ足らずに言ったジェフの小さな手にジャムを塗りつけたパンを「怖いよなあ」と言いながら乗せれば、「うん、こわい」と真剣な眼差しで力強い頷きを返してきた。
上に騒がしい兄が二人いるからか、ジェフは言葉も早く意思の主張もかなり強い。
そう遠くない内に叔母が過労で倒れかねないな、と思いながら、まるで自分も大きい子供のような顔をしてジャム塗れになりながらパンをぎゅっと握り締めているジェフの頭を撫でた。
「ジェフはいい子だよな?」
「いいこだよ」
「いい子ならこの野菜食べれるよな、ほら、口を開けてごらん。エルジオとは違うんだろ?」
「……うん」
頷くまでに、かなりの葛藤があった。
嫌そうに薄い眉を顰めながらも、「自分は兄とは違う」と言いたげに曲がった口が開く。
対抗心を刺激すればすんなりと言うことを聞くこの性格は、後々良いように働くことも多いだろう――本人の努力が伴いさえすれば。
ジェフに食べさせている隙に自分もスープだのパンだの林檎だのをさっさと口にし、それから食べ終わったジェフの汚れた顔や手や丸い腹を机の上に置かれていたナプキンで拭く。
するとうずうずした様子で周囲を見回したジェフは、聞こえてくる声を気にしてか
「おそといきたい」
と、短い腕を伸ばして言った。
「外? 今人が沢山いるからな、窓の外から眺めるだけでもいいか? 迷子になったら大変だし」
ジェフが迷子になったら大変――というよりは、単純に俺が外に出たくないのだ。
警察にもゴシップに目がない記者たちにも顔を覚えられているし、今外に出れば五時間は拘束されかねない。
ゼフ・クリフの他殺事件は、ダイアナが運び込まれたリーベッツの病院の医師が彼女の体に「残虐な虐待の痕跡」を発見したことや、俺たちが事件の直前に行方不明騒ぎを起こしていた発覚して報道が加熱した。
アーベントの名士一家を巡るスキャンダルの現場に居合わせていた唯一の余所者の俺も、記者たちの格好の的になって、暫くはまともに家から出られなかったくらいだ。
何故クリフの一族でもないのにそこに立ち会っていたのだとか、事件の経緯はどうだったのか、何故二人で行方を眩ましていたのか――邪推を呼ぶだろう「何も知らない」という言葉を避け、自分の感想を徹底的に排除した必要最低限のごくつまらないことを何度も何度も端的に繰り返せば、記者たちは俺からは有益な情報が得られないと理解して何も尋ねに来なくなった。
とはいえ、ダイアナが帰ってきたとなればまた俺に対する注目が再燃するかもしれないのだ。
「いいよ、なんでひとがいるのかな?」
「さあ、暇なんじゃないか? 叔母さん、少しジェフと上に行ってきます」
椅子からジェフを抱き上げ、普段の態度について兄弟たちに文句を言っている叔母にことわりをいれる。
「あんたの勝手にしな」こちらを向きもせずに語気を強めた叔母の気を損ねないように足音を立てずに部屋をすり抜け、しがみついてくるジェフが「あっち」と命令してくるのに大人しく従って上の階に上がる。
それからクリフの家のある方向を向いている廊下の突き当たりにある窓を片手で開いた。
額を撫でる温い風と共に香ってきたのは、潮の香りが混じった青い草の匂い。
「ほら、見えるか?」
柵の周りの人だかりは十五、二十人は下らないだろうか、記者らしき人間もいれば興味本位で来ただけらしいのもいる。
俺と同年代の男女の不良集団もいて、その中には以前ダイアナに対して品性の欠片もない考えを抱いていた二人組もいた。
そんな人間たちを牽制するようにマーサさんが箒か何かを逆さに持ち、玄関に居座っているのも見える――時折女たちの甲高い不愉快な笑い声が聞こえてきて、ますます今は外に出れないな、と思う。
あの女たちはどうしてか俺の顔が好みらしく、すれ違うだけでにたにたと笑って「綺麗な顔ね」だとかなんとか言って俺に擦り寄ってくるのだ。
その上俺の気を引きたいのかダイアナは腹黒だの周りの男たちをたぶらかしてるのだの囁いてくるし、実際そうであるのかそうでないのかは別にして本当に不快極まりない。
「うるさいねえ」
「いつもうるさいんだ、あの集団は。耳にも悪いしもう窓を閉めてもいい、か……」
そう言って窓に手を伸ばそうとした時、遠くの方から地響きのように唸る低いエンジン音が聞こえてきたのに気が付いた。
エストゥーサではよく聞いた、けれどアーベントではまだ片手で数えるくらいしか聞いたことのない音――伸ばした腕を止め、音が聞こえてきた方に身を乗り出して覗き込む。
車だ。車がクリフの家に向かって走ってきている。
「なあに、こわい」
聞き慣れない音に恐怖心を抱いたジェフがそう俺の肩を叩きながら訴えて、でも、だからといって窓際から離れられない。
「ごめんごめん」と片手で耳を塞いでやって、車が人を轢き殺さんばかりの勢いで突き進んでクリフの家の前に止まったのを見た。
四人乗りの、五年前から急速に広まり出した黒塗りの量産車。
その助手席の方から
「なんだお前ら、見世物じゃねえぞ!」
と、なにか棒を持ったオリバーが怒鳴りながら飛び降りてきて、その横から初老の男性が彼を追って慌てた様子で出てくる。
あまりの剣幕に怯んだ群衆は蜘蛛の子を蹴散らすように消えていって、最後まで粘ろうとしたあの不良集団もオリバーに何人かが蹴飛ばされると悪態をつきながら尻尾を巻いて逃げていった。
あんなに俺に対してはしつこかった記者は早々に逃げたらしい、きっと以前にも取材を試みて同じ目にあったのだろう。
「すごいなあれ、軍に入った方がいいんじゃないか」
見習いたいとは思わないが、あれくらいしないと必要な時に大事な人間を守れないものなのだろうか――何かを話している二人を遠目で見ながら、後部座席に人影を探す。
遠目からでよく見えなかったが、誰かがそこに座っているのだけは分かった。
暫くして、車の中に上半身を差し入れたオリバーがその手をとる――覚束無い足取りで出てきたのは、無造作に長い髪を下ろした少女。ダイアナだ。ダイアナが帰ってきたのだ。
こちらに横顔を見せた彼女の左目は、黒い布、眼帯に覆われている。ああそうか、やはり彼女の瞳は、もう。
「……そう、だよな」
分かっていた。
分かりきっていたはずだった――森を閉じ込めたような、あの美しい瞳が永久に失われてしまうだろうことは。
彼女はそうなることを望んでいたのだろう、顔を殴られても怯むことなく立ち続けていた彼女は、分かっていてゼフの怒りを引き出すために挑発したのだろうから。
けれど、俺は。彼女に何かを言える権利もないのに、それを嫌っている。
――不意に、ダイアナの視線が俺を射抜いた。ぞくりと肌が粟立ち、跳ねた心臓に目を見開く。
「なんで――」
そう呟いて、でも、彼女はそのまま去っていった。
腕の中のジェフが俺を見上げて「どうしたの」と大きな榛色の瞳を瞬かせる。呆然としていた俺は、その声に現実に引き戻されて「なんでもないよ」と引き攣った顔で笑いかけた。
早く――可能な限り早く、ダイアナに会いに行かなければならない。
不思議そうに首を傾げるジェフを抱き直し、窓を閉じる。
波を打つようにはためいていたカーテンが静まったのを後ろ目に見ながら、俺は早足で階下に降りていった。




