19 痛みの最中で
まるで太古の時代の森そのもののような、暗がりの中では分からなかったオルティスさんの神秘的でさえある姿が、天から降り注ぐ淡い光に照らされる。
杖をついているのにも関わらずに力強い足取りでこちらに近づいてくる彼は、
「ここは危ないぞ、誰からも弔われない亡霊がお前たちを取って食うだろうに」
と、抑揚をつけて唄うように声を張り上げた。
ざり、と枝を踏みにじる音がしてそちらに顔を向ければ、ダイアナが酷く強ばった表情で彼を見ている。
非難しようとしているようでいながら、明らかな動揺と躊躇いが混じるその顔は青い。
「ここで何人行方知らずになったと思っている、お前たちもそいつらの仲間入りをしたんじゃねぇかと心配していたんだぞ」
「おじさ――」
「ダイアナ、お前はどうしてここにいる?」
決して有無を言わせることのない、場を圧倒する支配的な低い声。
一音一音を噛み締めるように話す彼の言葉なら、どんなに論理が破綻した話でも受け入れてしまえるような気がする。
オリバーと似た鋭い瞳の奥にある年齢を感じさせない光には、見る者の精神を自然に平服させてしまうような、そんな異質さがあるのだ。
「……ここが一番落ち着きますから。私は海より森の方がずっと好きなんです、皆には笑われるけれど」
「俺は笑わねぇさ、否定する方がどうかしてんだ」
冗談めいたように肩を竦めた彼女に対し、オルティスさんが首を振って眉を顰めた。
放置されている様子の倒木に杖を支えにしながら腰かけ、「だが折り合いをつけなきゃ生きていかれないだろう」と言う彼の目の横には、数十年もの月日を重ねて形成されてきた怒りと諦めが刻まれている。
「さっきお前の兄とすれ違った」
「そうですか」
「……それでお前はお前の『忌々しい』らしい感情と別れを告げられたのか?」
老人の重々しい物言いに、彼女の周囲の空気がふ、と緩んだような気がして、何も知らない俺はそちらに控えめに視線を送る。
引き攣ったように上がった口角と、堪えるように下がった眉尻。
細められた目は、光を反射して寂しさを孕んで見えた。
「別れも告げられないし、忘れることもできないと思います。それを上塗りできる何かを得ることでしか、私はきっと楽にはなれないのでしょうね」
二人だけにしか分からない会話に、でも、何故か酷い胸騒ぎを覚えた。
いつもよりずっと大人びて知的に見える今の彼女こそが、本当の『ダイアナ』そのものなのだろうか――引っ込み思案で繊細だったという幼い彼女は、ディランの死から人が変わったように明るくなったのだとヘイゼルが言っていた。
その頃から彼女の精神状態が悪化していったのは確かで、今はそんな彼女の素が透けて見えるようで――いや、分からない。
ダイアナの人格というものが、彼女の本当の姿というものが分からない。
「……嫌なものです、自分自身が抱いている自然な感情を許せないということは。それで己の首を締めているのですから、本当に愚かしい」
「見つかる見立てはあるか?」
「分かりません、躍起になって求めるものでもないのでしょうね」
オルティスさんと同じ類の光を瞳にきらりと宿らせたダイアナが俺に視線を向ける。
「今からおじさんの家に行ってもよろしいですか?」
俺の肩に手を乗せてそう言った彼女を見上げても、その意図は見えてこない。
ただ、本能が「この少女に関わるな」と激しく警笛を鳴らしていた。
「また騒ぎになるだろう、餓鬼共が煩くて仕方がない」
「そうですか、でしたらグレイソンだけでも――」
「は? なんで俺が……」
「二人でいたらあることないこと根掘り葉掘り詮索されるじゃない、それなら別々にいた方がいいでしょう? 本当は今すぐオリバーたちと会うのに気が引けるだけなんだけど……」
確かにそうだ、とは思うけれど、その言葉の裏に隠されているものを勘繰ってしまう。
にこやかに笑っている彼女の言葉を額面通りに受け取れるわけがないし、彼女が言っていた「殺さなければならない二人」の一人があの伯父なのだとして、それならもう一人は誰なのだろう、と思う。
きっとヘイゼルを傷付けたというクリフ家の誰かなのだろうが、服装から鑑みるにヘ彼女が死んだのは数十年以上昔の出来事で――と、そこまで考えてから、あ、と引き攣った声が漏れた。
「なんだ」
「いえ、少し気にかかることがあって……オルティスさんはクリフ家の方でいらっしゃるんですよね?」
「ああ、一応な。もう殆ど繋がりは無いが」
何を今更、とでも言いたけに片眉を上げた彼を他所に、掌に滲んだ冷や汗を強く握り締めて誤魔化した。
もしヘイゼルが六十年前の革命を切っ掛けに命を落としたのだと仮定すれば、当時の詳細を知るクリフ家の生き証人はもうオルティスさんしかいないだろう――だとするとダイアナが殺そうとしているのは。
いやでもこれは所詮ただの仮定の話だ。
そう口を押さえ込んでも、脳裏に過ぎった種は殻を突き破り、めきめきと芽吹いていく。祖父と孫娘のような気安さのある二人が、どうして。
「オルティスおじさんの家には特別な古い本が沢山あるの。もしかしたら気に入るものがあるかもしれないよ、時間つぶしにもどう?」
そう口を寄せてきた彼女を横目で見る。「暫くアーベントで過ごすんだもの、ここの歴史を知っておいた方が後々にいいと思うな」
