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12 炎の中に消える命


 グレイソン、と俺の名前を叫ぶヘイゼルの声が遠くに聞こえた。


 脳が事態を処理する前に、渦を巻く炎がめくるめく間に俺の腕から体を呑み込む。

 熱さは感じない。むしろ、全身を隅から隅まで駆け巡るような多幸感すらあった。


(ああ、これはまずいかもな)


 燃え盛る炎が視界を覆い隠す。橙と赤と白が混じり合う中に、黄金に輝く火の粉がちらちらと飛び交う。

 自己と世界の境界が曖昧になってこのまま世界と溶け合い、どこにでも行くことができるんじゃないか、と、そう本気で思った。目的すら忘れ、翼を得た鳥のようにどこまでも飛んでいけるのだと――それが自由であり、逃げ出したい現実からの救いでもあった。


 ふと、炎に満ちた白の世界に影が見えた。

 次第に世界を構成するありとあらゆる色が紙にこぼれたインクのように滲み出てきて、鮮明な映像となる。


 どこかの牧場か農場だろうか、野原に建てられた小さな小屋が激しい炎に呑み込まれていた。鴉のような黒に覆われた夜の中で、その眩い炎は真夏の太陽のように周囲を照す。

 小屋へと続く道の最中でへたりこんでいる少女の絶望に満ちた横顔を、ごうごうと燃え盛る炎が照らしあげていた。


「ダイアナ!」


 その少女はダイアナだった。


 世界と同化しようとしていた自我が我に返り、届くわけもないその光景に向かって彼女の名前を叫ぶ。


 橙の光に照らされて境目がぼやけた横顔の輪郭を苦しげに歪ませ、凄まじい唸り声をあげている炎を魅入られたように見つめる彼女。

 「早くこっちに来てくれ」と喉から血が滲むくらいに叫んだのと同時に、不意に画面外から現れた誰かがダイアナの肩に手を乗せた。


「――まさかあそこにディランがいるのかい?」


 あの(・・)男だ、と、不鮮明な全身に悪寒が走る。


 落窪んだ眼窩に埋まる感情の読めない灰色の目が向けられた先にディランがいるのだと知った時、間もなくひとつのおぞましい仮説が脳裏に過ぎった。ディランが死んでしまったのは事故ではなく、仕組まれた出来事だったのではないか、と。


「おとう、さ……」

「もう駄目だ、危ないからここを離れよう」

「や、やだ、だってディランが、ディランが死んじゃう」

「こっちに来なさい、ダイアナ」


 嫌だ、と首を激しく横に振って這い蹲るダイアナを、その男が肩に担ぎ上げる。


 足をばたつかせた抵抗も、大の大人にはなんの意味も成さない。

 涙で顔を濡らしながら「ディラン」とか細い声で熱に浮かされたように繰り返し紡ぐ彼女の目の前で、遂に小屋ががらがらと音を立てて崩れ落ちた時、喉を裂くような濁音の絶叫が辺り一帯に響いた。


「いや、いやいや! お願いディラン、お願い、お願いだから……」


 満天の星が瞬く空へ、死を孕んだ煙が高く昇っていく。

 悲痛で、絶望に満ちたダイアナの嘆願に似た叫びが何度も何度も繰り返され、脳髄を打ち砕いて――次の瞬間、大気と同化していた自分が地に足をつけて立っていることに気がついた。


 夕暮れの空に、くるぶし丈の青っぽい匂いをした下草が揺れる。手と足を見下ろしてから前を見ると、そこに先程崩れ落ちはずの小屋が在りし日の姿のままに建っていた。

 広い丘に牛たちが闊歩していて、ここは牧場なのだろうか、アーベントの町と海が遠くに見えた。岸辺に建つ赤と白で塗られた灯台が、船の浮かばないきらきらと輝く海を照らしている。


 周りにヘイゼルはいない。一体何が起きたのかもここがどこなのかも分からないまま、途方に暮れた俺は宛もなく辺りを歩き始めた。


 何をどうすれば元の場所に戻れるのだろうか――帰れなくてもどうだっていいと思っていたはずだったのに、恐怖心が胸底からふつふつと泡のように湧き上がってくるのを感じる。あんなにも帰りたくなかったはずの叔母の家に、戻りたいと思っているのだ。

 

「――ねぇ、待ってよディラン!」


 不意に、焦りが滲んだ幼い声が聞こえてきた。どうせあの幻影たちだろう、とそちらに首をゆるりと向けると、やはりあの双子が走り回っている。


 前にいるのがディランなのだろう、分厚い本を抱えたダイアナが片割れを追いかけ、何かに躓いたのか不格好な形で派手に転ぶ。

 助けなければ、と俺が身を前に乗り出そうとすると、ディランがそれよりも早くダイアナに駆け寄った。


「なにやってんの、ほんと運動苦手なんだね。何も無い所で普通転んだりする?」

「だってディランが急に走り出すんだもん、誰だって転んじゃうよ」

「たまには一緒に外で遊ぼうよ、本ばかり読んでないでさ。その方が楽しいに決まってるって、他に遊び相手いないんだよ?」

「私だって遊びたいけど、でも怪我しちゃ駄目って言われてるし」


 助け起こされたダイアナがスカートの裾を払う。それからディランが横に落ちた髪を耳にかけ、辺りを見回してから海の方を指さした。「ねぇ、ダイアナは海に行きたいと思う?」


