15 帰ろう
すう、と、ダイアナが浅く息を吸う音が響いた。
薄らと笑みを浮かべ、ゆらめく炎に視線を向けた彼女の横顔が闇と混じり合う。
そんな彼女が今にも跡形も無く消えてしまいそうに思えて、口を戦慄かせた俺は首を振る。
手に届きそうで届かない存在に歩み寄ろうとするだなんて、すぐに足を滑らせて破滅の谷へと滑落していくに違いない――そう分かっていながらも、彼女に手を差し伸べたいと心の底から思った。
「得ならある、ダイアナ、今度こそちゃんと友達になろう。迷惑なんていくらかけてくれてもいい、嫌ならすぐに離れてもいいし俺も離れるから」
「そんなことを言える人は自分から離れたりなんてしないよ。本当に優しいんだね、貴方は」
必死になって思い浮かべた言葉を咄嗟に口に出した俺を、ダイアナが声を上げて笑う。
心底おかしそうに頬を緩ませた彼女は、それから目尻にほんの寂しさを滲ませ、「でもありがとう」と呟いた。
静かな足取りでこちらまで数歩歩み寄ってきた彼女が、行き場もなく力んでいる俺の手をとる。
「――私、ディランが愛していたアーベントのことを少しでも理解したかった。あの子が思っていたみたいに、あの海のことを綺麗だって、そう思いたかったの」
伏せられた長い睫毛の奥にある、どんな宝石よりも美しい輝きを放つ瞳が俺を見上げる。
港で出会った時、ダイアナは「船を見たかった」と言っていた――その時は単なるアーベント育ちらしい言葉だと思って受け流していたけれど、その言葉が持つ本当の意味は重々しく、彼女が抱いている凄惨な過去というものが今になって生々しく浮き彫りになる。
「あの海を愛することなんて私には出来なかったの。私は……昔から皆が思うようにあの海を綺麗だとは思えなくて、それに私たちの人生はあの海に台無しにされたから」
「それなら――」
「でも今なら綺麗って思えるかもね、きっと。だってあの海、貴方の瞳と同じ色だから」
どくん、と心臓が強く脈打つ。
その瞬間「無」が覆い隠した暗闇の中に一筋の光が差し込んだのと同時に、まるで幕が劇的に上がるかのようにきらきらと光の欠片を散らしながら眼前に青く輝く広大な海が――あの丘から臨んだものと同じアーベントの海が開けた。
天高くで燦然と輝く白い太陽が、ゆらめく水面と波飛沫を光を滲ませて照らす。
どこか揶揄うような、けれど恥ずかしがるように頬を赤らめさせた彼女は、やはり世界を隅から隅まで照らそうとする太陽に違いない、と心の底からそう思う。
だって彼女は、俺にとって希望と期待を抱かせる何よりも偉大で輝かしい存在だから。
「だからね、私、今度こそ海を真正面から見てみたいの。一度だけでいいから、また苦しくなって死にたくなるだろうけど……でも、そうしないと死んでも死にきれないでしょ? 伯父さんにもオリバーにも、ディランにももう顔向け出来ないけどさ、もう一度だけ機会があるなら、やり直せるなら……――やり残したことも、全部出来る」
潮の匂いに包まれた夢物語のような大地も、海も、森も、それからダイアナも。
切なる祈りを込めるように震えた声ごと彼女を抱き締めてしまいたかった。
俺の言葉が、俺の存在というものが彼女の中で多くを占めたということが嬉しくて仕方がない。
俺の手を握った彼女の手に力が入って、その決断にどれだけの葛藤を抱えているのかが痛いくらいに伝わってくる。
何度か瞬きした彼女の瞳に、星が弾けるように光が散る。
生命に満ち溢れた世界の美しさをそのまま閉じ込めたようなダイアナという少女に、アーベントに生まれた人間がアーベントの海に魅入られるのと同じくらいに、本当にどうしようもなく惹かれていた。
「ねえグレイソン、暫くでいいから私の味方でいれる? もう伯父さんの言いなりにはなりたくないの、でも私一人だと難しいから、だからお願い、せめてこれだけはもう絶対に後悔したくない」
「俺はずっと味方でいる。なんなら二人で海を見に行こう、そうすれば――」
「そうね、いいかも、いつかね。でもそう言ってくれるのは嬉しいけれど……会って間も無いんだし、これからどうなるかなんて誰も分からないんだから」
髪を耳にかけ、困ったように目を伏せた彼女が肩を竦めて笑う。
