11 私の世界
ヘイゼルの手を引いて道を辿っていった先にあるあの青い森は、現実で見たものよりも遥かに巨大で、そして暗かった。
森の中に立ち入る前に後方にある叔母の家を振り返り、丸太に立てかけられている斧を持っていこうか、と少しの間悩んで、それを持っていくことに決めた。
今にも巨大で獰猛な獣が襲いかかってきそうな森の中を小さなナイフひとつで切り開いていくのは、いくらここがダイアナの想像によって成り立っている世界なのだとしても、あまりに心許なかったのだ。
生い茂る下草は腰の高さまで伸び、一歩足を踏み入れるだけでも大きな勇気が必要だった。
腰に提げていた灯油ランプを目の高さまで持ち上げ、光の差し込まない陰鬱な森を照らす。
いくら空を見上げてみても、現実のものより遥かに背の高い木々たちにすっかり覆い隠されてしまっていて何も見えない。
「こっちの方向であっているか」とヘイゼルに尋ねてみても
「ご覧の通り彼女の主観で形作られている世界ですから、私には……」
と、彼女は首を横に振るばかりで、結局は森の中を宛もなく彷徨うのと同義だ。
確かあそこに斜面があったからきっとこうだろう、と勘を必死に働かせてそこら中を歩いてみても、ダイアナの中の印象とは違うのか、辿り着くのは見覚えのない場所ばかり。
森を構成する植物さえまるきり違っていて、蔦が絡み合っていたり、ありえない方向に曲がりくねった木々が道を塞いでいる。それらを斧で斬り払って道を開けたとしても、すぐにまた同じことの繰り返しだ。
「そもそもなんなんだよ、あの洞窟。どちらの世界にも属していないとかあそこなら大丈夫だとかさ、御伽噺の世界そのものみたいじゃないか」
先行きの見えない探索に痺れを切らし、そうヘイゼルに愚痴るように問いかけた。
何十度目かの蔦を腕を振り上げて断ち切った俺に、顔を上げた彼女が「気になりますか」と、折れた蔦を手で払いながら言う。
「当然じゃないか、疑問を抱かない方がおかしい。今まで暮らしていた世界はなんだって話になる」
「……そう、ですね……――あの洞窟があの場所に存在するのは本当に偶然です。二つの世界の均衡を保つ役割があるというか、空気を循環させるというか……その……とても奥まった場所にあったでしょう?」
「ああ、入るだけで死ぬんじゃないかと思った」
目の前を塞ぐ曲がりくねった枝を潜り抜ける。辺りを見回し、また全く分からない場所に来てしまったと顔を顰めた。
ダイアナにとってこの森は一体どんな場所だったのだろう、と考えると、酷く恐ろしいものだったに違いないと思えた。
「ですから私があそこを見つける以前も、人が立ち入ることは滅多に無かったはずです。死者の国側からはあの空間を認知できませんから、互いを行き来できるのは生者と私くらいでしてね」
「ならあの落ちていた人骨らしいのは?」
「……もうご存知のくせに。私が今こうやって貴方と相対しておりますのは、私が偶然にも二つの世界の狭間であるあそこで眠りについたからです」
ばき、と、枝が踏み折られる音がした。
「やっぱりそうなんだな」と呟き、あの人骨のような欠片と衣服を脳裏に思い描く。
腐敗していく過程で体液か血液に染められたのだろうどす黒いぼろ布は、今ヘイゼルが身に纏っている衣服とは容易に頭の中で結びつかない。
「じゃあなんで今君に実体があるんだ?」
「実体ですか? 違います、私の肉体が実際に存在しているのではなく、貴方が|そう認識していらっしゃる《・・・・・・・・・・・・》だけです」
「……は?」
深く考えずに尋ねた言葉に返ってきた予想だにしてなかった答えに、ほぼ反射的に彼女の腕を掴んだ。
何度握ってみても、感じるのは薄い骨の固い感触だ。「そう認識しているだけ」と彼女は言うけれど、どうも信じられない。確かに石のように肌が冷たいけれど、それとこれとは別じゃないか、と思う。
困惑しているのが顔に分かりやすく出ていたのか、俺の無礼に眉を顰めたヘイゼルが「本当です」と首を横に振る。
その拍子に髪に引っかかった枝の破片や葉を乱雑に手櫛で払った彼女は、ろくに光も無いのに眩しそうに目を細めた。
「貴方がダイアナを捜していた時、オリバー――ほら、あの子の兄です、彼が途中でいなくなったでしょう?」
「ああ」
「長い眠りについて以来、どういうわけか私はルーヴェのようにあの洞窟の管理人のような存在になりました。それであの子を大事に思ってくださる方をこちらの世界に引き入れようと考えたのです、その……あの洞窟の周辺は私の認めた任意の対象にしか認知されないようになってしまいましたから、言わば『私の世界』に貴方だけを招待したのだと言うべきか……とにかく私はそこではあらゆることが出来ますから」
