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10 もう森からは出られないから


 ごめんね、から始まるその殴り書きされた言葉の大群は、自分を卑下する感情ばかりで埋め尽くされていた。


 「消えたい」だの「死にたい」だの「どうして私なんだろう」だの、そういった類のことばかり。


 あの愛らしい少女の幻影が書いたとは思えない重い言葉の数々から目を逸らそうとした時、ひとつの文章に目が留まった。


『本当にごめんねディラン、もう苦しむ必要は無いからどうかゆっくり休んでね』


 知らない名前に、一瞬脳が働くのを放棄した。ディランとは誰だろうか――もしかするとダイアナの亡くなったという姉妹なのかもしれない。その文字が滲んでいるのは、彼女が泣いていたからだろうか。


 机の引き出しも試しに開けてみると、新聞紙に包まれた何かが入っていることに気がついた。

 その包みを剥がしてみると、それは小さな写真立てで――同じ顔と髪型をした少女が二人、とびきりの笑顔で写っていた。


 片方の立っている子供はあわせた両手を頬に添えて目線を斜め上に向け、もう一方は写っている机に両肘をついて両頬を押さえている。双子なのだろうか、この二人がダイアナとディランだろう。


 けれど、あの廊下に掛けられていた写真の中に、二人が一緒に写っている写真は無かった。この写真がわざわざ隠されるように引き出しの中に置いてあったということが、ある意味で答えなのだろうか。


 あの無数の塊が待ち構えているだろう扉の外へ出ようか迷った末に、開いている窓から降りようと決めた。手帳と写真立てをついでに持っていくことに決めて、鞄の中にいれる。


 机に足をかけ、窓枠から身を乗り出すと、庇の方に足を伸ばしてその上に乗った。

 そこから勢いをつけて地面に飛び降り、何度か反動で跳ねると、一目散に丘の上に向かって走り出す――開きっぱなしの玄関の扉からあの塊の大群が追いかけてくるかもしれないし、ヘイゼルに聞きたいことがいくつもある。


 塊の群れは家の外には出れないのか、それ以上追いかけてくることはなく。

 屈んでいたヘイゼルは直ぐには俺に気が付かず、肩で息をしながら戻ってきた俺が声をかけるまで、物憂げな表情で夕日を眺めていた。


「あ……お帰りになられたのですね」

「色々言いたいことは山程あるんだけど、取り敢えずこれを見てくれないか」


 全速力で走ってきたせいで肺と喉が痛い。


 あの手帳と写真立てを鞄の中から取り出し、指を滑らしそうになりながらヘイゼルに半ば投げつけるように渡した。


 それを受け取った彼女は困惑したように眉を顰めながら「何ですか、これ」と呟き、両膝を地面について訝しげに俺の顔を見上げる。


「向こうに置いてあったのをついでに持ってきたんだ。その手帳には多分ダイアナの……よく分からないけど心中が書かれていて、そっちは亡くなったっていう姉妹との写真だと思う」

「……どうして私に?」

「一応見せようと思ったんだ、君は色々知ってるみたいだから。何か教えてくれるかもしれないって思ってさ」


 そうですか、と呟いた彼女が写真立てに視線を落とした。


 その視線が悲しみに満ちているように見えて、「ディランのことを知ってるのか」と問うと、「勿論」と寂しさを滲ませた首肯が返ってきた。


「先に出会ったのはディランの方でした。あの子は八歳になる前に事故で亡くなってしまったのですが、ディランの方がずっと外交的で明るい子で……反対にダイアナは引っ込み思案で、とても繊細な子でした」

「ダイアナが引っ込み思案だって? あのダイアナが?」


 年老いた病人をいたわるような手つきで写真立てを触る彼女に、片眉を上げてそう尋ねる。


 内向的な少女が果たして余所者に率先して手を差し伸べようと思うのだろうか。

 確かに彼女は一人の方が気楽だと言っていたが、どちらかといえば外交的な性格のように思えた。


 すると彼女が顔を上げ、「今は違うでしょうね」と、困ったように微笑んで肩を竦め。


「あの子はディランが亡くなってから変わったのです。昔のことしか知らない人がいらっしゃるなら、今のあの子を見れば全く別人だと思うでしょうね。私も最初は亡くなったのはディランではなくダイアナの方なのではないのかと疑っていたくらいですから」