潮の匂いが混じる爽やかな空気は僅かに水気を帯びていて、虹色に輝く水平線の向こうは霞んで見えた。
遠くに見えるあの陰鬱な森も鮮やかな緑と青がざわめいていて、初めて見た時に感じたあの圧迫されるような閉塞感はどこにも無い。
「そんなの決まってるだろ、何があっても敵になることはないって」と、そう笑いかけた俺の表情は引き攣っていたかもしれない。
けれど彼女は、そんな俺に「そうだといいね」と蕾が花開くようにはにかんだ。
「もう少し何かが違ってれば……ううん、きっとこうなるしかなかったんだとしても、グレイソンみたいに優しい人が私を見つけてくれたんだもの――こんなの思うべきじゃないかもしれないけれど、良かったのかもしれないなんて、ね」
緑に覆われた丘が、次々と咲き出した花々に埋め尽くされていく。
風に舞って膨らんだ彼女の新緑色のスカートが、まるで花弁のように見えた。
「本当に馬鹿みたいだよね、自分から望んで死んだくせに」
そう眩しそうに目を細め、長い息を吐いた彼女が海を振り返る。
戻れない過去や故郷を懐かしむような、そんな郷愁を帯びた瞳――その美しさに目を奪われた俺は、言葉も返せずに息を呑んで。
「……帰りたくないけれど、帰らないといけないね。ヘイゼルも待ってくれていることなんだし、もうこの世界は終わりにしないと」
「……どうやってダイアナたちはヘイゼルと知り合ったんだ?」
「初めてヘイゼルと会ったのはディランなの、そこから私も親しくなってね。あそこを通るのが牧場から家までの近道だったから。町にも行かせてもらえなかったし、牧場にいる時以外はヘイゼルに遊んでもらっていてね」
「何となく察してはいたけれど、あの人が本当は亡くなっているんだって教えられたのは、ディランが亡くなって暫く経ってからだった」そう言いながら、ダイアナが俺の手をとったまま歩き出す。
彼女が踏み締めた大地にまた花が咲き、新たな道が生まれる――時折彼女を形作る輪郭が蜃気楼のように揺らいで見えて、決して離すまいと手に力を込めた。
「あの洞窟を見つけたのもその頃だったから、家にも牧場にもいたくない時はそこで過ごしてたの。まだ小さかったから出入りにも苦労しなかったし、ヘイゼルもそれでいいって言ってくれていたから」
「伯父さんは捜しに来なかったのか?」
「夕飯の時だけ帰って、その後は部屋で寝たふりをして家を抜け出してた。もしかすると伯父さんも気づいていたかもしれないけれど……ディランがいなくなってから町に行ってもいいって言われ始めたし、なんだかんだで気を遣われてたんだと思う。本当は良い人だから、あの人も」
まるであの伯父を庇うような彼女の物言いに眉を顰めつつ、喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
俯いた彼女の後ろ姿を見てしまえば、彼女の考えを非難するような言葉は到底言えなかった。
元々俺が全てを引き受ける覚悟を決めて彼女を連れ戻しに来たのだ、ただでさえ精神にゆらぎのある彼女を動揺させるようなことは今は言いたくない。
そうすればまた、宙ぶらりんの彼女を見てしまうことになりそうだから。
それから彼女が脈絡の無い場所で立ち止まり、緩慢な動きで空を見上げた。
「この辺りかな」ごく小さい声で呟かれたその独り言に耳を傾けて、「ここから帰れるのか?」と尋ねると、「きっとね」とダイアナが小さく首肯する。
「なあ、戻った後はどうするんだ? 叔母さんがいいって言うか分からないけど、あの家には戻りたくないだろうしうちに来るか?」
「ううん、大丈夫。今度こそ伯父さんとちゃんと話をしたいの――それに貴方が味方でいてくれるんでしょう?」
俺に向かって微笑んだ彼女の言葉と表情に気を取られている間に、大地がいきなり粘土のように盛り上がったかと思うと、ぐねぐねとなにか生命のように身をよじらせ、俺が通ってきたものと寸分違いない見た目をした扉を作り出した。
あまりの出来事に驚いて「うわ」と間抜けな声を上げて一歩後退った俺を後目に、ダイアナがそっと取っ手に手をかける。
その手が僅かに震えていることに俺がようやく気がついた時、彼女はもう既に扉を開いていた。




