28 北極星
「決行」に向けての準備は、着々と進んだ。
夕食を終えて用意の為に一度部屋に戻った各々を玄関で待っている間、壁から取り外した猟銃を背負ったオルティスさんが俺に
「油断するなよ」
と囁いた。
「当然でしょう」と言い返す気力も無く、大人しく首肯だけを返す。
これからオルティスさんは死ぬ――ダイアナの手にかけられて、ヘイゼルと共に永遠になるのだ。
着実に迫る時間が今になって心臓を締め付けだして、目の前の尊敬に値する人をみすみす失ってしまいたくない、と思う。
暗い玄関先に置かれたランプの光から目を背け、黙って拳を握る。優先するべきはダイアナだ、けれど。
「なんだ、その顔は」
「今夜のことを考えているだけです。……本当にいいんですか、オルティスさんは?」
そう尋ねると、オルティスさんが驚いたように僅かに目を見開いた。
それから首を動かして壁に掛けられた肖像画や写真たちの方を向き、髭に隠れた顎をゆっくりと擦りながら「別に構わない」と呟いて。
「存在すらも忘れられた行方知らずの亡霊にようやく会えるんだ、それ以上の喜びはないだろうよ――ずっと探し続けていたんだ、恨まれているだろうと知ってはいたがな、せめて弔ってやりたかった」
寂しさと、少しばかりの幸福が入り混じる老成した横顔。
罰を受けることを望んでいるかのようでいながら、美しい過去を語るようでもいる語り口。
俺には手の届かない領域に立つオルティスさんが見てきた景色はどんなものなのだろうか。
荒廃しているのか、それとも緑豊かな美しい風景か。
きっと分からない。分かる日が来たとしても、それは終わりに近しい日だ。
「……彼女の娘はどうなったんですか?」
喉を鳴らして、詰まりながらそう問うた。
今しか聞けないと思ったのだ、あの日記を目にした時からずっと抱いていたこの疑問を。
娘と共に逃げたヘイゼルの末路を思えばその答えは簡単に導き出せるような気もするけれど、それでも希望が欲しかった。
オルティスさんがゆらりと振り返る。
その目を見た瞬間、全てを悟った。
俺が想定していた通りの答えが、真実であるのだと。
「死んだよ――見つからなかったと兄が言っていた」
「そう、ですか」返す声が詰まる。
それはヘイゼルが何人ものクリフ家の人間を引き摺りこんで殺すわけだ――己のみならずまだ四つの幼い子まで殺されたのなら、底無しの復讐に燃えたっておかしくはない。
あの陰気な森に六十年も囚われ続け、今もひとりきりで時が過ぎるのを待ち続けている彼女は、一体どんな思いで。
「ごめんなさい、遅くなって」
そう考えている内に肩から斜めに鞄を提げたダイアナが上階からかんかんと踵の低いブーツを鳴らして駆け降りてきた。
長い髪を後ろで一本の太い三つ編みにし、白いシャツに新緑色のスカートを履いた彼女は様子を伺うように一度辺りを見回して、それから安堵したように「私の方が先ね」と胸を撫で下ろす。
「グレイソン、何も見ずにこれを鞄にいれて」
ケープの下に隠された手が、すれ違いざまに俺の手に何かを押し付けた。
その固い輪郭を指先で辿ろうとすると、「いつあの人が来るか分からないから早く」と急かされて。
「分かったよ、でもこれ……」
「拳銃。もしもの時にはこれを使って、一番大事なのは貴方の命だから」
そう囁かれれば、疑問を抱くより先に言う通りにするしかなかった。
素早く鞄にそれをいれたのとほぼ同時に、服を着替えたゼフ・クリフが廊下の奥から顔を出す。
棒切れのような体格はまるで骸骨のようで、「私が一番遅かったか」と冗談めかして肩を竦める所作にも不気味さがあった。
「ああ、ダイアナも着替えたんだね」
「ええ、あれは汚してもいい服ではありませんから。お父さんは何を持っていらっしゃるんです?」
「大したものじゃないよ、少し庭で花を摘んできたんだ。あの子が喜ぶだろうかと思って」
がさり、と、ゼフが持ち上げた袋が音を鳴らす。
それを見た瞬間、ダイアナが息を呑んだのが分かった――「どうして」と焦ったように呟きながらその袋をさっと受け取った彼女が中を覗く。青や紫や赤、黄色。あらゆる色の鮮やかな花々がその中にある。
「……覚えていらしたんですか? あの子が好きだった花を、全部」
「当然だろう、私はあの子の父親なんだ。それに最初は何も無かったあの庭に種を蒔こうと提案したのは君じゃないか、覚えようとしなくても覚えるよ」
微笑むゼフに肩を抱かれたダイアナの手が小刻みに震えていた。
何も――何も知らなければ、この男がどんなに素晴らしい人間なのか感嘆していたことだろう。
