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14 暗い海


 私がディランを殺した――そう言って後退ったダイアナの後ろで、遂に夕日が永遠に続く地平線に姿を消した。

  途端に眩いばかりの輝きを失った赤い世界の中、言葉を失って立ち尽くす俺の視界の端に、双子の幻影が駆けていく姿が映る。


 どういう、ことだろう。上手く頭が回らない。あの男がディランを殺したのではなく、ダイアナが?

 猛回転を始めた頭は支離滅裂な方向へと走っていき、まともな思考さえも出来なくて。


「ダイアナが殺したって、それ……」

「あの小屋、干し草を置いてあったの。乾いていて、よく燃えそうな――そこでね、よく遊んでた。ディランなんかそこをベッドみたいにして寝てたの、少し寒いのが気持ちいいんだとか言って」


 痛々しく引き攣った笑みを浮かべたダイアナが胸の前で指を組む。

 伏せられた瞳に光は映らない。自罰的で自暴自棄な雰囲気を纏い、彼女は小屋の方へ顔を向ける。あの二つの影は、何か言い合いながらもその中へ入ろうとしているようだった。


 「お願い」そうダイアナが上擦った声で微かに呟いたのが聞こえて、彼女の横顔を見る。

 見開かれた目は恐怖に満ちていて、今にも泣き出しそうに下瞼がひくついていた。


「……あの日もそうだった、ディランがそこで眠り始めて、でも私は帰ろうとして、暗くなったら不都合だろうからってランプを置いていった。それで、少し意地悪をしてやろうって中から開かないように荷車まで置いて、どうせ窓から出れるからって。馬鹿だったの、私、そんなことしたら危ないって、今なら分かるのに」

 

 ぐらり、と、小屋を象る幻影かなにかが蜃気楼のように朧げに揺れる。


 ダイアナが作りあげた仮初の世界が、彼女の情動に応じて急速に姿を変えているのだ――橙と桃色が混じり合った空がインク瓶を引っくり返したように黒に侵食されていく。

 遠くに見えていたアーベントの街並みや森さえも薙ぎ払われるように呑み込まれて。

 

「駄目だよ、なんで私が生きてていいの、私、私は望んで死んだ、ディランは私のせいで、私のせいで死んじゃったのに、どうして私だけ、駄目、行かなきゃ、私、私もディランの所に……」


 真黒な空に、禍々しく輝く濃紺色の雲がごうと音を立てて渦巻き出す。まるで目玉のような模様を描くそれは、崩れ落ちて慟哭するダイアナを見下ろしている。

 嘲笑うかのように、憐れむかのように――ぞくりと稲妻のように背筋を走った悪寒が、このままではいけない(・・・・・・・・・・)と激しい警笛を鳴らしていた。


「ダイアナ!」

「ごめんなさい、私が全部悪かったの、ごめんねグレイソン、私、こんななのに、なんで期待なんか、駄目なのに、私がディランを殺したのに!」


 断末魔にも似た彼女の絶叫が響く。それは狭まり始めた空間の中に延々と響きながら、彼女の嘆きに呼応するように吹き出した暴風にかき消される。突風に押し倒されそうになり、それでもと踏ん張った。

 あの業火を、天に昇っていくあの黒煙を。それをダイアナは一体どんな思いで見ていたのだろうか、と思う。


 あの絶望に満ちた横顔は全てを理不尽に奪われた無力感のせいではなくて、彼女自身の手で――それが悪意の無いものだったとしても――片割れの未来を奪ってしまったことへのどうしようもない憤りだったのだろう。

 だとしたら、彼女は一体どれほどの痛みを感じたことだろうか。こんなにも痛々しく壊れてしまうほどに。


「どうしてこうなっちゃったんだろう、ごめんね、私、一緒に戻れない、ディランのいない所になんて戻りたくないの。折角来てくれたのに、約束も破っちゃって、迷惑ばかりかけて」


 薄緑の虚ろな瞳が映すのは、彼女に向かって必死に腕を伸ばす俺の姿。

 吹き荒ぶ風に髪や肌や服もなにもかもを好き勝手に翻弄されて、けれどどうしても彼女の傍に行きたかった。 


 抑圧と自責の念に押し潰されて壊れてしまった彼女を救おうだなんて、そんな夢物語はぽっと出に過ぎない俺には土台無理な話だろう。

 それでもいい、誰かに助けを求められないまま落ちていったその手に、俺が手を差し伸べられるなら。


「いい、いいから、俺はそんなの気にしない、こっちに来てくれ、俺はただ――ただダイアナに一緒にいて欲しいだけなんだ、だから頼むよ」


 ようやく彼女の肩に触れる。その瞬間困惑したように見開かれた瞳から一粒の涙がきらりと零れたのが見えて、ああ、まだ間に合うんだ、と、そう思った。ダイアナはまだ、俺の言葉に心を揺らがせるのだと。


「なん、で」

「嬉しかったんだ、初めて会ったあの時にああやって声を掛けてくれたのが。本当だよ、まるで太陽みたいだと思った」


 アーベントの黒い海に呑み込まれそうになっていた時、呪いじみた母の言葉に頭を支配されていたあの時。

 鈴の鳴るような玲瓏な声が、暗雲が立ちこめていた俺の目の前に一筋の光を落としたのだ。


 顔を上げた瞬間に視界に入った彼女の柔らかな微笑みが、あの時の俺にはどんなに眩かったものか――たった数時間の付き合いだとしても、彼女の本質を少しも知らなかったとしても。その一瞬だけが俺をここまで来させたのだから。


