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21 愛と癌


 じんじんと傷む腕をぶら下げて、道無き道をひたすらに歩いた。

 少しの衝撃が腕に響き、暑くもないのにじわりと滲んだ汗が気持ち悪い。


 オルティスさんが歩いてきた時に払いのけられたのだろう枝葉のお陰でなんとなくの道筋は推測出来たが、よく杖をつきながら足場の悪い森をひとりで歩いてこれたものだな、と思う。

 腕を負傷してはいるものの、足腰は健康そのものな俺でさえこの道を歩くことに辟易しているのに。

 

「……あー、痛ってぇなほんと……」


 そうひとり呟き、右腕を木について掌で顔を拭う。


 これだけ動けるのだから折れてはいないだろうが、暫くは酷い色の痣が残るに違いない。


 あのままオルティスさんにダイアナを殴らせていたら彼女の頭が割られていただろうことを思うと、この方が良かったのだ。

 彼女はあれも計算の内だというようなことを言っていたけれど、それでは得られるものより失うものの方が大きいじゃないか。


 何度か左の掌を握っては開いて、それからまた頭を振って歩き出す。


 一人きりの青い森は相変わらず病的に静かで、時折聞こえてくる小鳥の囀りにさえも不意を突かれてしまうくらいだ。


 今頃あの三人はどんな話をしているんだろう、と未練がましく思っては、少しだけ立ち止まって上がった息を落ち着かせた。


「あった」


 十分か二十分か、もしくはそれ以上か。 


 確信もなく歩き続けた先に、目立つ山吹色の屋根がまるで花のように山の中にぽつりと存在していた。


 これでようやく確かな道標を見つけた、と一安心して息を吐いた時、そこで誰かが何かを探して歩いているのに気が付いた。


 ここで見つかるのはまずいな、と木の後ろに身を隠し、様子を窺う。

 俺と同い年ぐらいの二人組の男子だ――遠目でよく見えないが、典型的なアーベントに生まれた男という感じがする。日に焼けた肌に、色素の濃い髪。


 体格も良く、声も大きい。ダイアナを捜しているにしても何故ここに、と訝しんで彼らの会話に耳を澄ますと、「どうにかしてあいつとヤレねぇかな」と下卑た笑い声が聞こえてきて。


「オリバーとヤッてるって噂、タイラーも知ってるだろ?」

「ああ、あれな? あれ本当だったら俺たちもいけんじゃねぇの、丁度俺好みの顔してんだ、あいつ」

「アデルと毎日お盛んだろ、お前」

「あんな乳だけの牛みたいな不器量女なんかどうだっていいだろ。なんたってクリフの娘だぜ、俺たちとは違いますって感じの済ましたあの顔をよがらせたいじゃねぇか」

「俺よりよっぽど悪質だな。でもそうだよなあ、あんな細いのを組み敷いてよ、後ろからこう……」

「うーわ、お前本気じゃねぇか! 頼み込めばやらせてくれそうだよなぁ」


 ははは、と笑うおぞましい大声が響く――かっと昇った頭の血に従って二人を殴り倒してやろうか考えたけれど、騒ぎになれば後々ダイアナの望みに響くのではないか、とすんでのところで思いとどまる。


 握り締めた拳が向かう先はどこにもなく、歯軋りした俺はただ奴らを遠くから見ていることしか出来ない。

 下手にあの二人に喧嘩を売ってより注目を浴びるようなことがあれば、ダイアナの伯父を殺せる機会が無くなってしまうかもしれないのだ。


 それに、正直俺には二人を殴り倒せるような正義があるとは思えなかった。


 彼女を性的な、それも身の毛がよだつような劣情を抱いている彼らと俺はなんら相違ない――似たようなことを考えなかったか、と問われると、首を横に振らざるを得ない。 


 ダイアナを名実共に我が物にしたいという思いは、彼女と初めて出会った瞬間から心の奥深くに種撒かれたものだった。

 それが次第に芽吹いて背を伸ばしても、表に出てこないように無理やり押さえ込んでいるだけなのだ。


 彼らが何処かへ行くのを待ってから、ようやく集会所の敷地内へと足を踏み入れる。 

 静まり返った荒れ放題の土地は、以前来た時よりも異様な不気味さが漂っていた。


 ヘイゼルを最悪な形で失ってしまったのであろうオルティスさんは、一体どんな思いでこの場所に何十年も暮らし続けていたのだろう。

 放置されている鳥や牛やその他の作りかけの彫刻たちも、きっと時間を持て余した彼が手掛けたものなのだ。


 トタンの小屋に入ると、当然中は暗かった。


 窓から差し込む光を頼りに灯油ランプを探し、鞄からマッチを取りだす。

 その時になってダイアナの為に、とパンを持ってきていたことをようやく思い出したけれど、すっかり乾燥したそれは人に差し出していい代物ではなくなっていた。


 マッチを擦って火をつける。


 ぼうっと燃え広がった光は直ぐに小さくなり、それをランプに移す。

 その拍子に空中に舞った埃が透き通って輝くのを眺めながらふっと息を吹きかけて火を消し、他人の机に置くのも憚られた燃え殻をそのまま鞄の中に乱雑に突っ込む。


 それからオルティスさんに言われた通り、机の脇から赤いビロードで装丁された本を引っ張り出した。


 いかにも古い本といった風体のそれは、触れるのも躊躇われるほど乾燥しきっている。

 試しに開いてみると、今にも落丁しそうな感覚が指先越しに伝わってきて、大胆さのない俺は「うわ」と顔を曲げた。


 誰が書いたものだろうか、文字の書き方からしてそれなりの教育を受けた人間が書いたのだろうが、本の前半と後半では筆致がまるきり違う。


 記名がされていることを期待して一番最後の頁を見てみれば、そこには「ヘイゼル=ノラ」と繊細な筆跡で書かれており、元々は「ファッツ」と書かれていたのだろう場所はインクで塗り潰されていた。


