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20 うそつき

 

 ――そんなこと望んでいない、と小刻みに震える囁き声が、葉々を揺らす風に乗って聞こえた。


「ごめ、ごめんなさい、わた、私が全部責任を取るから……放してよ、お願い」


 そう喉を震わせ、腕で顔を覆ったダイアナの濡れた赤い頬がひくつく。


 彼女の言葉でないのなら、と顔を上げると、青白い顔を長い赤毛で覆い隠した亡霊がそこに立ち尽くしていた。


 まるでそこに境界線があるかのようにそれ以上こちらに足を踏み入れようとしない様子に、そこが「彼女の世界」との分かれ目なのだと悟る――今すぐに彼女の元に走り出したい衝動に駆り立てられながら、「ヘイゼル」と、彼女の名を叫んだ。


「それなら何を望んでいるんだっていうのか俺に教えてくれよ!」

「なんだ、お前まで気が狂ったのか!」

「気狂いだのなんだの言う前に後ろを見てくれよ、頼むから!」


 喉が裂けんばかりにそう叫ぶと、ようやくオルティスさんが訝しげに首を振りながら後ろを振り返り――次の瞬間全身を硬直させたかと思うと、「ヘイゼル!」と絶叫した。


「ヘイゼル、ヘイゼル、何故お前がここに……」


 彼女の名を繰り返し呼び、崩れ落ちるように腕を伸ばしてヘイゼルに縋りつこうとする彼の後ろ姿が、妙に小さく見える。


 あのどこか小動物的な容姿の持ち主だったヘイゼルの頬は酷く痩け、落窪んだ空色の瞳は絶望と悲しみの光を湛えていた。

 紫色の薄い唇は乾ききって皮が剥け、青い血管が目立つ灰色がかった皮膚はまさに「死人」そのものだった。


「……お久しぶり、ですね」


 酷く弱々しい、掠れた声。


 両膝を地面についた老爺を見下ろしているのは少女ではなく、大人の女だった。


「ヘイゼル――」

「オルティス、どうかダイアナの望む通りにさせてあげてくださいませんか」

 

 ヘイゼルの手を取ろうとしたオルティスさんの腕が空を切る。

 「彼女の世界」では掴めたはずの彼女の腕は、境界線の向こう側ではただの幻に過ぎない。


 「なぜ」と震える声で尋ねる彼に優しく微笑んだ彼女が虚ろな瞳をこちらに向ける。


 ダイアナも熱に浮かされた瞳をヘイゼルに向けていて、その隙に彼女の手からナイフを取り上げても無抵抗だった。


「あの子は私の星です。壊れてしまったあの子の心にまだ救いがあるのなら、私は……何を願おうが望もうが、あの子の為に全てを捧げたい」


 「おいで」と、ヘイゼルが慈愛に満ちた頬笑みを浮かべてダイアナに腕を伸ばした。


 それに「ヘイゼル」と熱に浮かされたように涙を流しているダイアナが、彼女の名を掠れた声で呼ぶ。

 それを聞かされた俺にはこれ以上ダイアナを組み敷くことなんて出来なかった。


 脱力しきった華奢な体の上から退いて、彼女を手放す。

 上半身を捻って地面に肘をつき、ふらりと危なっかしい足取りで立ち上がった彼女はそのままヘイゼルの元に向かうと思いきや立ち止まり、まだ立てずにいる俺を振り返った。


「ごめんね」


 ただ、それだけ。


 それだけ言って俯いた彼女は腰を落とし、繊細な硝子細工を相手にするように俺の左腕にそっと触れた。

 多分、骨は折れていない。真赤に腫れ上がってはいるけれど、掌も指も動く。


 痛みを堪えながら目の前の彼女を見上げれば、垂れた長い髪が俺の額や頬にかかる――白くぼやけた光に照らされた艶やかな髪が黄金色に輝いて見えて、ああ、今この瞬間、この世で最も美しいものを見ているのは俺に違いない、と思えた。

 

「……ああ」

「いいよヘイゼル、罪悪感を抱えないで。私は勝手におかしくなっただけ。貴女の言葉に唆されなくても、きっと私は元からこういう性分だったんだと思う。だって自分のためならどんな酷い嘘つきにもなれるんだもの、誰かを騙すことに罪悪感も覚えないの」


 ダイアナが力無く笑う。


 それから彼女は顔を上げて、「おじさん」と静かな声でオルティスさんを呼んだ。


「あんな馬鹿げた挑発をしてごめんなさい、けれど貴方の力をお借りしたいんです。どうしても――どうしても成さなければならないことがありますから」

「……なんだ」

「私の義父、ゼフ・クリフの殺害です」


 な、と、強ばった声が彼の口から漏れた。


 穏やかに目尻を下げたダイアナの言葉には、誰にも揺るがすことの出来ない確かな決意が満ちている。


 「酷い嘘つき」と自称した彼女が美しい弧を口元に描く。

 俺が見てきたどんな彼女とも違う、妖艶な、狡猾で賢い女の笑みだ。


「ディランを殺したのは私。けれど、私たちの人生を滅茶苦茶にしたのはあの人。そして私はまた(・・)生きるためにも、誰かの命を奪わないといけない」

「だから何を――」

「私の共犯になっていただきたいんです」


 冷ややかな棘を含んだ提案に、オルティスさんが言葉を失って目を見開いた。


 「お前が人を殺すのか」と振り絞るように声を上げ、信じられないものを目の前にしているように顔を強ばらせた彼に


「ご存知でしょう、伯父さんが私にどんなことをしてきたのかなんて」


 と、人の罪悪感を駆り立てる仕草で彼女が仰々しく目を伏せた。

 

