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29 確かな「愛」


 長い道を歩いた先に辿り着いたそこ(・・)は、異様な静けさに包まれていた。


「どう? いい眺めでしょう」


 風が吹くたびに波のようにうねる、柔らかな曲線。夜の闇に浮かび上がる、ぽつぽつとまばらに光る街灯り。


 そしてその向こう側にある、圧倒的な質量の黒――人々を狂わす怪物のような海が、月の光を浴びて輝いていた。


「……うん、あの丘よりもよく見下ろせる」


 ダイアナの精神を映し出したあの世界で見たものと相違ない光景。


 ディランが死んだ小屋はどこにも見当たらないけれど、それがあった場所には代わりに少女の石像が立っていた。隣には小さな納屋があって、見える位置に斧や何かの用具が置かれている。


「相変わらず辛気臭い場所だな、ここは。ついてこいグレイソン、俺の作品を見せてやろう」


 叔母たちの家が建つ丘よりも標高が高いはずなのに、海のさざめきはより聞こえてくる――オルティスさんに呼ばれて柵で囲われている小屋の跡地まで行けば、椅子に腰かけて誰かと話をしようと身を前に乗り出した少女の石像と、よく手入れされている様子の色とりどりの小さな花畑がそこにあった。


 石像の台座に刻まれている名は、ディランのものだ。すぐ傍に膝をついたオルティスさんがその石像の汚れを払うように撫でるのを、俺は横でただ見守る。

 高名な彫刻家が手掛けたのだと言われても納得できるその石像はディランをなぞらえたものなのだろう、そしてその隣で話をしているのはダイアナに違いない。


「この子にも海が見えているといいんだけど」


 静かな足取りで歩いてきたダイアナが、石像の額にそっと口付けを落とす。


 それからオルティスさんの隣にしゃがみ、袋の中から花を何輪か取り出して台座に置いた。ひとりきりで暗闇の中に立って海を眺めているゼフの顔は、見えない。


「ごめんね、どうしてあの時に限って意地悪なんかしちゃったんだろう」

「ダイアナ」

「大丈夫だよ、グレイソン。ここにいる時は昔の私に戻れるって言ったでしょう? ただ……謝りたいだけなの、いくら謝ったってもうディランには届かないのに」


 頭を垂れて地面に手をついた彼女の肩に、オルティスさんが腕を回した。潮の匂いが混じる夜の空気が通り過ぎていく中で、俺は空を仰ぐ。


 昔母が読んでくれた童話の中に、死を迎えた人々は天に還った後、夜空に輝く最も明るい星から放たれる光となって地上に遺された人々の元へ帰りつくのだ、と描いたものがあった。

 それは死というものを意識し始めたばかりの子供たちにささやかな安らぎを与えるための、ありふれた話。科学技術の発展が著しい世の中には相応しくない、子供騙しの話だ。


 けれど、それは誰かを救うための話だった。


 人間が人間である以上捨てられない感情――寂しさや孤独感に飲み込まれてしまわないための、せめてもの存在の存続の願いなのだ。


「もうあの子の声すら思い出せないの、あんなに一緒にいたのに――ねえディラン、出来の悪い妹でごめんね」

 

 ふと、彼女がゆらりと立ち上がった。


 背筋を真っ直ぐに伸ばし、眉を下げて微笑んだ彼女が「お父さん」と、そうゼフに呼びかけた声は優しい。


「失いたくない愛を自らの手で失ってしまっても尚、愛を求めることは愚かでしょうか?」


 ざあ、と風が吹く。


 亡霊のように生気のない表情でこちらを向いたゼフの元に、ダイアナが歩み寄って行く。

 何かを取り出そうと鞄を探る彼女の手さえ穏やかに見えて、本来の目的も忘れてしまいそうになる。


「……さあ、どうだろう。愛というものの定義はあまりにも広すぎる」

「貴方は私を愛してくださいましたか?」

「どうしてそんなことを聞くんだい?」

「ただ知りたいだけです、私はまだ貴方を愛せるのか、と」


 そう言ったダイアナが鞄から取り出したものを、ゼフの手に乗せる――拳銃ではなく、あの(・・)巻貝。あ、と思うもなく、ゼフがその巻貝を持った手でダイアナの顔を強く打った。


 どん、と、明らかに異常な音が鳴る。


 彼女の元に駆け出そうとして、でも、真っ直ぐに立ってゼフを見上げる彼女の後ろ姿に、息を止めた。彼女の邪魔をしてはならないんだ、と。


「なんのつもりだ」

「貴方の親友であったタイラーを、彼の娘の目の前で殺したのはどうして? あの時のことを今も夢に見るの、お父さん、お父さんお父さん――動かない体をそう揺さぶり続けて、でも貴方はそんな私たちを見下ろして泣いている。サリーとエリーゼの名前を叫ぶ貴方は私たちにも銃口を向けて、でも引き金を引くことができずに血まみれの手で私たちを抱き締めた」


