26 血の味
ダイアナは涙を流さなかった。今度はどこかに意識をやることもなかったし、赤い瞼を固く瞑って俺の胸に頭を預け、何度も深呼吸を繰り返す。
それからゆっくりと目を開き、シーツの上に置いたままの巻貝を真っ直ぐに見据えた。
「……だからこそ私の手で伯父さんを眠らせてあげないといけないの。あの人はもう誰にも救えないから」
悲痛な決意に満ちた静かな声が俺の耳を刺す。
怒りと憎しみの矛先を定めきることができない彼女の傍にいたい、と心から思った。
俺の服を掴んだ彼女の手にぐっと力が込められたのが伝わってきて、一層強く彼女を抱き締める。
「これ以上こんなこと繰り返したくない。繰り返しちゃいけないの、ここで終わりにしないと……この町はまた同じことを繰り返す」
稀代の美しさが小さな町にもたらした恩恵と、破滅的な呪い。
ヘイゼルが革命時に命を落としたことも、ダイアナが自ら命に区切りをつけようとしたことも、ゼフ・クリフの娘が二人とも海で亡くなったことも、町の不気味なまでの排他性も。
その全てが帰結する場所であり、アーベントをアーベントたらしめる存在がダイアナたちの底無しの絶望の源泉となってしまっていたのなら――それが彼らにとってどれだけ残酷なことなのか、想像に容易かった。
「だからって全部の罪をひとりで背負うのか?」
掌越しに伝わってくる、大きく脈打つ彼女の心臓。
俺と顔を合わせまいとする彼女と無理矢理目線を合わせれば
「その責任が私にはあるの。秘密を知る人は少なければ少ないほどいいでしょう?」
と、ぎこちなく笑った彼女は肩を竦めた。
いくら強がろうとしたところで意味も無いのに、俺に多くのことを話している時点でひとりで抱えきれないと訴えているようなものなのに。
ダイアナが何かを言おうとして、でも噤む。首を横にゆるりと振って、「ありがとう」と、彼女が頬を緩めた。
「人を殺す理由に綺麗事並べ立てたって、でも所詮は自分の為。どんな理由があろうがなかろうが私がすることなんだから、それにそれ相応の代償があったって、ね、当然じゃない。悪いことして幸せになろうだなんて、世の中はそんなに甘くないに決まってる。私自身が許せないの、そんなことは」
氷のように冷たい手が、そっと俺の頬に触れる。
ぼやけた照明に照らされた瞳に映る光が増えては減って、減っては増えて。
「自分の為だと言っていながら、あいつの目論む復讐は結局誰かの為のものだ」――オルティスさんが言った言葉の意味を咀嚼する。
痛ましいぐらいに固い決意に阻まれて、俺の言葉は彼女に届かない。だとしても、だったとしても。
「……全てを諦めた死人を蘇らせたのは俺だよ」
全ての引き金を引いたのは、紛れもなく俺だった。
自分の望みのために死者の国までヘイゼルと共にダイアナを追いかけ、生きる気力を失っていた彼女に甘い言葉を囁きかけてこの世界に連れ帰った――彼女はそれに「期待はしていた」と言っていたけれど、そんな望みの薄い博打にのったのは俺だ。
俺が望んで彼女を連れ戻しさえしなければ、今の状況には至っていない。
彼女は行方不明のまま、誰にも見つかることなく朽ちていっただろう。何年も、何十年も、何百年も、何千年も。
大きく目を見開いたダイアナが息を呑む。俺の頬に触れる彼女の手に掌を重ねて、精一杯の微笑みを彼女に向けた。
「だから同罪だ。俺が踏み出さなかったら何も始まらなかったんだから」
――本当に綺麗だ、と思う。
星が弾けたように輝きを増した瞳が、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳が俺を見ている。
「ちが、そんなの、私――」
「違わないさ、ダイアナ、俺も一緒に罪を背負うよ。絶対にもうひとりにはさせない」
彼女の赤い頬に、一筋の光が零れた。「どうして」そう呆然と呟かれた言葉に、明確な形を持った俺の想いを伝えてやろう、と思った。
同情でもなんでもなく、出会った瞬間から芽生えていた感情の名前。
それを言葉にしてしまえば、勘づいていたに違いないダイアナも俺の答えに納得せざるを得ないはずだ。
「好きだからだよ、ダイアナのことが」
神聖なもののような、清楚でいながら太陽のような眩さも兼ね備えた美しさ。
初めは類稀な容姿の美しさに惹かれて、でも今はそれだけではない。