「どうして優しかった伯父さんがあんなことをしたのか……本当のことを聞いて、それからお父さんがされたように殺します。きっと伯父さんの時のように皆目を瞑ることなないでしょうけれどね」

 

 そう言って、彼女が俺を横目で見る。


 「そうなったら私は殺されるのかな、クリフ家の崇拝者たちに」肩を竦めて笑ってはいるけれど、その声音に冗談めいたものはない。


「けれどね、私が生きることを望んでくれる人がいるんです。大して互いのことを知らないのに、だから見捨てられても構わなかったのに、それなのに手を差し伸べてくれたとびきり優しい人がいるから……ディランがいない世界にも、救いがあるのかもしれないと思えたのです」


 あ、そう、か。


 俺は君の希望になれていたんだ、あんな拙い態度と言葉でも、君を――見開いた俺の目が向かう先にある、年齢相応の微笑みが眩しい。


 彼女の一番になれなくても、二番や三番、それ以下の優先順位だったのだとしても、この瞬間だけを糧にして何十年も何百年も生きていけるような気がする。 


「だからどんなに見苦しかろうが泥水を啜ろうが、もう自分を殺したくない。私は生きます、嘘をついてでもお父さんの――私たちの復讐を終えるまでは、絶対に死なない。絶対に生きてやるんです」


 「絶対に生きてやる」――その言葉を聞いた瞬間、感情の洪水が体の奥底からどっと押し寄せてきた。それさえも彼女の嘘なのだとしても、それでも。


 ヘイゼルの隣で深く俯いているオルティスさんの表情は分からない。「……それで」


「それでお前に協力しろと?」

「そうです、おじさんに逆らえる人なんてこの町には誰一人としていませんから」

「……そうか、俺がヘイゼルにしてやれなかったことをお前にしてやればいいのか」


 悲痛な響きを孕んだ呟きに、ダイアナがこくりと頷いた。


 はは、と肩を揺らした老爺が頭を深く下げ、足を無造作に組んで押し黙る――それから少し間を置いて、


「いいか、グレイソン」


 と、押し殺した声で俺の名を呼び、その瞳に鋭い光を宿らせた。


「お前は大事なものを見誤るな。さもないとこの老耄の二の舞になるぞ、俺は昔も今も選択を間違え続けてきた――その結果失ったものを探し続けてるんだよ、俺は」

「オルティスさん――」

「ここから俺の小屋までの道は分かるか? 机の脇に積んである赤いビロードの装丁の親指ほどある厚みの本に、六十年前の革命のことが書いてある。ヘイゼルの身に何が起きたのか、俺の罪を知りたいのならそれを読め。俺はこれからダイアナと二人で……いや、ヘイゼルと三人で話さなきゃならねぇことが山程あるんだ」


 何故、と口に出しかけて、止めた。俺だってその話に加わってもいいじゃないか、と不満に思っても、俺は所詮外から来た人間に過ぎない。


 三人の間で交わされている意味深な会話の真意も分からないのに、少し話を聞きかじっただけで分かったような気になってここに居座るべきではないのだ。


 「でも腕が」そう焦ったように言ったダイアナに


 「俺は大丈夫だから、多分折れてはない」


 と軽く左手を振って見せて立ち上がる。


「二人でいたら後々不都合だって君が言ったんだろ。何も知らないままこの話に関わるのも嫌なんだ、知ることが許されるなら俺は知りたい」

「ちが、それはそうだけど……でも私のせいで怪我をしたんだからここにいようよ、道に迷ったら見つけられないかもしれない」

「大丈夫、ダイアナを捜しに来た時に木に目印をつけてたんだ、だからそこから大体の位置を割り出せると思う。オルティスさん、オルティスさんの家は向こうの方向で合ってますよね?」


 俺の右腕の袖を引いた彼女を左手で制し、それからオルティスさんに向かって彼が歩いてきた方向を指さす。

 そちらには俺がつけてきた目印は無いが、あの目立つ橙色の屋根を捜してオルティスさんが通ってきただろう道を頼りに歩けばいい。


 「そうだ」と頷いたオルティスさんに頷き返して、


「それ以外の本も読んでいいんですか」


 とついでに聞く。


 すると彼はほんの少しの間逡巡してから、「勝手にしろ」と投げやりな調子で手首を振った。


「ダイアナ、多分お前の書いたのがそこらに転がってるが構わないな?」

「え? あ……私から提案したこと、ですから……困るようなことは書いてます、けれど、もう過ぎたことですものね」

「歯切れが悪いな」

「仕方がないでしょう、けれど明らかな事実を隠し立てしたところで生まれるのは不信感だけですから。嘘でどうにかなるならそうしますけれど」


 そう不満気に目を眇め、溜息をついたダイアナが俺から手を離す。


「……気をつけてね。私のは大層なものではないから期待しないで、それに……軽蔑してくれてもいいから、私のことなんて」


 俺を見上げた彼女の目が暗い。


 明らかに俺がそれ(・・)を知ることに拒絶反応を示しているのは確かで、けれどもう一度息を吐いた彼女は赤い鼻を啜り、


「いってらっしゃい」


 と、俺の背をそっと押した。



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