30 出来損ない
ゼフは死んだ。
あっけないくらい簡単に、彼の体は生きるための機能を停止したのだ。
どさりと崩れ落ちた大きな体が草むらに埋もれ、姿を隠す。
その瞬間に糸が切れたようにばたりと座り込んだダイアナは、左目を覆って痛みに打ち震えていた。
「ダイアナ!」
「あ……グレイ、ソン」
ランプを持って彼女の元に駆け寄り、背中に手を添えて寝転ばせる。
隣で頭蓋の中身を散らしたゼフと彼女の間に身を置いて、血に濡れたダイアナの額に張り付いた髪を払い、傷を覗き込んだ。
美しい彼女には似つかわしくない、額に刻まれた大きな裂傷――跡が残るに違いないその傷の下で、彼女の左目の白目が赤く充血していた。
「まずいな、目を殴られたのか?」
後から歩いてきたオルティスさんがダイアナにそう尋ねて、それからゼフの死体の胸元を掴んで浮かし、ゼフの頭を貫通したらしい銃弾を回収した。
証拠の隠滅のためなのだとしても人の中身に触れたそれに躊躇いなく触れられるオルティスさんを恐ろしく感じて、でも、そこまでしなければダイアナを守れないのだ、と思い知る。
「はい、思い切り、殴られて……」
「見え方はどうだ、二重に見えるか?」
「……かすんで見えます。でも、視野が……」
「視野が欠けて見えてるんだな?」
「たぶ、ん」
途端、オルティスさんの顔が険しくなった。
「余計なことしやがったな」と舌打ちして、俺に向かって
「今すぐオリバーかマーサに目の医者を用意するよう言ってこい、失明するかもしれん」
とがなった。
思わず声を漏らした俺は、でも、ダイアナの目に今何が起きているのか察して、ランプを掴んで立ち上がった。
アーベントの医療ではこの状況に対応できるはずがない。そもそも最先端の医療でさえ彼女の目を守りきることができるのかどうか。
「アーベントの医療でどうにかなるんですか?」
「ここじゃ到底無理だな、リーベッツに頼るしかない。あそこなら手術も受けられるだろうが……クリフの縁を使えば医者の調達も簡単なはずだ」
どくん、と、心臓が跳ねる。
ぼんやりと俺を見上げるダイアナが「そんなに悪いんだ」と薄く笑った。
その表情はそうなることを望んでいるかのようでいて、冗談じゃない、と心の底から強く思う。
「俺たちは今からヘイゼルの所に行く――朝が明ける頃には全てが終わっているはずだから直ぐにダイアナを迎えに来い。グレイソン、お前のすべきことは分かってるな?」
「分かり、ました」
「なら走れ!」
オルティスさんの怒号に弾かれるように走り出す――あの二人と一緒にいたい、なんて思っちゃいけない。オルティスさんの最期を看取りたいとも、ダイアナを一人にしてしまいたくないとも。
下り坂に差し掛かって、一度だけ振り返る。その時にはもう、二人は夜の闇の中に消えていた。
◇◇◇◇
社交的でなんでも平均以上にこなしてみせた出来の良い姉と、引っ込み思案で姉の後ろについて回ってばかりいた出来の悪い妹。
それが私たち、クリフの双子。
同じ顔に生まれて、でも、私と姉の間にある隔たりは大きかった。
誰よりも近くにいながら、手の届かない人――褒められるのはいつも姉の方で、姉よりも小さく生まれた私は可哀想に思われる方だった。
「ダイアナ、お前にはどうしてそんなに自分が無いんだ? お前にはお前なりの長所があるだろうに、いつまでもディランの腰巾着のままでいるつもりか?」
呆れ返ったオルティスおじさんにそう言われても、おじさんの家に入り浸って本を読むことができるのなら私はそれで良かった。
ディランに「根性無しね」だとか、「のろまなんだから」と言われても、私は私の時間を大切にしたかった。
でも、あの日。お父さんがゼフに殺された日。
あの日は、一日中雨だった。
仲間の船に乗せられて帰ってきたお父さんは、動転しきったゼフに何をするよりも早く土下座した。
サリーとエリーゼに頼まれて二人と一緒に海に出たこと、海に投げ出された二人を救い出せなかったこと。
名うての漁師だったお父さんが穏やかなアーベントの海の波を間違えたはずがない。
二ヶ月経った頃に他の漁村に漂着して戻ってきたお父さんの船の側面には、他の船が追突したような跡があったらしくて、でも、結局真相は分からない――お父さんは謝るだけ謝って、事実を語る前に殺されてしまったから。
「……ダイアナ、絶対に殺そう、あの人」
まだ六つの子供が囁くには、あまりにも重すぎる言葉。
血塗れのお父さんに縋り付いて涙を流すディランは、獣のような恐ろしい目をしていた。
気が狂ってしまった伯父さんが私たちをどうするかなんて分からないのに、感情の激流に呑まれたディランは伯父さんに反抗する道を選んだ。
「駄目だよディラン、あの人に反抗しちゃ駄目」
「じゃあどうしろっていうの? 大人しくあの気狂いの言うことを聞いていたらいつか本当に殺されるよ、私はあんたみたいになりたくない」
お母さんからもオリバーからも引き離されて、それなのにディランは危なっかしいことばっかりして。
エリーゼに雰囲気が似ている私がいれば伯父さんも少しは落ち着いたし、ディランも私を巻き込んでまで喧嘩を売ろうとはしなかったけれど、私が望むように大人しくはしてくれなかった。
