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24 たったひとりで


 吐きそうだ、と、心の底から思った。


 いや、正確に言えば「裏切られた」と思ったのかもしれない――あまりにも都合が良すぎやしないか、と。


 ダイアナに抱いていた俺の感情というものが全て否定されてしまったように思えて、なりふり構わずに喚き出してしまいたくなったのだ。


 一気に締め付けられるように冷えきった心臓と頭が痛くて仕方がない。

 見えているはずの目の前の景色さえ、ぐらりとかたがって見えた。


「離して、部屋に戻るから」

「ダイアナ」

「片付けないといけないの、あんな部屋で寝たら夢見も悪いだろうし。オリバーは外で散歩でもしてきなよ、私は少し……グレイソンと話したいことがあるの」


 俺には話したいことなんて何も無いよ、と、詰れるなら詰ってやりたかった。


 それなのにそれが出来ないのは俺がどうしようもない意気地無しで、その上彼女にどこまでも懸想しているからで。


 都合の良いように扱われているのだと分かっていても、俺を見つめるダイアナの瞳の魔力からは逃れられない。オリバーの胸元に顔を埋めた彼女の表情は先程と一転し、どこか諦めたような、そんな暗さがある。


「今から? こんな時間に?」

「そう」

「なんでだよ、別に俺がいたって構わないだろ」

「私が構うの。いいから出てって、出て行かなかったら承知しないから」

「分かったよ、分かったからそう押すなって。反抗期か?」

「うるさい。そんなことばかり言ってると嫌われるよ」


 俺が何か言うよりも早くに始まった押し問答は、オリバーが折れる形で早々に収まった。


 呆れたように肩を竦めた彼は「なんなんだよ」と文句を言いながらも大人しく玄関まで引き下がり、それから扉を開くと一度振り返って


「ついでにオルセンさんにお前がここにいるってことを伝えてきてやるよ」


 と俺を指さした。


「それともさっき一度家に戻ったか?」

「いや……」

「どうかしてんな、ちび共もジョセフィーヌさんもお前のことを酷く心配してたってのに。後でどやされとけ、お前が全面的に悪いんだからよ」


 「お前が全面的に悪い」と嫌味たらしく言われても、と不服に思っている内に、わざわざ大きな音を立てたオリバーが扉の向こうへ消える。

 叔母と叔父からすれば傍迷惑な話だということはよく承知しているし本当に申し訳ないとも思うが、そっちだって俺の事情を少しも知りやしないだろうに。


 苛立って爪先で床を軽く蹴り、「それで」と、ハンカチでまた鼻を押さえたダイアナを振り返る。彼女は壁に掛けられた幾つもの古い写真を横目で見ていた。

   

