25 サリーとエリーゼ
いつまでそうしていただろうか、顔を寝台に押し付けていたダイアナがふと顔を上げた。
「……取り敢えず今は今夜のことを考えないとね、時間も無いことだし、もう血だって止まったんだから」
目を逸らしてそう呟いた彼女の瞼は赤い。絹のように細い髪が俺の指をすり抜けて、ただ無言で頷き返した。
外はもうすっかり闇に包まれ、窓の外を見ればぽつぽつと家屋の光が見える。
夜明けまで恐らく十時間はあるだろうが、時間というものは自分たちが思うよりもずっと速く過ぎていくものなのだ。
ああ、と息を吐いたダイアナがおずおずとした様子で俺を見る。
「肝心なのは私が罪に問われないこと。同じことをし返してやらないと意味が無いから」
そう切り出して、彼女はまた躊躇うように目を伏せた。
「その為にオルティスおじさんが伯父さんを殺したように装う。実際には私が銃か何かでするわけだけど……オルティスおじさんが伯父さん殺しの犯人だって第三者にも思わせる必要があるの。だからグレイソンにはそこで初めの目撃者として協力して欲しい、色々不自然な状況をそれらしい理由で覆い隠す必要があるから。その後に誰か他の人が来る前にヘイゼルの所に行って、そこでオルティスおじさんに引導を渡すの。遺体が見つかったら後々大変なことになるから」
一気に捲し立てられた言葉に、そうか、と小さく頷いた。
やはりオルティスさんはダイアナに殺されるのか――とっくに分かっていたことではある、年齢的にも、ヘイゼルとの関係からしても。
それに、あの小屋で聞いたこと。
「ゼフ殺しの濡れ衣を被る」――少し考えれば分かることだ、ただ直視したくなかっただけで。
喉奥で唸り、息を吐く。あの無骨で頑固な老人は、積極的に己の死を受け入れようとしているに違いなかった。
「……そこでも俺に役割があるよな?」
頭の中に巡る暗澹とした考えを一度消し去ってしまうために、声を振り絞ってそう尋ねる。
「そう、ね……あ、もしもの時があったら伯父さんを止めてくれる?」
少し考え込んでから返ってきた彼女の言葉に、「止める?」と眉を顰めて復唱する。
それはつまり、俺が彼女の伯父に手を出さなければならない場面が出てくるかもしれないということだろうか。
すると訝しんでいる俺の様子に焦ったのか、ダイアナは「荒っぽいことはしなくていい」と上擦った声で首を横に振って。
「何か大声で気を引くとか、そういうのでいいの。ほら、あの人が斧だの銃だのを持ち出してきたら私とオルティスおじさんにはどうしようもないから……ほんの少しでいいの、隙を作ってくれればそれでいいから」
「物騒だな、凶器になりそうなものは遠ざけたりすればいいじゃないか。どこで決行するつもりなんだ?」
老人と少女の二人では、細身ではあれ身長の高い男には力では到底敵わない――それはダイアナたちも分かっているだろうに、そんな人間が凶器を持ち出せるような場所で事に及ぼうとするのは安易ではないのか、と思う。下手を打てば返り討ちにあうだけだ。
そう考えている内に、ダイアナが「時間も無いし今からだと厳しいかな」と困ったように肩を竦める。
それから後ろを振り返って指さし、
「こっちの方角にある丘の上の牧場の跡地でするつもり。今はもう牛も羊も他所に売ってはいるんだけど、土地自体はまだクリフのものだし、周りの家もまばらだから」
と言った。
「ああ、昔ディランとよく過ごしてたっていう?」
「そう」
「どうやってこの家を出るんだ、怪しまれるかもしれないだろ」
「そこにオルティスおじさんが彫ってくれたディランの墓がそこにあるの、だから理由は簡単に作れる。少し無理矢理にはなるけどね」
「綺麗な所なの、あの子の好きだった花も植えたりしていて」俯いたまま一抹の寂しさを抱えて笑う彼女は、けれど夢見るように下がった目尻には幸福の色が滲んでいる。
「普段は誰も入れないようになっているんだけど、時々手入れに行くと昔のことを思い出して、その時だけは普通に戻れるの。こんなどうしようもない私はいなくなって、ただあの丘でディランと一緒に走っていた時みたいに……」
眠れない子供に御伽噺を語り聞かせるような、そんな声音。
揺れる目がきらりと輝いて、薔薇のように紅潮した頬が緩む。「だからね」そう振り絞るように次の言葉を紡いだ彼女が、ゆらりとこちらに顔を向けた。
「あそこで全部終わらせたいの。その先のことなんかどうだっていい、オリバーについていくにしてもここに留まるにしてもそれ以外の場所に行くにしても……今はそれを考える時じゃない」
なら俺と一緒に来ればいいじゃないか――喉元まででかかった言葉を無理矢理呑み込んで、「そうか」と一言だけ返す。