二人でクリフ家が運営している牧場まで行って一日をやり過ごし、互いの傷をこっそりと手当しては、また伯父さんに打たれて怪我をして。
何年経っても消えない傷は、体にも心にもある。伯父さんが一番不安定だった時期にずたずたに鞭で裂かれた背中は、もう誰にも見せられない。
そんな先の見えない日々を一年耐えきった頃、ディランが森の中で出会ったのだという人を私に紹介してきた。
ロマンス小説の主人公のような甘い赤毛の持ち主の、酷く痩せこけた女性――彼女は私を見るなり涙を流して両膝をつき、私の腕の痣を優しく擦りながら
「会えてよかった」
と、言った。
初めて会うのに、どこか懐かしさを覚えるその温もり。
ヘイゼルと名乗ったその人は、私の頬に恐る恐る両手を伸ばして、それから強く抱き締めた。
その時は知らなかったけれど、亡くなってしまったヘイゼルの娘と私たちは瓜二つだったのだと。
名前の由来を問われて、祖父がつけてくれたものだ、と答えると、彼女はまた泣いた。
「そう――そう、ルイはお元気?」
どうしてヘイゼルが祖父の名前を知っているのだろう、と疑問に思ったけれど、幸福そうに微笑む彼女にその疑問を投げかけることは出来なかった。
五十になってからようやく母と伯父をもうけた祖父は頑なに若い頃のことを話さなかったし、きっと何か深い事情があるのだろう、と思ったから。
「二年前に亡くなりました」
「名前の由来は教えてくださったの?」
「ええと……ずっと昔に死んじゃった大切な人の名前、って言ってました。でもそれ以上は教えて貰えなくて……ディランも確かそうだったよね?」
「よかった、あの人は憶えていてくださったのね」そう言って涙を拭ったヘイゼルを、私とディランは本能的に私たちと同じ存在ではないと察知していた。
けれど私もディランもヘイゼルの優しさを知れば知るほど、私たちは溺れるように彼女に夢中になっていった。
彼女がクリフ家への呪詛を吐こうとも、私たちから離れていった母と重ねて、ああ、この人が本当の母親だったらいいのにと、これから先三人で生きていけたらいいのにと――でも、私はディランを殺してしまった。何よりも残酷な方法で、誰よりも大切な片割れを。
最初は、ほんの些細な意地悪のつもりだった。
いつも私を下に見てくるディランを寝ている間に小屋に閉じ込めて、ほんの少しだけ怖い思いをさせてやろうと思っただけだった。
そうすれば私の忠告も聞き入れてくれるようになるかも、だなんて思ったから。
念の為に窓から外に出られるように足場も作ったし、ランプも置いておけば夜になっても怖くないだろうから、と。
――小屋に火がついたと気がついた時のことは、よく覚えていない。
私が念の為に開けておいた窓ではなく、塞いであった扉に向かって倒れていたディランは、見つかった時にはもう人の形をしていなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――何百回、何千回、何万回と叫んだその言葉は、もうディランには届かないのに。
愚かで出来の悪い妹は、ほんのちょっとの意地悪で憧れの姉を殺してしまった。
狂ったように泣き叫ぶ私を慰めようとする人は多かったけれど、全ては私がしたことなのだ。
私よりディランを可愛がっていた母とは、葬儀以来会っていない。
私の頬を平手で何度も打った母は、私のことを「人殺し」と憎悪を込めて呼んで、「お前が死んでしまえばよかったのに」と絶叫した。
オリバーはそんな母を突き飛ばして、代わりに私のことを強く抱き締めてくれたけれど、賢くて可愛い娘を殺した出来損ないの片割れを憎む母親の気持ちの方が余程理解できたのだ。
(ディランじゃなくて私がいなくなればよかったんだ)
だから私は「ディラン」になろう、と、決めた。
あの子みたいに明るくて社交的で、それでいながら強かで――ディランが亡くなってから同年代の子供たちと接することを許されるようになって、そこで私はディランの真似をし続けた。
幸運なことに私には役者の才能でもあるらしく、自己暗示がとびきり得意で、小さい子たちには慕われ、男の子たちからも不本意ではあるけれど人気になって。
ヘイゼルもオルティスおじさんもオリバーも嘘で着飾った私のことを心配してくれたけれど、私にとっては「ダイアナ」のままでいる方が遥かに苦痛だったのだ。
希死念慮に苛まれ続け、私を守ってくれるオリバーに抱いてはいけない感情を抱き、伯父さんには殴られ続け。
あんなによくしてくれたオルティスおじさんさえ、ヘイゼルを見捨てたのだと思うとどうしても許せなくなってしまって。
いつでも自分の好きな時に「終わり」を迎えられるように洞窟に用意していた縄の存在で自分の命を辛うじて繋いで、でも、もう無理だった。
首に縄をかけて宙に浮いた時に感じたのは、後悔ではなく無限の安らぎ。
これで楽になれる――意識を失う直前に瞼の裏に浮かんだのは、出会ったばかりの首都から来た男の子の顔。
アーベントの生まれではないあの子ならこんな私にも手を差し伸べてくれたりするのかな、と思いながら、ああ、明日の約束をしていたのに、あの子がここに迎えに来てくれたらいいのに、なんて。
どこまでもどうしようもない嘘つきな私は、宙ぶらりんになるしかなかった。