 獣のような唸り声をゼフがあげる。


 彼が手に持つ貝殻から、ダイアナの血がたらたらと垂れていた。

 淡々と語る声が僅かに震えているのは、感情が高ぶっているからなのか、それとも痛みからなのか。


「言うな」

「あの時に思ったの。貴方は本当に優しい人だから、貴方の娘を死なせたタイラーを憎み切れなかったんだと」

「お前に私の何が分かるんだ!」

「……どんなに殴られても蹴られても、私は貴方の優しさを信じてた。その貝を受け取ることを拒否したのだって理解できるし、狂ってしまった貴方がいつか昔みたいに戻ってくれるかもって……願ってたの、どんなに痛くても苦しくても、それでもその先に希望があるならって……でもね、もう無駄なんだって分かった。私にオリバーと関係を持てって迫る貴方の目を見て、それが正しいことだと信じる貴方は、ああ、もう救われないんだと」


 オルティスさんが背負っていた猟銃を無言で構える。


 顔の左側を押さえて荒い息遣いで話すダイアナが、後退って首を横に振るゼフを追い詰めるようにまた一歩、二歩と足を踏み出す。


 今にも倒れてしまいそうなくらいにその足は震えているのに、それなのに彼女は。


「本当はそんな自分が恐ろしいんでしょう? 自分が自分でなくなる恐怖は私も知ってます、だからこそ父を、タイラー・クリフを殺した貴方を慕っていたかった。お父さん、私は貴方を愛してる。愛してるからこそ殺さないといけない」

「ダイ、アナ……違う、私は……」

「お願いお父さん、これ以上憎んでしまいたくないの! もう……もう終わりにしよう、これ以上苦しみたくない」


 ゼフに銃口を向けたダイアナが叫ぶ。そんな彼女を呆然と見つめたゼフが巻貝を取り落とした。


 空白が空く。ああ、とゼフが震えた息を吐いたのが、遠くからでも聞こえてきた。


 それから異様に長い両腕を広げた彼は「すまない」と力無く繰り返して、


「私を……私をあの子たちの傍にいかせてくれるのかい? 私はあんなにも――あんなにも君に残酷なことをしたというのに」


 と、大きく足元をふらつかせたダイアナを強く抱き締めた。


「愛しています、から」


 ――なんて残酷なのだろう、抱擁し合う二人は本当の親子にしか見えない。


 もしダイアナの父がサリーとエリーゼを連れて海に出ていなければ、娘を亡くしたゼフが病んでしまわなければ、ディランが生きていたら。


 覆らない時間を遡って仮定を繰り返したところで、意味は無い。

 必ず訪れる未来に僅かでも希望があることを期待して、ひたすら歩き続けるしかないのだ。


「……この分じゃ俺たちの出る幕は無さそうだ、ゼフも案外死にたがりだったらしい。グレイソン、後であいつの怪我の様子を見てからどうするか決めるぞ」

「そう、ですね」


 溜息混じりのオルティスさんの言葉に曖昧な返事を返して、石像の前に供えられた花々に目を向ける。

 ゼフに手折られたその美しい花は、既に輝きを失いかけていた。


「それにしても酷いもんだな、最悪な依存関係だ。いくら気を病んでいようが暴力に支配された関係に愛も何もないだろうに……あいつの体に刻まれた傷はその一言で済ませていいもんじゃない」


 多分、オルティスさんの言う通りだ。ダイアナの自分自身を守ろうとする防衛反応が「愛」を誤認しているだけなんじゃないか、とも思う。


 自分が悪いから仕方がない、いつか昔のように愛してくれるはずだ――大切な人間を失って精神を病んだ者同士の、最低最悪な共依存。


 決して美談にできないそれは、果たして本物の「愛」だと言えるのだろうか。

 それともこれもゼフを油断させるための、ダイアナの嘘だというのか。いや、でも。

 

「怒りを抑えることも知らずに君を傷付けてしまう私を殺しておくれ、自らの頭に銃口を向ける勇気すら持ちえなかったこの臆病者のためにも」


 暗闇に隠されたゼフの表情は見えなくとも、その声が愛情に満ちていることは痛いくらいに伝わってくる――それだけは確かな「愛」なのかもしれない。


「もっと早くこうするべきだったんだ。ダイアナ、仇を討ちなさい、命よりも大切な娘たちを失った男が、お前の大事な父を怒りのまま撃ち殺したように――その権利が君にはある。私がせめてもの理性を保てている間に、どうかひと思いに海に沈んだあの子たちのところにいかせてくれるかい?」

 

 天を仰いで跪いたゼフの眉間に、ダイアナが銃口を当てる。

 「お父さん」そう呼ぶ彼女の声は穏やかで、痛ましいくらいの優しさで一杯だった。


「ディランのために一緒に花を育ててくださって、本当にありがとうございました。どうか向こうであの子に伝えてください――私は貴女の願いを果たせたと」


 ぱん、と、死を知らせる乾いた音が響く。緑に満ちた大地は、流れる赤に染まっていった。


 

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