「そんなわけない、だって私は……」


 動揺した彼女の目が揺らぐ。顔を覆っていた手が白い頬を滑って膝の上へ落ちる。ほんの少し、風が弱まったような気がした。


 縮こまって震えている彼女の肩に背中側から腕を回して抱き寄せ、腰を下ろす。

 どうか、と願うことの傲慢さは知っている。それでもいいじゃないか、望むことくらいは。


「一度だけ、少しだけでもいいから一緒に戻ろう、俺が傍にいるから」

「……ただの同情でしょ? 私が、こんな、本当にどうしようもないから」


 酷く怯えた目がこちらを仰ぎ見た。拒絶されることを恐れているような、捨てられて雨に打たれた犬のような目だ。こういう時、どんな言葉が彼女を救えるのか分からない。

 正解なんてあるはずが無いのだ、誰も彼もが同じ精神構造をしているわけでもあるまいし、単なる慰めが大いに救いになる人間もいれば、逆に侮辱されたと感じる人間もいるかもしれない。


 ただひとつ、確かなのは。彼女に対するこの想いが本物であり、そして彼女も僅かながらそれを受け入れようとしてくれていることだ。


 「だったとしても」そう彼女の耳元で囁き、それから無限の宇宙を思わせる渦を巻く()を見上げた。


「急がないでいいんだ、いくらでも待つから」


 ――記憶も朧気なくらいに幼い頃、馬鹿みたいに転んでばかりいた自分を、母がそう両手を広げて待っていてくれたことを思い出す。


 その頃には既に病に体を蝕まれていた母は、自分にそう大して時間が残されていないことを知っていながらも急くことをしなかった。

 母を追いかけようとしてはまた転んで、追いつくことさえままならなかったあの頃の自分のように、ダイアナにも時間が必要なのだ。


「なんで、私、そんな風に期待されるような人じゃない、だってグレイソンじゃなくてよかったのに、自分で死ぬって決めたくせに、誰かが来てくれることを勝手に期待して、それで結局こんなふうに我儘言ってるんだよ」

「ダイアナ」

「ごめん、私は良い人なんかじゃないの、グレイソン、違うよ、ねぇ、どうして私なんかに優しくしてくれるの」


 伏せられた睫毛が濡れている。彼女の肩に置いた俺の手に指を彷徨わせながらそっと手を重ね、彼女が空を仰ぐ。

 その拍子に彼女の柔らかな髪が俺の頬を撫でて、ああ、本当に馬鹿みたいだ、と思った。生じた感情の正体に目を向けてしまえば、これ以上取り繕えなくなる。


 「当然だろ」そう言って彼女の肩を掴む手に力を込め、それから何も言ってこないのをいいことに彼女の細い首筋に顔を埋める。

 さめざめと涙を流す彼女の脈動は、死者らしく少しも感じない。彼女が戻る決断をしたとして、あの事切れた体は本当に以前のように動くのだろうか、と思う。


「私だって生きてていいって認められたいよ、でもそんなの許されないでしょう? だってディランは私のせいで苦しみながら死ななきゃいけなかったんだから――サリーもエリーゼも苦しかっただろうなあ、冷たい海の中に沈んでさ、息も出来なくて、なんで私が一番長く生きたんだろ、なんで私が一番楽な方法で死んだんだろ」


 押し寄せる苦しみと罪悪感の波に遂に砕けてしまった彼女の心は、きっと誰の言葉や存在でも救えない。

 長い時間が経っても水の流れに削られた岩は戻ることは無いし、生涯消えることの無い傷になるのに違いない。全てはもう、彼女が望むかどうかだ。


 彼女がこちらを振り返る。

 濡れた薄い皮膚は赤く染って、輝く薄緑色の瞳が縋り付くように俺を見ていた。


「……でもやっぱりね、情けないし馬鹿みたいだけど、でも私は生きたいの。生きたいって、そう思っちゃう」


 ――押さえつけた静かな声でそう言って、眉を下げて悲痛に笑ったダイアナは俺の手の甲を握り、それからそっと外した。


 待て、と俺が言うよりも早く、彼女が頼りない足でよろよろと立ち上がる。

 まるで何かに取り憑かれたかのように歩き出した彼女を追いかけようとして腰を上げた時、彼女が「私ね、海が嫌いだった」と、腕を伸ばして真暗闇の中を指さした。


「なのにディランは好きなんだって。私にとってアーベントの海は恐ろしいものでしかなかったのに」


 ごう、と鳴った風が彼女の髪を靡かせる。不意に、彼女が指差している向こう側に青い美しい海が見えた――気がした。

 瞬く内に消えてしまったその光景に呆然と立ち尽くしている間に、腕を下ろした彼女が疲れきった赤い下瞼に柔らかな弧を描き、こちらを振り向く。


「私、戻ったとしてもどうせまた繰り返すと思う。自分がおかしいことくらい分かってるの、感情の操縦も上手く出来ないし、なんていうのかな、自分が自分でない感じでさ」


 ダイアナはもう泣いてはいなかった。


 まるで何事も無かったかのように、何もかもが嘘だったかのように――「今までの全部冗談だったの、驚かせてごめんね」なんて、今にも揶揄うように声を上げて笑いだしそうなのに。


 ぼんやりとした、虚ろな、それなのに静かな光を宿した瞳が俺を見る。

 悲しみを湛えた、希望を捨てまいとする目だった。


「それなのにいいの? こんな私を、こんなにもどうしようもない私を連れ戻して。グレイソンに何かの得があるならいいよ、でもきっと私は貴方を苦しめると思う」


 空に渦巻く静謐な「無」が、彼女の輪郭を照らし出す。

 ディランの命を呑み込んだ炎が、暗闇の向こうで燃え上がる――吹く風も僅かに香る潮の匂いも何もかもが彼女の管理下に置かれたこの世界で、ダイアナは絶対的で不完全な存在だった。



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