27 役者
重い緊張感に包まれた食卓の上に並ぶものは、叔母の家のものとさほど差は無かった。
パンにジャムやスープ、それから適度な野菜と簡単な魚料理。
黒檀の昔風の椅子や机はかつてのクリフ家の権威を物語っているようでいて、蝋燭のようにぼんやりと明滅を繰り返す橙色の古ぼけた照明がそこらに影を落とす。
目の前に座るオルティスさんはいまだに戻ってこないゼフ・クリフを待っているのか、背もたれにもたれて両腕を組み、瞼を閉じていた。
つい先程帰ってきたばかりのオリバーは何も気にせずに俺の隣でパンの山に手を突っ込んでいて、榛摺のケープを羽織った斜め前のダイアナは静かにスープを飲んでいる。
「グレイソン、食べないの?」
誰に追随するべきか考えあぐねていると、不意に顔を上げたダイアナがそう言って首を傾げた。
彼女と目が合った途端、十分程前に俺たちがしていたことが鮮明に思い出されて内心焦りながら
「あまり食欲がないんだ」
と微塵も思っていないことを口にする。
彼女は何も気にしていない様子だけれど、俺たちは口付けを交わしたのだ――ゼフ・クリフに殴られた時に唇と頬の内側を切っていたらしく、血の味がしたそれは俺にとってどれだけ甘美なものだったか。
ダイアナには想像もつかないだろう、俺自身も自分が抱いていた想いの大きさを測りかねていたくらいなのだから。
「三日も碌に食べていなかったんだろ? 腹が受け付けなくても無理矢理口に詰め込んどけ」
「分かってますよ、それくらい。それよりゼフさんがいなくてもいいんですか?」
例に増して不機嫌そうなオリバーにそう尋ねると、露骨に顔を歪めた彼が「いいに決まってるだろ」と大仰に溜息をついた。
本当にこの手の人間とは相容れないな、と心底思う。
顔だけはダイアナの兄なだけあって滅多に見ない美男子だが、敵と認識した相手には徹底的に突き放す態度をとるあたり、どんな相手にもせめてもの敬意を払いたいと思う自分とは真逆の存在なのだ。
ダイアナもその態度に不満を抱いたのか「グレイソンは私の大切な客人なの、その態度はやめて」と眉を顰める。
オリバーもそれにたじろいだらしく
「お前のためだよダイアナ、こういう若い女が黄色い声をあげて崇め奉る類の顔の男は大体女を弄ぶことを生業にして生きているんだ」
と、身も蓋もない罵倒を繰り広げてきた。
「オリバーっていつもそう、私を守りたいって思ってくれてるのはありがたいけどグレイソンにまでそういう偏見を押し付けないで」
「騙されるなよダイアナ、今までは俺がお前につく悪い虫を懇切丁寧に潰してきてやったんだぞ。男ってのは目的のためならどんな皮でも被るんだ、誠実な紳士が蓋を開けてみれば……ってのはよくある話だからな」
「それは実際の体験談?」
「ああ、三十五にもなる男が紳士ぶってお前のことを狙ってたんだ。俺を通してどうにか接点を持とうっていうんで、当然二度と馬鹿げた考えを持てないように教育してやった。対外的には俺がお前の婚約者ってことになってるけどな、それでも隙を狙ってくる異常者は山ほどいるんだよ」
「……誇張ではなくて?」
「俺を信じろダイアナ! なあグレイソン、お前も思うよな、俺の可愛いダイアナはもっと危機感を持つべきだと!」
そう声を張り上げて俺の肩を思い切り叩いたオリバーに呆れ返ったダイアナが首を横に振り、「相変わらずだな」と眉間に皺を寄せたオルティスさんが溜息をつく。
「クリフ家にはどうも異常者が多いらしい。グレイソン、お前には厄介をかけるな」
「俺が異常者だって?」
「事実だろう。餓鬼のようによく喚くな、お前は」
「よく喚いてダイアナを変な輩から引き剥せるなら俺はいくらでも狂人になりますよ、狂人であることが俺の人生をより良くしてくれるなら世間体なんてどうだっていいじゃないですか」
オリバーが鼻で笑う。事の経緯からして彼が唯一の妹を守ることに躍起になることはよく分かるしそうすべきだと思うが、それにしても、という段階だ。
憂鬱そうに胸の前でケープを掴んだダイアナがどうして彼を愛したのかは分からないが、彼女が言った通りディランと彼には通ずる所があった。
それは意思が強いと言う点で、というよりも、もっと根源的な所にある気がする。
そうやって彼らが言い合っている内に、不意に外からがたん、と何か固いもの同士がぶつかる音がした。
パンをちぎっていた俺は顔を上げて、さあっと顔から血の気を引かせたダイアナがさっと立ち上がる。
「出てくる」
それだけ言って、表情を消した彼女が足早に廊下に出ようとして。
「待て」と顔を強ばらせたオリバーがダイアナを追いかけようとしたけれど、
「来ないで」
と、彼女が上擦った声で強く拒絶した。
無意識に腰を浮かしていた俺はその声に動きを止め、少し逡巡してからオリバーと目配せし、大人しく席に着いた。
多分、あの男が――ゼフ・クリフが戻ってきたのだろうから。
「……あの人が?」
「そう。私が一番あの人をよく知ってるから貴方たちは出ないで、何かあったら困るでしょう? マーサさんも奥に行った方がいいです、多分あの人また斧か何か持ってますから」
マーサさんがいるのだろう方向に声をかけ、彼女が食卓を後にする。
それから暫く間が空いて、
「お帰りなさい、もう夕食は始まっていますよ」