「ヘイゼルのか……?」


 そう呟き、最後に文章が書かれている頁をめくる。

 本と言うよりかは日記らしく、丁度革命が勃発した六十二年前で日付が終わっていた。


『革命が起きた、と号外が飛び込んできた時から、ずっと娘が泣いている。火の手が上がっているのか昼のように明るい外からは誰かの悲鳴が絶えることなく響き、早く逃げなければ、と思うけれど、今の私では娘を逃がすことさえも難しい。以前見つけたあの隠れ場所でなら、全てが終わるその時まで耐え忍ぶことができるだろうか? ごめんなさいお母様、私は幼い頃に望んだ自分にはなれないままだった』


 震えた、筆圧の強い直線的な文字の羅列。


 日付を経れば経るほど、彼女の心の乱れが文字に表されていく。

 最初には幼い少女の夢や希望が拙い筆致で綴られ、段々と日付の間隔が狭まってきて美しい筆跡を残すようになったかと思えばまた飛び飛びになり、最後には瓦礫のように崩れ果て。


『お姉様が昔言っていた。貴女は必ず願いを叶えられる子になる、と。だからオルティスと別れるのは寂しかったけれど、私は彼の抱く夢の為にいってらっしゃいと背中を押した。それが私にとっての夢でもあり、思い描く彼との未来を現実のものにするためでもあったから。なのに、どうして私は今日、彼の兄の隣で純白のドレスを着たのだろう。お姉様、私とルイが結ばれるように取り計らったのはどうして? 彼がアーベントを捨ててしまったから? 私とオルティスが恋仲だということを知っていたのに、退路が絶たれて為す術もなく貴女に従うしか無かった私を、貴女の言葉を盲目に信じた私を、お姉様、貴女は笑うのでしょうね』


 歪んだ文字の奥底から、ヘイゼルの悲しみや憎しみが透けて見えるようだった。


 それ以前に記されている記述を読む限り、両親は馬車の事故で亡くなったようで、既に二人の姉は既婚。


 ひとり家に取り残された彼女は、急遽縁のあるクリフ家に嫁入りすることになったのだろう――そしてこれは憶測に過ぎないが、彼女の姉たちはアーベントを治める貴族家の一員という地位を捨てたオルティスさんとの婚姻を許さなかった。


 けれどそれはきっと、彼女たちなりの愛だった。


 王都で学者として身を立てようとする地位も実績も無い若者よりも、貴族としての確実な将来のある若者と一緒になる方が、恋仲の二人を引き裂くことになっても妹のためになると判断したのだろうから。


『結婚をするのだとオルティスに知らせてからもう三ヶ月も経ったのに、結局何の音沙汰も返ってこなかった。彼がなりふり構わず迎えに来てくれることを心のどこかで期待していた自分が愚かで仕方がない。アンヌ女史に憧れて学者を志したことも、彼と一緒になることも、真に望んだことは叶わなかった。今日はあの優しいルイに全てを任せよう。生まれてきた以上、叶わない夢を追い続けるよりはせめてもの小さな幸福を掴みたいから』


『今日もまたルイの従姉妹が私を詰りに来た。ルイは私を庇ってくれるけれど、元々お父様たちが亡くなるまでは彼女と婚約関係にあったらしい。アーベントの人々は私を見かける度に顔を顰めるし、王都では反王政派の活動が活発になってきていると聞く。クリフ家は王党派だというから、もしもの時のことは今から覚悟しておくべきかもしれない。ただでさえ余所者の私は歓迎されていないようだし、危害を加えられないとは思えない。事情を察知したお姉様たちが家に来るようにと連絡をくださったけれど、私はもう二人を信じられない』


 結局、姉たちなりの愛はヘイゼルを殺す癌になった、というわけだ。


 子供を産んだこと、その子供が四歳になる頃に革命が起きたこと。


 恐らく彼女は死んだ時二十五かそれくらいで、先程のあの姿が本当の姿だということ――悲劇としてはよくある話だ、と思う。


 愛した男とは結ばれず、違う男に嫁いでその男の子を産む。

 その上でアーベントという異常な土地が劇薬のように彼女の心を蝕んでいったのは間違いないのだろう。


 何故この日記をオルティスさんが持っているのかは分からないが、革命の最中でも消失することが無かったのは、ヘイゼルが何かしらの方法でこれを残そうとしていたからなのかもしれない。


 子供の名前は滅多に出てこないし、記されているのだろう箇所もインクで塗りつぶされている――それが示す意味を考えようとして、でも止めた。


 深く息を吸って、本を閉じる。


 それから見返しを開いてみると、そこにヘイゼルがオルティスさんに宛てて綴った文章があった。



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