「……俺が人の家の本を好き勝手読めるような人間だと思うか? そもそもオルティスさんがいいと言うとも限らないし」
「大丈夫。ね、おじさんもアーベントの生まれではない人に『誰からも弔われない亡霊』について知ってもらいたいと思いませんか?」
ダイアナがそう囁いてわざとらしく目を細めた瞬間、オルティスさんの薄い目の色が文字通り変わった。ような気がした。
「そうか」とだけ呟いて目を伏せた後、諦めに似た感情を表情を刻み込み、片方の口角を上げて卑屈な笑みを浮かべ。
杖の頂点に重ねた皺とくすみだらけの両手の甲に、太い血管が浮かび上がった。
「……オフィーリアの息子、二人でいる間にダイアナからどんな話を聞いた?」
「ディランとオリバーのことを少し。それと……伯父さんのことも彼には伝えました、彼なら私たちの味方になってくれるだろうと思いましたから」
俺が答えるよりも先に口を出してきたダイアナの言葉に、それなら彼女にとってオルティスさんはなんなんだ、と寒気を覚える。
敵なのか味方なのか、信頼しているのか信頼していないのか。
狡猾な女の顔をしたダイアナ、太陽のように笑うダイアナ、希死念慮に駆られて泣いていたダイアナ――そのどれもが彼女自身であり、けれど全てが全くの別人のようで。
「彼ならきっと分かってくれます。愛した男には捨てられ、望まない相手の子を産んだ末に殺されてしまった哀れな悪霊のことだって、きっと――」
「ダイアナ!」
稲妻のような、地を鳴らす激しい怒声だった。
節の目立つ手がダイアナの胸ぐらを掴み、勢いよく彼の元に引き寄せる。
けれど、彼女はそれを意にも介さずに「ふふ」と唇に歪な弧を描き、白目を充血させて口元を戦慄かせたオルティスさんを見ていた――彼女の指す「悪霊」がもしもヘイゼルのことならば、あのまだ十代にさしかかったばかりの少女にどれだけ残酷なことが起きたのだろう、と考えて血の気が引いていく。
「お前は何も知らないだろう、そんな悪霊などいるはずもない」
「いいえ、知っています――グレイ準男爵の三女でロマンス小説の主人公のような甘い赤毛の持ち主の、貴方が愛した心優しいヘイゼル=ノラ・ファッツのことならいくらでも語れますとも」
どん、と、オルティスさんがダイアナを突き飛ばした。
抵抗することなく倒れ込んだ彼女に咄嗟に腕を出して受け止めると、彼女は
「丁度良かった、これでヘイゼルに事情を教えてもらいにいく手間が省けたね」
と、何もかもが他人事のようにへらりと笑っていた。
「ヘイゼル=ノラ・ファッツに会いたいと思いますか?」
「ふざけるのも大概にしろ! どうしてお前がヘイゼルのことを……」
「当然でしょう? だってあの子はまだここにいる」
壊れた笑みを浮かべたダイアナがオルティスさんの背後を指さす。
それにつられてそこに視線を向かわせると、ゆらり、と柔らかい赤毛の影が揺れていた。
僅かな瞬間だけ見えたヘイゼルの横顔は、どうしてか異様に大人びていた。
小柄であるのは変わらないけれど、まるで十年近く年を経たような――。
オルティスさんは振り返らなかった。
顔を真赤に茹で上がらせ、激高した彼が立ち上る――それから彼は手に持っていた杖をダイアナに照準を合わせ、大きく振りかぶったのだ。
「ついにそこまでいかれやがったか! ディランが死んでからお前は本当に――」
「ダイアナ!」
考えるよりも遥かに先に、体が動いていた。
反射的に彼女を庇った左腕に激痛が走る――骨を砕かれたような、猛烈な痛み。
耐えきれずに叫び声をあげ、ダイアナを抱えたまま地面に倒れ込む。
のたうち回ることも出来ずに蹲って唸り声をあげる俺を見上げるダイアナの瞳は、酷く狼狽えていた。
「どう、して……私を、私なんかを庇ったの?」
ぽつりと地面に零れ落ちた彼女の震えた微かな呟きが、砂の城のように拠り所なく崩れていく――「違う、違うの、私は正当化できる口実が欲しかっただけなの、ねぇグレイソン、私……」
「お前が悪いんだ、人を試すような真似を軽々しくするんじゃない」
「そんなの分かってる! でも彼は関係ないじゃない、そんな……どうしよう、こんなつもりなんてなかったのに……」
本当に馬鹿だ、と、絶え間ない痛みの波の中で思う。
泣いているダイアナも、分かりやすい挑発に乗って激昂するオルティスさんも、彼女の「本物」の感情の最中にいることに喜びを感じている自分自身も。
本当に愚かで、どうしようもなくて、ああ、これこそが「生きている」ということなのか、と。
身を捩らせたダイアナが俺の腰の辺りをまさぐる。鞄に手をかけられたその時、自分がナイフを持っていたことを思い出した。
そして彼女もそれを知っているはずだとも――まずい、と思う間もなく、ダイアナが素早い手つきでそれを取り出した。
「待てよ、頼むから落ち着いてくれって!」
「どいてグレイソン、やらなきゃいけないの! だってそうしないと、そうしないと誰も報われないんだから!」
地面に放射状に広がった髪が蛇のようにうねる。起き上がろうとする彼女を右腕で引き倒し、馬乗りになってナイフを持つ手を掴んだ。
瞬間に感じた火であぶられるような痛みに顔を歪め、歯を食いしばる。
見下ろしたダイアナは、真赤に紅潮した頬に幾筋もの涙を流していた。




