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22 砂の城


◇◇◇◇


 

 最愛の貴方。


 私たちが初めて出会った日を覚えていますか? あれは光に溢れた春の日でしたね。リーベッツで互いが互いの夢を追っていた時、友人に連れられて訪れた喫茶店で、学友方と熱心に哲学について議論をしていらした貴方に出会いました。

 私も興味を持っていた分野でしたから、つい貴方方の議論に口を出してしまったけれど、貴方はたった十六の私の話を真剣に聞いてくれた。貴方はどうか分からないけれど、オルティス、私はあの日から貴方に惹かれていたのです。

 

 貴方が私を貴方のサロンに誘ってくださって、それから私たちは間もなく互いを愛するようになった。貴方が私を貴方の故郷に連れて行ってくれた日、まさか貴方が名門貴族の出身だなんて思ってもいませんでしたから驚いたものです。


 夕日が水平線へ落ちていくのを共に揺れる船の上で見たこと、美しいアーベントの海を愛しているのだと語る貴方の横顔。

 今でも思い返す度、貴方に会いたいと強く願ってしまいます。違う人の妻になってしまった私を、再びあの日のように愛してくださいますか? リーベッツの、あの学院の前にある並木の長い坂。貴方の胸元にスカートを翻して飛び込んだ、あの少女時代のように。


 貴方があの丘で私にくださった指輪はもう指にはつけてはいないけれど、紐を通して首飾りにしました。貴方から頂いた大切なものを手放すことがどうしても出来なくて、夫もそれを許してくださいました。そんな優しい彼を愛することが出来たら良かったのに、私の心はいまだに貴方を想ってしまうのです。


 この日記が貴方の元に届くかは分かりませんが、革命が起きた今、私は娘を連れてアーベントを出ようと思います。きっと私は殺されてしまうけれど、どうか私という人間がいたことを忘れないでくだいますか? 

 せめて最愛の貴方の心の中に、ほんの片隅でもいいから居場所をください。貴方以上に私に幸せや愛を与えてくださる人はいないでしょう。私にはもう何も残っていません。どうか貴方がこれを受け取ってくださいますように。愛しています、オルティス。

 


◇◇◇



 成程、と、声が漏れる。

 誰かの秘め事を覗くことが、こんなにも罪悪感とおぞましさを抱かせるものなのか。


 隣に貼られている絵は、若い二人を描いたものだろう。

 あの気難しそうな老人とは似ても似つかない、どこか軽薄な雰囲気の長髪の美男が小柄な女性を後ろから抱き締めている――幸せそうに笑う二人の末路がこんな悲劇だとは、誰が想像できるだろうか。


 オルティスさんが俺にこれを読むように誘導したのは、この騒動の始まりを端的に説明したかったから、では、決してないと思う。


 口を腕で押さえて後ずさった俺は首を振り、息を吐いた。

 彼は、彼のした行いを誰かに知られることで、罰せられたかったのかもしれない。ヘイゼルを王都に連れて行けば、無理にでも彼女を連れ去ってしまえば――少し踏み出してさえいれば、二人の結末は大きく変わっていただろうから。


 不意に、足に何かが引っ掛かった。


 振り返ると籠の中に入れられている漁網の端を踏んでしまったようで、それを籠の中に入れ直そうとしゃがんだ時、子供が使うような手帳が近くに積まれているのに気が付いた。


 十冊程あるその本の山からそれを引き出すと、案の定表紙には小さい子供向けの絵が書かれている。

 そういえばオルティスさんが「ダイアナが書いたものが転がっているかもしれない」と言って、彼女は困ったように頷いていた。


 別に読まれても構わない、とは言っていたが、今度は中を覗く気にはなれない。これ以上剥き出しの感情には触れたくなかった。


 空いた壁に背中をつけ、そのまま床に座る。


 煌々と光るランプを横目に、隣にあった本を何も考えずに手に取る。

 何やら小難しい単語が並びたてられた表題に被った埃を払い落とし、頁を開いた。美術と哲学の関係がどうのこうの、という内容で、あまり触れたことの無い分野だ。

 著名な画家や彫刻家を列挙してはその芸術に表現されている彼らの欲求がどうだだとか、つまるところ難解な言い回しで遠回しに下世話な話をしている。


 とはいえあの作りかけの彫刻たち然り、オルティスさんは芸術に関心があったのだろう、他の本も似たような芸術について語るものが多い。


 後は医学書だとか植物辞典だとか、雑多な範囲の専門書があるくらいだ。よくもまあこれだけの専門書を集めるような人間がアーベントに骨を埋めるものだな、と思うけれど、ヘイゼルのことがあったからこそここから出られなくなってしまったのだろう。

