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18 なんてことないように


 「夕方は雨が降るらしいから、早めに洗濯物を取り込まなくちゃ」――そう、なんてことのない世間話かのような軽い口調で「人を殺さなければならない」と言ったダイアナに、俺は思わず狼狽した。


「え――あ、人を……殺す?」


 彼女が、人を?  


 否、確かに彼女は「復讐」を望んでいた、けれどそれは「対話」によってではないのか。


 自然と震えた声に、地面に寝転んだ彼女がゆらりと腕を伸ばして俺の頬に手を添えた。 


「うん、でも案外悪くないのかもね。赦すことなんて出来そうにないし……それにね、そうしないと私は今度こそこの世界に永遠にいられなくなる。グレイソンに色々教えてもらうことだって出来なくなるんだよ」  

「……そうだよな、あいつの言葉の意味はそれ以外無いよ、な」


 そう自分に言い聞かせるように呟く。


 彼女がこれからも生きるためには二人を殺す必要があって、そうすれば今までの不幸を帳消しに出来るくらいの幸福が彼女を待っているかもしれなくて――ああ駄目だ、死者の国の外縁部にいた死者たちの空虚な顔が脳裏に過ぎってしまう。

 大罪を犯したのだというあの集団の中に、このままでは彼女も加わってしまうかもしれない。


 つまるところ、なにもかも八方塞がりなのだ。どの道を選択しようがその先は光の差し込まない真暗闇に違いない。

 そしてそこに彼女を誘導したのは、他でもない俺自身だった。


「ヘイゼルはそんなの駄目って言ってたけれど……どうせディランには会えないんだからそれならとことん悪いことをしてやるの。ね、そうでしょう? 良い子でいたってあの子の傍にはもういられないんだから」


 そう憑き物が落ちたような清々しい顔で言った彼女に、俺は思わない、なんて言えなかった。


 彼女がどんな言葉を求めているのかなんて分かりきっているのに、俺の幼い感情がその言葉を口に出すことを嫌ったのだ――つい数ヶ月前、気取った雰囲気をした七三分けの同級生が


「文学は本当にいいものだよ、何百年も前の名文なんかを読むとどうも当時の世俗に触れたような気がして高揚するしね。でも所詮はさ、インクで書かれた記号が紙に羅列されてるだけだ――過度に感情移入したっていいものはないし、ボイルみたいに登場人物が現実に生きてる人間として見ることは出来ないな。お前、顔に似合わず案外感情で動く類の人間だろ。それもそれが正しいかどうかは主観的に決めるんだ」


 と、そう俺にしたり顔で指摘してきた通りに。


 あれは文学について更に学びを深めようだとか、そういうありきたりな誘い文句を引っさげた希望制の特別講義を、第一希望にしていた生物学の講義の抽選に外れて仕方なく受講した時だった。


 指定された本の一部の記述について討論する、という、興味が無ければ苦痛でしかないような内容ではあったものの、元々読書が好きだったのもあってそれなりには楽しめた。

 なにせ以前読んだことのある名作家の著作だったし、俺の好みの類の話だったから。


 ただ、あの七三分けと討論した時。あくまで論理的なつもりなのだろう論調で俺の意見を真っ向から否定してきたあいつに、つい声を荒げてしまった。


 いくらなんでもそれはないだろう、人間の感情というものはそう簡単なものではない、と。


 あれは今も昔も俺の方が正論だったと思っているし、あの人間の感情を軽視している自分に酔っていそうな七三分けの方が遥かに愚かだと思っている。

 でも、あいつが言った「お前は主観的な正しさで動く感情的な人間だ」という言葉がどれほど正しかったのか、今は痛いくらいに分かるのだ。


「別に悪いことじゃないだろ、因果応報だ」

「嘘つき、その顔で本当にそう思ってるとは思えないなあ」

「……正確には君が次に死んだ時、大罪人とみなされるのが心配なんだ。死者の国の外縁部はそこらの貧民街より酷い有様だったから」

「それなら直ぐに生まれ変わるよ」

「でも下層の生物にしか生まれ変われないんだろ」

「別に構わない、人だってそんなに大層なものではないんだから。それに何度か繰り返している内にまた人間に生まれる時だって来るかもしれないし、そうでなくてもディランと――……グレイソンと、また会えるならいいなあ」