と、彼女がゼフに声をかけるのが聞こえてきた。
まるで酔い潰れた人間を介抱しているかのような、優しさと呆れが混じった声。
それに違和感を覚えたのとほぼ同時に、どんと何か重いものが倒れたような音が響いて。
「すまない、すまない……ダイアナ、怪我は大丈夫かい?」
「大丈夫です。ほら、もう皆待っていますから一緒に食べましょう? その手に持っているものを置いて、そう、それでいいんです。立ち上がれないのなら私の肩を貸しますから」
「顔に痣ができているじゃないか」
「見た目だけです。どこに行かれていたんですか? 待っていたんですよ、ずっと」
「ああ、ああ……どこでもないよ、少し……少し海を見に行っただけた。すまないね、いつも」
その会話の調子は穏やかで、何も知らなければ特段おかしい所は無いように――むしろ健全な親子のもののようにさえ聞こえることだろう。
だからこそ怖気がするのだ、平気で斧やランプを人に向かって振り回せるような男が穏やかな声をしていることが。
少しして、二人が入ってきた。
青白い顔色の、ぶかっとしたスーツを着た死神のような風貌の痩せこけた男。
ダイアナに支えられたゼフ・クリフは、落窪んだ眼窩の奥にある奇妙なくらいに光る灰色の瞳をぎょろぎょろと動き回して、俺を見るなり
「グレイソン君じゃないか、娘が世話になったね」
と人が良さそうに笑いかけてきた。
成程これはダイアナも恨みきれずに庇いたくなるわけだ、「本性を知らなければ」人畜無害で親切な上流階級の紳士に見える――内心焦りつつも当たり障りのない返事をすると、彼はにこやかに「マーサは料理が上手いんだ、特にアーベントの魚料理がね」と言いながら空いた席に腰掛けた。
「ダイアナも座りなさい。オルティスさんもいらっしゃるならもっと豪勢な食事を用意してもらうべきだったかな」
「必要無い、今日はダイアナを心配して来ただけだ。用が終われば直ぐに帰る」
痩けた頬を緩ませたゼフが「そうですか」と頷く。するとダイアナが間髪入れずに「お父さん」と声を上げた。
「後で一緒に牧場の跡地に行きませんか? 久しぶりにディランの墓参りに行きたくて」
途端、ゼフの目から光が消えた――彼の食器を握る手に力が入ったのが見えて思わず立ち上がろうとすると、ダイアナが俺を目で牽制し。
「いい考えだね」と、空虚な声をあげ、ゼフは無感情な顔を彼女に向けた。
「あそこはいい場所だ、夜景も海も良い具合に見下ろせる。人生というものを考えさせられる場所だよ」
「ええ、ですから尚更に行きたいんです。ついでにグレイソンもおいでよ、まだそこには行ったことがないんだよね?」
聞かされていた話だ。
一切の曇りのない笑顔を浮かべた彼女に「そっちがいいなら行かせてもらうよ」と返し、怪訝そうに眉を顰めたゼフに
「いいですよね? 僕も少し夜風に当たりたい気分なんです」
と笑って圧をかける。俺に出来ることはこれくらいしかないのだから、なんとしてでも同行を承諾させなければならなかった。
「それなら俺も行かせてもらおう、もう随分あそこに行っていないから俺の作品の様子を確認しておきたいんだ」
「なら俺も――」
「オリバーは家でマーサさんと一緒に家にいたら? そんな長いことかからないし、これからも私ばっかりに構っていたら出世できないよ。大人数で夜中に移動するのも微妙だし」
ダイアナは「酷い嘘つき」らしく、それらしいことをそれらしい表情で言うのが上手かった。
役者も顔負けのその演技にオリバーは不服そうにしながらも「分かったよ」と引き下がって肩を竦め、それから法学の勉強をしなければいけないんだ、とかなんとか言って立ち上がり、パンをひとつ取ってから上階へ消えていく。
やがて皿を空にし終わったらしいオルティスさんがかたんと音を鳴らして食器を置き、水を飲んでいたダイアナに視線を向けた。
なあなあで済んだあたり、俺とオルティスさんもダイアナたちについていけるのだろう。
そう思いながら魚料理の最後の一口を口に押し込んでいると、
「あそこは猪が出たっけか」
そうオルティスさんが彼女に脈絡なく問いかけた。
何故そんなことを聞くのだろうか、幼い双子がこの家と牧場を日常的に往復することが出来ていたくらいには危険が無いだろうに――けれどそれにも何か思惑があるのだろう、と考えて口を挟まないでいると、音を立てずにグラスを置いたダイアナが「たまに出ます」とすました顔で答えた。
「それなら猟銃でも持っていこうか。ゼフ、確かこの家の納屋にあったよな」
つまりはオルティスさんが殺人の濡れ衣を被るための前準備に過ぎないのだ、と、その言葉を聞いた瞬間に合点がいった。
わざわざ声を張り上げて「猟銃」を強調したのは、後々アーベントの警察に――あらゆる証拠から犯人を特定しようとする気概があるのかどうかは別にして――事情聴取されるだろうマーサさんに聞こえるようにするためだろう。
「私がやります」と不快そうにゼフは言いはしたものの、
「俺の方が狩りには慣れているはずだ、お前はいつも議会や書斎に篭っているだろう?」
そう強情に言い張られてしまえば、年下の彼はオルティスさんに従うしかないようだった。
「任せますよ」と不本意ながらも承諾したゼフを横目に、この夜に起きる凄惨な事件のことを思い浮かべて溜息をついた。