 そこに双子の写真は無いし、ヘイゼルも当然いない。

 彼女の娘はどうなったのだろう、とふと考えて、かといって尋ねるのも憚られた。


「話ってなんだよ」

「……ああ、今日の夜のことを話したいの。一旦私の部屋に来てくれる? 座れる場所くらいはある、というかさっき作ったから」


 そう言って彼女が二階を指さす。その時に袖から薄ら赤が透けて見える包帯が覗いて、不意を突かれた俺は間抜けに「あ」と声を漏らした。


 それに驚いたように目を見開いた彼女は一拍あけてから困ったように笑い、「切ったの、硝子で」と腕をさすって見せる。


 それから彼女は俺の耳元に口を寄せて


「全部片付けたと思うけど硝子が散らばっていたらごめんね、あの人平気でグラスだのランプだので殴ってくるから」


 と囁いた。


 呆気にとられて返事も出来ないでいると、「ほら」と彼女が強引に俺の手を引いて階段を上りだす。

 大人しくそれについていけば、彼女の部屋の扉に刃物か何かでつけたような深い傷があるのを見つけた。


 壁にも似た傷が扉の近くに集中して刻まれていて、それなのにそれに意識を向けることなく平然とした様子でドアノブに手をかける彼女が恐ろしく思えた。


 扉が開いた先には、今度は惨憺たる惨状がある。


 割れた花瓶ごと無惨に転がっている脇机や脚の折れた椅子、大きく引き裂かれたカーテン、鈍器で殴ったようにひびの入った姿見。

 ディランのものなのだろう空っぽの小さな木製の寝台にさえ、故意につけられたのだろう深い傷がある。


 あまりの光景に口を噤んだ俺に向かって


「そこは片付けてあるから座って」


 とダイアナが指さしたのは、彼女のベッド。


 その上には収納場所が足りないのか服が何枚か広げられており、気が引けた俺は「でも」と倒れた机を起こしている彼女を振り返る。


「いいのか、森の中で寝てた時の格好のままなのに」

「いいよ、それくらい。まだ今日はまともに休めていないでしょう?」

「それはそっちだってそうだろ」

「私はいいの、とにかくそこの服を下に敷いてもいいからそこに座って。硝子の破片があるかもしれない所に人を座らせたくないから」

「……分かったよ」


 ここで頑なに固辞したところで無意味だな、と悟り、服を下にしないように横にのかして浅く腰掛ける。

 両膝に肘をついて僅かに身を乗り出し、辺りを見回して記憶と照らし合わせている内に、窓際の机の上に双子のどちらかの写真が収まっている写真立てがあることに気が付いた。


 どちらだろうか、と遠くから目を凝らして見てみても分からない。

 強いて言うならばディランだろうか、目尻が僅かにダイアナよりも下がっている気がする。


 それから無目的にダイアナに視線を向けてみれば、彼女は脚が途中で折れた椅子の高さを調節しようと何冊か本を見繕っていた。


 「そこに座るのか」と尋ねると、「そう」と浅い返事が返ってきて、暫く試行錯誤を重ねたものの、丁度良い高さになる組み合わせが見つからなかったのか


「これなら床に座る方がよさそう、いけると思ったんだけどな」


 と投げやりに言った彼女は、白地に花や草の伝統的な模様があしらわれている敷物をひっくり返してぐるぐると巻き出して。


 流石にその奇妙な行動を黙って見ていられるわけもなく、


「俺の隣に座ればいいだろ、そうするくらいなら」


 と腰を浮かしながら尋ねると、それを椅子替わりにして腰掛けた彼女は


「これが私なりの誠意なの、人を犯罪に巻き込むなんてそんなの普通は許されないじゃない、貴方はどうしてか肯定してくれるけれど……」


 と困ったように首を傾げた。


「肯定はしてない、仕方がないってだけだよ。大事な人に人殺しになって欲しいと思うような人間なんか普通いるわけがない、でもそれしか方法が無いのなら……ってことだよ」

「大事な人、ね」


 囁くような、どこか気怠げな声だった。


 抱え込んだ膝に頬をつき、彼女は懊悩が奥に見え隠れする瞳をこちらに向けて。


「……グレイソンは人を好きになったことはある?」


 ――一体何をいきなり尋ねてくるんだ? 

 唐突な問いに眉を動かして、「なんだよ」と上擦った声で言い返す。


「今の話がそれに繋がるのか?」


 簡単にその疑問を口に出せること自体がおぞましい、と思った。


 つい先程、彼女が兄に対して見せていたあの表情。あれが意味するところにある忌むべきものの正体を彼女は知っている筈だし、なにより最も嫌っていたものではないのか。


 その問いに答える気にはさらさらなれず、むしろ「そっちこそどうなんだ」と目を眇めて問う。

 すると長い髪で表情をすっかり覆い隠した彼女が「あるよ」と間髪入れずに首肯した。


「一番辛かった時にずっと傍にいてくれた人を好きになったの」


 押さえつけるような、けれど強い感情が滲み出た声。


 揺れた髪が音を鳴らし、その合間から覗いた薄緑の瞳が俺を見る。

 虚ろな、それなのに獣のように爛々とした光のある目だった。


「ねえ、グレイソン、私の日記は読んだ?」

「……いや、それらしいのは見つけたけど読まなかった。見ちゃいけないって思ったんだよ、なんとなく」

「そっか。別に読んでくれても構わなかったんだよ、秘密なんて打ち明けた方がずっと楽になれる時だってあるんだから」

「それは――」

「私、オリバーが好きだった」


 ――ああ、聞いてしまった。ダイアナ自身の言葉で、俺を夜よりも暗い谷底に突き落とす現実を。


 取り繕うように、苦しそうに笑う彼女の髪が乱れる。

 「軽蔑してよ」そう呟いた彼女の言葉は震えていた。それから消え入りそうな声で俺の名を呼んで、シーツの上に放り出されていた俺の手に手を伸ばす。

 

「そんなのお父さんを殺した伯父さんの思想を正当化しかねないじゃない、だから自分がおぞましくて憎くて気持ち悪くて、どうして好きになってしまったんだろうって……自分自身を許せなかったの、だから……」


 冷たい薄い手が、俺の皮膚にそっと触れた。


 懺悔するように頭を垂れた彼女の華奢な肩が上下する――彼女は声を押し殺して泣いていた。


 「ごめんね」と繰り返される言葉は、誰に向けられたものなのだろう――どちらにしても、これ以上何も聞きたくない。

 俺以外の誰かに対する拙い想いが彼女を追い詰めて殺したのだなんて、俺にとっては耐え難いものでしかなかった。


「……そんなの言われたって俺にはどうしようもないよ、聞きたくもないんだ」


 そう言い放って、丸まった彼女の背中に触れる。「分かってる」シーツに押し付けられたくぐもった声。

 

 まるで偶像に必死に縋る哀れな狂信者のようであって、だから俺はそれ以上拒絶の言葉を口に出せない。

 俺の手の甲に重ねられた手に篭もる力が僅かに強まって、ぐり、と動いた頭が大腿に触れた。


「だから誰にも悩みを打ち明けられないまま死んだのか? オリバーにも……オルティスさんにも言えずに、たったひとりで」


 返事は無い。けれど、彼女が言わんとしていることは分かる。

 それは俺の問いに対する肯定に他ならず、息を吐いた俺は彼女の頭に軽く触れ、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。


 ダイアナが誰にも打ち明けられずにいた話を聞かされたことを、一体どう受け止めればいいのだろう。


 極端な選択をとるまでずっと秘めていた話を、どうして俺に告げたのだろうか。

 遠い他人だからこそ心情を吐露できたというのなら、それは俺にとって残酷な皮肉でしかないというのに。

 


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