 一抹の寂しさを含む微笑みを浮かべた彼女のその言葉に心が浮き立ってしまうような、そんな軽薄な自分が今は嫌で仕方なかった。


 彼女がヘイゼルに見せていた態度然り、ダイアナはどこか計算的なところでものを語っている所がある。


 それにどんな意図があれ俺はそれに引っかかっているのだし、彼女にとって俺は俺が彼女を想っているよりも遥かに大した存在ではないのかもしれない。

 それでも、騙されているのだとしても彼女に惹かれずにはいられなかった。こうやって男は身を滅ぼしていくのだろうと、そう推察できてしまうくらいには。


「……それなら俺だけでも待つよ。ダイアナがまた人間として生まれてこれるまで、あの塔には上らないでおく」

「ふふ、死者の国だって無数にあるのに……何百年どころか何千年、何万年もかかるかもね。それまで人間はまだ存在しているのかな? 本当に待っていてくれる?」

「ああ、覚えていられる限りは」

「そう、それなら良かった」


 そう言ったダイアナが両肘を立てて上半身を起こし、それからふらつきつつも立ち上がる。


 肘を木の幹についてから爪先立ちで軽く伸び、噛み殺すような欠伸をして雑念を振り払うかのように頭を振った彼女は天を仰ぎ、「うん、きっと出来るはず」と呟いて、座ったままの俺を振り返った。


「行こっか、時間も無いことだし」

「ああ、それならさっきオリバーが来たんだ。人を呼んでくるからここで待ってろって」


 「え」と、彼女が目を見開く。


 なにか問題でもあるかのように忙しなく視線を彷徨わせ、それから所在なさげに手指を組み、おずおずと俺に目を向けた。


「オリバーが? 本当に?」

「そうだよ、その時ダイアナはまだ起きてなかったけど」

「他には?」

「俺がダイアナに手を出してないか心配してた」

「馬鹿みたい! 本当にオリバーったら昔から変わらないんだから……」

「杞憂ではあるけど当然だろ、長い時間姿をくらましていた男女の間に何事も無かったなんて大体の人間は考えない」


 そう言うと、ダイアナが鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして首を傾げた。


 それから納得がいかなそうに眉を顰めながら「そう?」と呟いて


「グレイソンは今年でいくつ?」


 と尋ねてきた彼女に、質問の意図が分からないまま


「十五」


 と答える。


 そういえば誕生日はいつだったか、と頭の中で指折り数えてみれば、あと十日だということに気がついた。

 父が戦争に行って重い病身の母と二人きりの暮らしになってからは自分の誕生日に注意を払うこともなくなり、ここ二年は友人に祝われてから初めてそうなのだと気がついたもので――それは今年も全く変わらない。

 

「同い年なの?」

「そうらしいな、その反応だと」

「そう、私たちくらいの年だとそういう風(・・・・・)に思われることが多いものね。アーベントは田舎だから娯楽なんて他に無いし、そういうことに傾倒する人もいるのも確かだけど、でも私がそうだって決め付けられるのは嫌。私がどうして伯父さんに引き取られたのか知ってる癖に、それなのに何も知らないふりをして私とオリバーがそういう仲だって囃し立ててくるくらいだし――馬鹿らしいでしょ、本当に」


 強い語気とは裏腹に、ダイアナの表情は虚ろだった。


 ふふ、と薄ら笑いを浮かべて「だからやっぱり生きないとね、皆の仇を討つまでは」と言い切った彼女の心の内は、俺には分からない。

 

「……アーベントってさ、取り憑かれたようにここを崇める人間が多いよな。他が見えてないって言うか」

「元々そういう気質の人たちが多いんじゃない? 閉鎖的でしょ、ここ。革命の時も先祖代々アーベントで生まれた人たち以外は大体殺されたくらいだもの。近親婚が禁じられた時も反対運動が酷かったんだって、政府軍との衝突で二十人も亡くなってるくらいには」


 驚きの無い話だ、と思った。


 知名度が高いにも関わらず「閉鎖的な田舎の港町」以上にはならないアーベントの偏執具合は、他の田舎よりも遥かに異常であることを身をもって知っている。

 だからどんな大それた話を聞かされても、ああそうなのか、と疑うことなくすんなりと聞き入れてしまえるような気がした。


 どこか芝居がかったような口調と身振りで一息に捲し立てたダイアナが長い溜息をつく。

 「こんなことを言ってる時点で私も同類か」そう呟いた彼女の横顔は、自嘲に歪んでいた。


「でも私がやるべきことはもう決まってる。期待なんかもうしない、優しかった頃の伯父さんはもう帰ってこないんだから。それで、それから――」


 揺るがない決意に満ちた薄緑の瞳が光る。


 ダイアナが薔薇色の唇から次の言葉を紡ごうとした時、不意に「あ」と声を漏らした彼女の凍りづいた視線が俺の背後に向けられる。

 それに嫌な予感を覚えた俺は、さっと後ろを振り返って。


「こんな所にいたのかい、ダイアナ」


 伸び放題の真白な髪と髭を生やし、異様な威厳を備えた杖をつく大柄な老人――彼の憂いを帯びた薄緑の神秘的な瞳が、俺たちを見下ろしていた。


 

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