17 ただの傍観者
最初に感じたのは、濡れた土の匂いだった。
「……い、おい、大丈夫か――頼むから目を開けてくれ」
次に、懇願。
かき乱されて朦朧とした意識がゆらりと海底から泡が浮き上がるように明晰になっていく。
激しく肩を揺さぶられながら、俺の腕の中で蹲っているダイアナを半ば無意識に抱き寄せた。
流れる髪からのぞく細い首筋に、あの痛々しい縄の跡は残っていない。
生きている人間特有の温もりもあるし、息もしている。
自分があの洞窟ではなく陰鬱とした森の中にいて、その上木の根を枕にしているということを認識するよりも先に、彼女の生を確かめて安堵したのだ。
「起きたんなら教えてくれよ、なあ、一体何があったんだ? お前までいなくなってからもう三日も経ったんだよ!」
湿気た空気が乾いた喉に張りつく。
背が高く、力も強い男の切羽詰まった表情は鬼気迫っていて、嫌でも思考が現実に引き戻されていく。
俺の意識が覚醒したことに気が付いたらしいその男――オリバーは、すぐに俺の腕からまだ意識の無いダイアナを引き剥がし、彼の方に寄せて俺を睨んだ。
それに抵抗してダイアナを取り戻そうとすることもなく、ぐらりと揺れる彼女の頭を見ながら、「もう三日」という言葉に体感よりも長い時間死者の国にいたのか、と薄ぼんやり思う。それならオリバーがこんなに必死になっているのも理解できるな、と。
「……分からない、俺の方が知りたいですよ」
自分の想像よりも遥かに声が掠れてしまっていることに内心驚きつつ、榛がかった薄緑色の目を見返した。
彼女が男だったらきっとこうなるだろう、といった顔をした彼は、それが予想外の返答だったのか、見るからに狼狽えて眉を顰め、「俺のいも……従姉妹をたらしこんだんじゃないだろうな」と俺を詰る。
まるで犯罪者のような扱いだな、と思いながら、背中に刺さる小石や根の起伏の痛みから逃れるように寝返りをしてうつ伏せになり、それから肘をついて上半身を起こした。
「別に何もしてない、少し時間が必要だっただけです」
「三日もか?」
「ああ。あんたの方が知ってるんじゃないのか、ダイアナがどんな思いをしていたのかなんて」
別に信じてもらおうとは思わないし、信じてもらえるとも思わない。
片膝を立てて立ち上がろうとし、よろけそうになったのを木の幹に手をついてこらえる。
腕で顔を拭い、それから精巧に造られた人形のような顔をして目を閉じているダイアナを見た。
宙ぶらりんになった彼女の死体を見た記憶が脳裏に過ぎり、冷たい針で刺されたように心臓が痛む。
彼女が言っていた「また繰り返す」という言葉が何度も響くのだ、またあの惨い光景を見てしまうのではないかと――ヘイゼルに復讐を囁いていた彼女なら、きっとまた自ら命を絶つだろう。
そうなれば今度こそ、取り返しがつかなくなるかもしれない。
ルーヴェの二つの生者の魂を捧げろ、という要求の意味も分からないのに、彼女が戻ってきたことが素直に喜べるわけがない。
早く目を覚ましてくれ、と念じる俺を横に、ダイアナの丸い額を撫でたオリバーが敵意に満ちた目で「知らせてくるからここで待っておけ」と一語一語を区切るように言う。
それから彼はダイアナの膝に腕を差し入れて抱き上げようとし――「待った」と声をかけた。彼女をあの家に帰すわけにはいかない、と。
「分かるだろ、ダイアナがどうしてあの家を出たのか。それなら連れて帰ろうなんて思わないはずだ」
「……どこまで聞いた?」
「想像に任せますよ、こういうのは言わない方が有利じゃないですか。とにかくダイアナはここにいさせてくださいよ、起きた時に取り乱すといけないから」
頭が締め付けられるように痛い。
そういえばヘイゼルはどうしたのだろう、俺たちがルーヴェにここに飛ばされて、それから何があったのだろうか。
別に彼女が人を殺していようが俺にとってはどうだっていい、予想していたわけではないけれど、特別驚くようなことでもなかった。叔母があの森に入るな、と警告してきた意味がようやく理解できたくらいだ。
「……分かった」そうオリバーが静かな口調で告げるのを聞いて、顔を上げる。
眉間に皺を寄せている彼の目にはあの余裕の無い切羽詰まった怒りの感情ではなく、深い痛ましさと葛藤が浮かんでいた。
疲れきった表情には憐憫と愛情が滲み、宝物を扱うように慎重な手つきでダイアナをそっと降ろす。
だらんと垂れ下がっている彼女の腕を胸元に置いて、顔にかかった髪を払う。
「リーベッツに行きさえしなけりゃな、そうすればあんな肥溜めみたいな家にひとりでいさせることにはならなかった」
「それは――」
「そうだろ? 味方は俺くらいしかいなかったのに置いてったんだ。ところで絶対に俺の可愛いダイアナに手を出すんじゃねぇぞ、法が許さなくても絶対にお前を殺してやるからな」
冗談なのか本気なのか分からない言葉を吐き、オリバーが両膝に手をついて立ち上がる。
それから俺を一瞥し、「また戻ってくるからここにいろ」と言ってこちらに背を向けた。拳を強く握り、大股で歩き去っていくその後ろ姿は、まるで何か大きなことを決意したように見える。