「なんで?」

「聞きたいだけだよ。私たちの家ってさ、偉い人ばっかだから海に出たりしないんでしょ? オルティスおじさんも言ってたの、自分みたいな人間は他にはいなかったって」

「海が好きな人がってこと?」

「そう。ダイアナはどう? 私は一度くらいは行ってみたいなぁ」


 訝しげに首を傾げるダイアナを横目に、ディランがたったと道から逸れて草むらに足を踏み入れる。

 「何してるの」と焦ったようにダイアナが後を追いかけていき、また転びそうになったのをなんとか立て直して走っていく。


「海は怖いだけだよ、帰れなくなっちゃう」

「ダイアナは海を知ってるの? 知らないなら分からないじゃん、思ったより良いとこかもよ」

「でも……」

「伯父さんの言いなりになんてなりたくないじゃん。私はダイアナと違うの、絶対に伯父さんを許せないから。どうせなら殺してやりたい」


 語気の強いディランの言葉に、ダイアナの足が止まった。こちらに背を向けた彼女の表情は分からない。

 けれど、上がった肩が彼女の心に芽生えた負の感情を表していた。俯いたように見える彼女は、それから「やめてよ」と喉奥から声を振り絞る。


「私がいつも本を読んでるのはさ、伯父さんの言いなりになるためなんかじゃないよ。沢山勉強すればちゃんとした方法でどうにかできるんだって、オリバーもそう言ってたでしょ」

「そんなの出来るわけないじゃん、ここはアーベントなんだからさ。伯父さんが全部無かったことにしちゃうに決まってる、だから同じ目に遭わせてやらないといけないんだよ」

「ディラン、大人って私たちが思ってるよりずっと怖いと思う。そんな態度じゃ私たちもどうなるか分からないよ」


 確かディランは八つになる前にその短い生涯を閉じたのだっけ――年齢の割に大人びている二人の会話を耳にして、自分が同い年ぐらいだった頃のことをぼんやりと思い返す。


 友人とそこらを走り回って、未来のことなんて何も考えずに楽しい「今」を生きていた。母もそれなりに元気で、父も毎日帰ってくるわけではなかったけれど、家族仲は良かったように思う。今になって振り返る過去は、当時感じていたよりも遥かに幸福で恵まれたものだった。

 

「お願いディラン、これ以上怖い思いをしたくない。だからやめてよ、そんなふうに考えるのは」 


 沈まない夕日に照らされた二人の髪が黄金色に輝く。不安に震えたか細い声が、どこか冷たさのある空気を揺るがした。


 彼女が幻影であることは分かっているのに、今すぐにでも駆け寄って抱き締めてやりたいと思う――彼女のその願いが叶わないと知っているからだろうか、悲痛に満ちたその背中に手を添えてなにか言葉をかけてやりたい。

 それは彼女の自尊心を傷つけてしまうかもしれないけれど、それでも。


「私さ、他の皆みたいに真正面から海を見てみたいんだよね。だってさ、私たちって街のこともろくに覚えていないわけじゃん――アーベントに生まれたんだからさ、折角だしちゃんと見てみたくない? いいなあ、船に乗って、それでどこまでも行くの」


 空を抱くように両手を広げたディランが、そのまま地面に仰向けに倒れ込む。


 憎しみの中できらきらと輝く、幼い少女の夢と希望――それらが打ち砕かれる光景を見てしまったばかりの俺は、胃の中身が喉元にせり上ってくるような感覚を覚えた。

 あの燃え盛る炎の中に消えていった少女は、彼女が最も憎んでいた人間の手にかけられてしまったのに違いない。


「なんでディランはそんなにアーベントが好きなの? 私は好きじゃないや」

「そんなの決まってるじゃん、私がここに生まれたからだよ」


 どこか悲しげな響きのあるダイアナの声を、ディランの明るい声がかき消す。

 上半身を両肘をついて起こした片割れの隣に座り込んだダイアナの幼い横顔は、酷く物憂げだった。

 

(そうか、それは死にたくもなるよな、ダイアナ)


 ダイアナは年齢の割に物分りが良過ぎたのだ、そしてそうでなかった片割れは彼女の目の前で最も悲惨な死に方で人生の幕を下ろし――自分も同じ立場でいたなら耐えられたのだろうか? 


 否、無理だ。きっと俺も彼女と同じ道を辿るに違いない。

 魂をわけた双子の片割れを失うだけでも引き裂かれるような悲しみを感じるだろうに、それが憎むべき人間の手によって仕組まれていたことなら、尚更。

 

(早く会って話をしないと)


 そうしなければ彼女が本当に望んでいることも、彼女にとっての幸福も何ひとつとして分からないままじゃないか――そう顔を上げ、戯れている双子の幻影に背を向けようとした時。


「来てくれたんだね、グレイソン」


 ――不意に背後から聞こえてきた朗らかな声に、心臓が早鐘を打ち出す。その声の主が誰かなんて、考えるまでもなく分かった。


 唾を飲み込み、震え始めた拳を強く握りこんで振り返る。

 太陽のように笑う黄金色のその人(・・・)は、形作られた幻影でもなんでもなく、ダイアナ・クリフそのものだった。




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