話を上手く纏められないことに焦りを感じているのか、ヘイゼルが組んだ手指を忙しなく動かしている。
彼女が主張したいことが「自分はあの洞窟一帯の管理人のようなものだ」ということまでは分かったが、それと彼女の実体の有無がどう結びつくのか分からなくて暫くの間考えを巡らせた。
多分、「彼女の世界」とやらには彼女が認めた人間以外は立ち入ることが出来ないのだろう。
「管理人」とやらにどれほどの権限があるのかは分からないが、俺が想像していることよりも遥かに色々なことが出来るのかもしれない。
「……だから『森から出られない』ってことなのか? 君の存在とその権限はその世界の範疇を出なくて、生者の世界ではただの亡骸とその意識でしかないから。で、君のその世界では君はどんなことでも出来るってことか?」
そう言うと、ヘイゼルが安心したように張り詰めていた表情を和らげた。
「そうですね、その認識でいていただいて結構です。元々動物もいたようですからその気になれば誰でも中に入れたのでしょうが……私という魂の存在が二つの世界の繋がりを崩してしまったらしく、あの辺りはもう誰も認識できなくなってしまったようでして」
「君の存在自体は死者の国に属していると考えていいのか?」
「そうです。魂が個人そのものである死者の国と違って、生者の国では肉体も兼ね備えていなければ他者から認識されることもありません。ですからあの骨も私自身ではあるのですけれど、ただの物に過ぎないのです。そこに私という意識はありませんから」
それなら彼女の死はもう誰にも知られることがないのだろうか、と思う。
誰にも知られることのない場所にある朽ち果てた哀れな遺骨を、一体他に誰が見つけられるというのだろう――そしてそれはきっと、酷く寂しいものに違いないはずだ。
五年前の冬に、家からそう遠くない場所にある川で水死した子供を知っている。騒ぎになっているのを知らずに友人と近くを通りかかった時、護岸に引き揚げられたその膨れ上がった性別も分からない惨たらしい遺体を遠くから見た。
まだ十歳にもなっていないだろうその子供のことを俺は何も知らなかったし、他の皆もそうだったらしい。結局身元も名前も分からないまま、その子供は公共墓地に葬られたと聞いた。
けれど、その子供も誰かの息子か娘だ。家族は帰ってこない子供をいまだに探し続けているかもしれないし、もうすっかり死んだものとして割り切っているのかもしれない。
だが、誰でもない人間として葬られたあの子供は冬の川の中、ひとりきりで凍えながら死んだのだ。冷たい地面の下に埋められたあの子供も、天まで続くあの塔を上ったのだろうか。
「あそこが墓でいいのか? 墓標も無いのに」
「どこで眠るかで人の価値が決まるわけではありませんもの――あ、あそこをご覧になってくださいますか?」
幕のように目の前にかかる蔦を簾を上げるが如く払ったヘイゼルが、そう言って俺の袖を引く。
「ほら、あそこ」と関節の目立つ指で彼女が指さした先を覗いてみれば、人間の形をした黒い影が二つ、木陰にひっそりと座っているのが見えた。
「あれは……」
「ダイアナとディランでしょうね」
ヘイゼルの言葉がまるでただの風の音のように思える。無意識に一歩踏み出し、二つの影に歩み寄る。
近づくにつれて明確になる輪郭が、あの家で見た幼いダイアナの幻影に重なった。何かから身を隠しているかのように寄り添い合う影の周りでは、毛虫のような大量の黒い塊たちが連なりあって炎のように揺れていた。
「ダイアナ、ディラン」
地面に片膝をついて二人の名前を呼んでみても、影は少しの反応も見せない。
投げ出された足も重なっている手も、どこか安らかな表情も、この幼い双子たちが互いをどれだけ大切に思っていたのかが伝わってくるようでいて、だからこそ片割れを失ったダイアナの悲しみを想像してしまう。
「あ、グレイソン、あそこに――」
張り上げられたヘイゼルの声に、つられるように顔を上げた。
困惑に満ちた彼女の表情を振り返って見て、見てはいけないものを見てしまったかのように口元を押さえている彼女の視線の先を辿る。
蠢く黒い塊の群れの奥に、隙間なく草木に覆い隠された不自然に切り立った斜面がある。その不自然さに今更気がついたのは、炎のようにゆらめく黒い塊たちが目隠しの役割をしていたからだろう。
「これ、多分そう……だよな」
そう呟いて、腰を上げる。心臓の音が大きく鳴りだし、唾を飲み込んだ。
双子の影の先にあるその斜面に触れようと手を伸ばした瞬間、激しく燃え盛る赤い炎が突風と共に渦状に噴き出した。