オリバーがどこまで察したのかは知らないが、まさかあの伯父を殺したりはしないだろうな――そう本気で思った。
「格好良くて頭が良い」とダイアナの幻影が嬉々として評していたオリバーは案外直情的なようだし、ダイアナの失踪の原因があの家にあることを暗に仄めかしてしまったことが悔やまれた。彼女が望んでいるのは復讐とはいえ、伯父との対話だというのに。
「……なんなんだろうな、ほんと」
意味もなくひとり呟いて、寄りかかった木を頼りにしてそのまま座り込む。
視界の端に亜麻色の髪が映りこんできたのを頭を振って払い、溜息をついて頬杖をついた。
それから横目で横たわっているダイアナを見て、またひとつ息を吐いて手持ち無沙汰に髪を後ろに撫でつける。
大して張合いの無い細い髪は直ぐに元の位置に戻って額にかかり、毛先が目に入った。母が亡くなってからはまともに整えることをやめた髪は、以前よりも束っぽさが無くなって少しばかり健康的になったように思う。
北の方の出身の父に似た薄い色のこの髪を、よく母に「あの人に似てるのね」と撫でられたものだったっけ。
そうこうしている内に、ダイアナの眉がぴくりと動いた。
悪夢にうなされているかのように眉を顰めて声を漏らした彼女は、糸に吊られたように腕を空に向かって伸ばし――「ひゅっ」と息を吸い込んで大きく胸を跳ねさせたのと同時に、かっと大きく目を見開いた。
「あ……わた、し……」
ぼんやりとした無気力な、縋るような薄緑色の瞳が俺を見る。
「戻ってきたんだ」そう囁くと、彼女がこちらに腕を伸ばそうと指を彷徨わせ、でもその手は力無く地に堕ちて。
「生きて、る、の?」
「ああ、生きてるよ」
仰向けに開かれたダイアナの手に、俺の手を重ねた。
「そっか」そう細い声で呟き、辺りを見回すように緩慢に首を動かした彼女は木々に囲われた空を見上げ、もう一方の掌を掲げる。
白い雲に覆われた眩しい空に透かされる血の赤でも見ているのだろうか、薄ぼんやりとした表情で自分の掌を見つめた彼女は短い息を吐いて、糸の切れた操り人形のように腕を投げ出した。
「……グレイソン」
「どうした」
「ごめんね」
「何が?」
「ルーヴェが言ってたこと、覚えてる?」
彼女の言葉に小さく首肯する。
「魂がどうって話のことだろ」そう言うと、彼女がどこか安心したように表情を緩め、俺の手を握った。
「不思議ね、生きてるのに、それなのに死んでるみたいなの――ねぇグレイソン、貴方は味方でいてくれるよね?」
彼女の言葉に面食らい、少しの間言葉が詰まる。
自分が約束を違えるわけがないじゃないか、それも君との約束なんだから――そう早口で言い切った時、ダイアナの顔色が僅かに曇った。ように見えた。
「……うん、それなら良かった。そうだ、もしよければ起こしてくれる? 空ばかり見ていたら気が滅入っちゃうから」
話の流れに若干の違和感を覚えつつ、彼女が求めるままに薄い背中の裏に腕を通し、そのまま上半身を起こす。
湿気た土や硬い木の根を枕にさせるのはどうも気が引けるな、と、片膝を立ててそこに背中を預けさせた。
「すごいね、皆本物だ――あの葉っぱの緑も、あの鳥の声も……いいなあ、私もああなれたらいいのに」
小鳥が囀る声が聞こえる。頼りない腕が何かを探すように宙を彷徨い、その細い手首を半ば無意識に掴んだ。
夢見るように熱に浮かされた瞳の輪郭が滲んで見えて、そこに喜びなんてものは無く――直後、その熱は蝋燭が吹き消されるように不意に消え、それから、微笑。
「ヘイゼルは今ここにはいないんだよね?」
「ああ、多分」
「そう、色々教えてもらいたかったんだけどな。でもまた会えるよね、あそこに行けば」
後ろに首を倒したダイアナと目が合う。その瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走った。早鐘を打ち出した心臓に唇を噛み、「何を教わるんだよ」と問う。
聞かなくても答えの察しは着いていた、けれど、でも。そうでないのだと、ただひたすらにその確証が欲しくて。
綻ぶように、無垢な童女のように笑う彼女が恐ろしく思えた。その笑顔の裏に隠されている絶望的な仄暗さは、覆い隠そうとしても隠しきれるものではない。
「グレイソンは来ちゃ駄目だよ、失望されたくないし」
「頼むからそう断定しないでくれ、俺は事情もまともに知らないんだ、ヘイゼルを傷つけた人間だとか、人を殺していただとか、予測がついているものはあるとしても――」
「……それは別に知られても私は困らないけれど……聞くならヘイゼルに聞いて。急がないといけないの、時間が無いから」
「時間が無い?」またそう尋ね返す。自分ばかりが何も知らないこの状況が恐ろしくて仕方がなかった。
自分は所詮ただの傍観者に過ぎないのだと、そう痛いくらいに思い知らされてしまうから。
声を出さずに頷いたダイアナが、彼女の手首を掴む俺の指を一本ずつ外していく。
そのまま地面に沈み込んだ彼女の艶やかな髪が、俺の膝の上を滑っていった。
「私ね、夜明けまでに二人殺さないといけないの――そうすれば私はまたずっと生きられるんだって」