清廉潔白な顔をして彼女たちの「父親」だと名乗る男に感じた恐怖を表に出してしまわないように二人から顔を逸らす。それから扉を見て「そろそろ行きましょうか」と声を掛けた。
「あ……うん、そうだね、朝に帰るのは嫌だもの」
我に返ったように顔を上げた彼女が逃げるようにゼフから離れ、俺とオルティスさんの間をすり抜けて扉を開く。
「私が案内するから」そう口角を上げて振り返った彼女の表情は、固い。
それから彼女は玄関先に置かれていた二つの灯油ランプを持って、その内の片方をオルティスさんに渡す。
片手に持った袋を胸元に抱いて、俺に向かって「綺麗なんだよ、本当に」と眉を下げて囁き。「ほら」と、俺に足を踏み出すように促した。
背を向けて歩き出した彼女を追い、外に出る。
内陸にあるエストゥーサとは違い、海沿いで昼と夜の寒暖差が小さいらしいアーベントの夜風はぬるかった。
「アーベントの夜はどうだい、グレイソン君」
後ろから声を掛けられ、振り返る。オルティスさんの横に並ぶゼフと俺の距離は空いていた。
「……過ごしやすくていいと思います、南方なだけあって昼も温暖ですしね。エストゥーサの夜は冷え込むのでこんな服装じゃ快適に過ごせませんよ」
そう目を見ずに返し、自分の胸元を掴む。
下に肌着も着ているとはいえ、この薄いシャツなら夏でもエストゥーサの夜は快適に過ごせない。
その肌寒さがいいんじゃないか、男なら寒さに負けるはずがない、と冬でも薄着の同級生が熱弁していたものだけど、結局そいつは道行く女子たちに自分の強さを誇示したいだけで、実際はよく教室のストーブの前にいたものだった。
「ああ、若い頃に首都に行った時は服装選びに難儀したよ。この気候に慣れていたから平気で薄いのを一枚だけ着て外に出て後悔したものだ」
「法学か政治学でも学ばれていたんですか?」
「地方政治について、ね。君は高等学校でも優等生で通っていると聞いたんだが、将来は何を学びたいんだ?」
吹いた風に揺れた木々が音を鳴らす。「将来は何を学びたいのか」――問われたくない未来の話だ、やりたいことも目指すべき道も何も見出せていない現状を突きつけられるばかりの問い。
「そうですね」何と答えるべきか、歩みを止めることなく空を仰ぐ。
幾千万もの星々が瞬く暗闇の中に自然と星座を描いて、それから最も明るく輝く青白い星を一点に見つめた。
あの一等星のようになれずとも、辛うじて存在を認識される六等星のように、せめて誰かに認められる人間になりたい、とは思う。
「……まだ分かりません、父のように尊敬に値する軍人を目指すべきなのか、それとも違う道を模索するべきなのか。ただ、誰かに認められる人間にはなりたいです」
高い地位に就くことは、果たして幸福だと言えるのだろうか。
物質的な充足は得られても、精神的にはどうだろう。
母を愛していた父は階級の高さゆえにまともに家に帰ることも出来ず、二年間離れて暮らした挙句に母の死を電報で知ったのだ。
「そうかい、君は――」
「認められる人間ってどういう人?」
不意に、ゼフの言葉をダイアナが遮った。
「社会的に? それとも親しい人に信頼されるとか?」
「いや……強いて言うなら後者、かな」
「そう。それなら貴方は優しいから絶対に大丈夫」
振り返らない彼女の華奢な背中に、長い三つ編みが揺れる。
彼女の言葉の意図を測りかねて戸惑っていると、呆れたようにゼフが声を上げた。
「なんだからしくないな、心境の変化でもあったのかい?」
「自分を見つめ直す時間が沢山ありましたから。もしグレイソンがいなかったら死んでしまっていたのかも、あの時からこの人だけは絶対に信頼できるって思ってるんです」
そう肩を竦めてゼフに笑いかけた彼女の美しい横顔に、心臓が止まるような思いがした。
こちらを向いて前方を背に歩き出した彼女の肩に「危ないから前を向くんだ」と手を置いて、でも、その目を見てしまわないように顔は逸らす。
太陽――否、暗闇の中でも道を見失わないように導いてくれる、北極星。
ダイアナ自身にはその気が無かったのだとしても、彼女の言葉や振る舞いは俺にとってのそれであってくれる。拠り所の無い俺に、目標や希望を与えてくれる存在。
「分かってる。でもね、グレイソン、私はちゃんと貴方のことを見てるから――なんて、ね」
星を散らばしたように輝くその瞳が、いつか俺に向かって確かな想いを映し出してくれたらいいのに。
そんな高望みをして苦しむのは自分だと分かりきっていても、そう願わずにはいられなかった。