彼女の弱さも強さも過去も未来も、今や全てを引っ括めて彼女を愛している――軽々しく使えない言葉にさえ、確かな想いをのせてしまえるくらいに。
みるみるうちに溢れ出した彼女の涙を親指で拭う。
僅かに開いた赤い唇が震えていて、よこしまな考えが頭を過ぎった。それを表に出さずに消し去ることが、今の俺に出来る精一杯の誠意の示し方に違いない。
「……嬉しくないよ、そんなの」
ひっく、と、短く息を吸い込む音。
表情を崩して嗚咽を漏らす姿も愛おしいと思えて、肩を震わせて口を押さえた彼女に笑いかけた。
「嫌ならいいんだ、もう二度と言わない」
「嫌いだって、そう言ってくれた方がずっと良かったのに」
「どうして?」
そう問うと、唇を噛んだ彼女が涙をいっぱいに溜めた目を俺に向けた。
声を上げるのを堪えようとしているのだろう、けれど浅い呼吸音は絶えることなく。
「だって私、ずっと貴方のこと利用してた。初めて会った時から貴方が私に好意を持ってくれてることに気付いて、だから好都合だってこんな道に引き込んだのに、どうして許してくれるの」
「都合の良いように扱われているくらい知ってたよ、それでもそれでダイアナが少しでも救われるならどうだってよかったんだ」
彼女の手が俺の頬から離れる。
呆然とした様子で床に落とした手を見下ろした彼女は、「でも」と蚊の鳴くような声で囁いた。
「私、グレイソンに何も返せないよ。何も持ってないの、貴方の優しさに見合うようなものなんて。私にできることならなんでもしたいけれど、それだと一つの方法しか思い浮かばなくて……」
そうぽつりと言った彼女に「別に見返りを求めているわけじゃない」と言いかけてから、ダイアナがただでさえ無防備に開いている胸元に手を伸ばしたのを見て「一つの方法」の意味を理解した俺は一気に顔が熱くなるのを感じながら慌てて包帯が巻かれた彼女の腕を強く掴んだ。
痛、と軽い悲鳴を上げたダイアナが顔を顰める。けれど、彼女が提示しかけた「方法」とやらを甘んじて受け入れようなんて微塵も思わない俺は、どうしてそれが選択肢の内に入るんだ、と、息も絶え絶えに尋ね。
「……嫌なの?」
「正直全く嫌じゃない、でも違うだろ、そういうのは」
ダイアナに対して思い返すのもおぞましい欲を向けていたあの二人組と俺は違う――そう思いたい自分がいるのは確かだ。
状況が状況でなければ本能のままに彼女の誘いにのったのではないか、と問われると首を縦に振らなければならないし、彼らを一方的に非難できるような立場でもない。
だがあの二人はダイアナに加害しようとしていたのだ、それが俺とあいつらの違いだ。
理性的で冷静な指揮官だと褒めそやされている父に似て、そういった本能に逆らえる理性を持ち合わせて生まれてきたことは幸運だった。
母はどちらかと言えば感情的でありはしたものの、それは正義感が強かったり共感性が高いといったもので、何か人が亡くなるような重大な事件が起こる度に憤ったり涙を流したり、と、あまり放っておけない人だった。
「それだと私が馬鹿みたいじゃない」
「……まあ育ってきた環境もまるで違うんだしさ、価値観の相違は当然あるよ。単純に俺はそういうので解決しようっていうのが嫌なんだ、本能のままに生きるだなんて獣みたいじゃないか」
悲しそうに肩を落とした彼女に言い訳がましくそう言って、掴んでいた手を離す。
その手に僅かばかりの湿気を感じて見てみれば、傷口を強く掴んだせいか再び出血が始まってしまったようで、それが包帯に滲んだのが掌にうっすらと付着したらしかった。
「ごめん、血が……痛いだろ、本当に悪かった」
「いいよ、これくらい。ねえグレイソン、私を見てくれる?」
何故、と問うよりも先に、眉を下げて微笑した彼女の両手が俺の頬をそっと挟んだ――「夕食の用意が出来ましたよ」と、マーサさんが俺たちを呼ぶ声が遠くに聞こえる。
早く階下に降りなければ、と思うけれど、目を細めたダイアナが何をしようとしているのか悟った俺は腰を上げなかった。上げられなかったのだ。
彼女が俺の顔を引き寄せる。
長い睫毛の先が肌に触れて、ひそめられた吐息が混ざり合う。
偉ぶった口をきいたけれど、もうどうにでもなってしまえばいい――父だってたった三ヶ月の滞在で母を見染めて連れ帰ったんだ、少しくらい感情に流されたっていいじゃないか。
「ごめんね」
顔が熱い。触れるだけの口付けは、血の味がした。