どうしても、それを口にする勇気が出なかった。実の兄を今も想っているかもしれない彼女に拒絶されてしまえば、自分が自分でいられなくなる予感がする。
ただでさえ疲れている今、夜の為にも余計なことは考えたくない。
そうだ、後のことは後で考えればいいじゃないか。
「夕飯が終わったら伯父さんを誘ってその墓に行くつもり。『久しぶりにディランと会いたいから』で納得してくれると思う、あの人は安定している時は本当に優しいし……伯父さんも私のこと気狂いだって思ってるからお互い様なの、それに関しては」
「お互い様って……」
「伯父さんも私も有害な異常者よ、程度が違うだけ。本質的にはそう変わらないし、伯父さんだってサリーとエリーゼが死んでしまわなければ優しい人のままだった。その二人がいなくなったのだって、事故ではあるけれど……少し気を付けていれば防げたものだった」
擦れたスカートが音を立てる。
やおら立ち上がった彼女は机の引き出しを開け、その中を少し漁って新聞紙に包まれた何かを取り出した。
貝殻、だろうか。いかにも小さな子供が喜びそうな、青味を帯びた、七色の美しい光沢のある巻貝。
どこかで見た覚えがあるような気がして、ここ暫くの記憶を辿る――そうだ、幼いダイアナの幻影が記していた手帳。
その上に文鎮がわりに置かれていたものと同じだ。
「これね、アーベントの周辺にしかいない巻貝なの。綺麗でしょう? 真珠のようでいて、宝石のようでもいて。小さい漁村が知られるようになったのも、かのアン王女がこれを使った首飾りを社交界で流行らせたからだって言われているの」
黄金を扱うようにそれを両手で持ったダイアナがそっと床に膝を着く。深紅がよく似合う彼女の華奢な手に対して、大振りなそれは収まりが悪かった。
きっとダイアナには派手なごてごてした宝石なんかよりも、もっも小ぶりな――例えば真珠のような、慎まやかでいながら確かな品のある物の方が似合うだろう。
派手な美しさもダイアナの容姿からしてよく合うだろうが、彼女という存在を表すのには後者の方がずっといい。
「これはアーベントの子供たちの夢。幸せになるための、成功するための御守りみたいなもの。大人も子供も皆欲しがって、でも絶やさないために守り続けてきた。今は情報だって碌に外には出ていないはずよ、価値を知られたら外の人が根絶やしにしてしまうから」
まるで赤子をあやすような、そんな優しさのある手つきで彼女が貝の表面を撫でた。
伏せられた長い睫毛が影を落とす悲しげな瞳に吸い寄せられるように目を向けて、俺は「そうか」と誤魔化すように意味もなく呟いた。
「そこから近親婚なんて忌むべき伝統が始まった。人の行き来はこの貝の存続を脅かしかねないものだったから。でも何百年も経った今の時代、オフィーリアさんみたいに外の人と結婚したり、馬鹿げたしきたりに従わない人も多く出てきたの。だから時間の問題でしょうね、これがこの世界から消えてしまうのも」
顔を上げた彼女と目が合う。苦しそうに微笑んだ彼女が息を吐き、それをそっと手渡してきた。
大人しくそれを受け取ると、彼女は「けれど最早それは呪い」と首を緩く横に振って。
「その貝殻に魅せられるのは私たちも同じ。伯父さんもそうだった。サリーとエリーゼは伯父さんの為にって……婿入りする前は漁師だったお父さんと一緒に船に乗って沖合に出たんだって。誕生日に内緒で渡して喜ばせるんだって、私とディランにも教えてくれた。でも……二人は今も帰って来れてない」
「だから二人を海に連れて行ったお父さんは伯父さんに殺されたのかも」そう力無く呟いたダイアナが口角を無理矢理上げる。
だから彼女は伯父を憎んでいながらも庇おうとしているのか――そう、ようやく理解できた。
彼が狂った原因である二人の娘の死に、ダイアナの父が関与しているのなら。
だからダイアナは自死に追い込まれるまで暴力を振るわれ、家族と引き離されて。
「それはサリーが引き揚げたかごの中にあったらしくてね、ひとつもかごに入っていないことなんて珍しくもないんだけど……船が転覆したのが沖合だったから二人とも助けられなくて、でもせめてこれだけはってお父さんが持って帰ってきたの。結局伯父さんは受け取らなくて、私とディランのものになったけれど」
ダイアナはもう、笑えていなかった。
誤魔化すように声の調子を良くしてはいるものの、表情だけはどうしても取り繕うことができず。
いてもたってもいられずに寝台から降り、顔を隠すように俯いた彼女の隣に腰を下ろして。
「ごめん」――そうとしか言えない俺は、ただ耐えるように震える肩を抱き締めることしかできなかった。