 もしも自分が彼の立場なら、と考えると、やはり同じようにこの地に留まるだろうと思うのだ。


 それからどれだけ経ったか、窓から差し込む光が橙に染まり出す頃。


 五十年前の医学書を床に胡座をかいて読んでいた俺は、突然開かれた扉に心臓を思い切り叩かれた。


「なんだ、そんな所に座って」


 オルティスさんだ。


 たった一人で帰ってきたらしい彼は俺に構わずにずんずんと中に入り、持っていた荷物を寝台に投げ出す。

 それから隣の棚を漁ったかと思えば鞄に物を入れ出して、心臓を激しく鳴らしている俺を見下ろした。


「来い、時間が無いからな」

「……ダイアナは」

「向こうの家だ。俺は今からあいつのゼフ殺しの濡れ衣を被りに行くんだよ、お前も巻き込まないと始末がつかない。それはオルテガの著作か?」

「はい――……それよりなんですか、濡れ衣を被るって」


 告げられた言葉の意味に仰天してそう尋ねても「それはいいだろ」とはぐらかされ、


「そいつは俺の古い友人なんだ、もう二十年前に死んじまったらしいが」


 そう話をすり替えられる。


 これはもう答えてくれやしないだろう――「二十年も前ですか」と言い返した俺の目の前で八十を優に超えているとは思えないきひきびとした動きで身支度を始めた老爺の背中に、焦った俺も床に散らかしていた本を整頓して外に出る準備を始める。


 聞きたいことは山ほどある。けれど、今は聞くべきではない。

 靴紐を結び直して鞄の中身を確認し――といっても今更どうするというわけでもないが――目を眇めて俺を見下ろすオルティスさんが次に何を言うのか窺い見た。


「ああ、アーベントの人間はやたら長生きする奴が多いからその研究に協力してくれって連絡してきた矢先にな」

「……オルティスさんは何を専攻なさっていたんですか?」

「医学だよ。哲学も少しばかり齧ってはいたけどな、傾倒したのは美術だった」


 「ほら、出ろ」俺の支度が粗方終わったのを見計らってそう急かしたオルティスさんに従い、外に出る。

 小屋の薄暗さにすっかり慣れていた目は、血のように赤い眩いくらいの夕日にずきりと痛みを訴えた。


「確かに美術の専門書が多かったですね、哲学がどうだとか」


 そう間を埋めるように言うと、俺を先導するオルティスさんは振り返らないまま「ああ、俺が追った夢ってのは芸術の道だったんだ」と答えた。


「読んだだろう、あの日記」

「はい」

「若い頃は馬鹿だったんだよ、親の勧めで医学を学んでたってのに、芸術に魅せられて彫刻に打ち込むようになった息子を勘当しない親はいなかった。ヘイゼルの姉たちもそんな男に妹を預けるわけにはいかずに、結局俺は何も得られないまま全部手放すことになった。ヘイゼルが嫁に行くってのも、何にもなれない俺よりも立場のある兄の方があいつを余程幸せにしてやれると思ったから諦めたんだ」


 「お前は大事なものを見誤るな」――そう俺に言ったオルティスさんの言葉が、今になって確かな実感を伴い始める。


 孤独に満ちた老爺の背中は砂の城のようなもので、外観は老成して取り繕われてはいるけれど、その実波に簡単に崩されてしまう脆さがあった。


 その波はダイアナかヘイゼルか、はたまたその両方か。

 長く失ってしまったものを再び目の前にするということはどんな感情を呼び起こすものなのだろう。安堵するのか、それとも。


「グレイソン、お前はダイアナのことをどう思ってる?」

「は?」


 突然の問い掛けに面食らう。


 どうと問われても、誰かに対して彼女に対する想いを易々と打ち明けることなんて出来るわけがない。

 何も言えないままでいると、痺れを切らしたオルティスさんが「言ったろう、二の轍は踏むなと」と、不機嫌そうにこちらを振り返った。


「気狂いにはなっちまったが根は良い子なんだ、要領が悪くていつもディランの代わりに叱られちまってたくらいに不器用でな。あれでもあいつなりに必死なんだろうよ、自分の心を守るために」

「そう、ですか」


 知っている、と項垂れる。あんなに不器用な人間は滅多にいないと思うくらいに、ダイアナは一人であらゆることを抱え込み過ぎて、それ故に自分自身を見失っている。

 誰かに頼ろうともせず、だから耐え切れなくなった彼女は遂に自ら命を絶ったのだと。


 草を踏み付けて歩く自分の足元を見下ろして、それからオルティスさんの背中を見る。

 夕日に透かされた長い白髪が、妙に俺を感傷的な気分にさせた。


「ダイアナは誰かを殺して正気でいられるような人間じゃない。自分の為だと言っていながら、あいつの目論む復讐は結局誰かの為のものだ。あの下手な挑発をお前も聞いていただろう、誰かが傍に居てやらねぇと廃人まっしぐらになる」

「……分かってます」

「なあグレイソン、お前にその気があるんならあいつの傍にいてやれ。よく分からんが『死者の国』ってとこまでダイアナを追い掛けてったんだろう? あいつもお前を悪く思っていないだろうよ、お前ならあいつをあそこまで追い込んだ元凶も断ち切ってやれる」


 ああそうか、オルティスさんも何が起きたのか知ったのか。


 全ての苦しみから解放され、心のままに笑う彼女を見てみたい。

 叶うなら、ダイアナが彼女らしくいられる場所へ二人で行ってしまいたい。


 そうすればどんなに素晴らしい景色が見られるのだろうか――もう二度と、絶望に打ちひしがれた彼女の死を見たくない。


 もう俺自身の覚悟は決まっている。後はただ、願うだけだ。


「当然です、俺は……オルティスさんが思っているよりダイアナを大事に思ってるんですから」




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