「……まさかダイアナがディランが入れ替わっていたりはしないだろうな?」

「いいえ、死者の国に来たのは紛れもなくディランでした。あの子はずっと前にあの塔に向かって、それ以降のことは知りませんが……きっと幸せに過ごしていることだろうと信じています」


 ヘイゼルが立ち上がる。スカートを手で払い、緑の屋根の家を一瞥した彼女は俺に写真立てを渡して


「貴方が持っていて下さいませんか、私は見ての通りものを入れられる様な鞄を持っていないので」


 と言った。


 それから手帳を開いた彼女が文章に細い指を置き、文字列を辿り始める。

 物憂げな表情は一層沈み、透き通るように白い肌は赤くなっていた。


「グレイソン、きっとダイアナは貴方がアーベントの人間ではなかったからこそ貴方に希望を託したのだと思います。クリフ家は忌々しいアーベントの風習を忠実に守ってきましたから。いくら時代が変わろうとも、多くの人の血が流れようとも」

「それは――」

「あの子たちの父親を殺した人間は裁かれていません、アーベントではあの家は絶対ですから。意思の強いディランはともかく、聡いダイアナは身を守るために自らの運命を受け入れようとしていました。反抗してしまえば同じ轍を踏んでしまうことになりますから」

  

 華奢な肩が小刻みに震えている。豊かな赤毛に覆い隠されていても、俯いている彼女がすすり泣いていることはすぐに分かった。


 そんな彼女にどう振る舞えばいいのか分からず、かといって何かかけるべき言葉が思いつくわけでもない。浅い言葉で彼女を慰めるくらいなら、何も言わない方がずっと良いように思えた。


 涙を拭うような仕草を見せた彼女が首を振り、顔を上げる。

 「それでもあの子は死を選んだのです」と。


「グレイソン、もしあの子が生者の世界に戻ることを望んだのなら、どうかあの子を連れてアーベントを出てください。私ではあの子を守れないのです、私はもうあの森からは出られないから」


 夕日に照らされる彼女の頬の曲線に、大粒の涙がとめどなく伝っていくのを見た。


 真っ直ぐにこちらを見つめてくる、行き場のない悲しみに満ちた眼差し。

 そんな彼女から目を逸らすことなんて出来なかったし、今度は何をするべきか分かるような気がする。


「当然じゃないか」


 そう頷いて、細い手首を掴む。びくりと子鹿のように肩を揺らしたヘイゼルは、でも、これ以上は泣くまいと唇を噛んで堪えているようだった。


 本当に強い人だ、と心から思う。


 望まなかった惨憺たる結末にただ嘆くのではなく、その瞳には何かを果たそうとする強い意志が滲み出ているのだ。 

 彼女の目的がなんであれ、出来る限りの力を貸すことが出来ればいいのに。後をついてまわっているばかりでは自分のことさえ出来ないに決まっている。

 

「行こう、二の轍は踏んだりしない」


 自ら幕を下ろさなければ自分自身を救えなかったダイアナも、それからヘイゼルも。


 二人とも救いたい、と考えることがどんなに傲慢で身の程知らずなことなのだとしても、それでもそう願わずにはいられない。そうしなければならないという強迫的な感情に駆り立てられるのだ。


 沈まない夕日が沈んでしまう前に、彼女を見つけたあの洞窟へ行こう――そうすればきっとそこに彼女がいるはずだ、なんて根拠の無い確信に縋り付き、ヘイゼルの手を引いた。


 浅く頷いた彼女が顔にかかった髪をかきあげる。橙の光に照らされた金色の睫毛が瞬き、薄水色の瞳を一層美しく輝かせた。


「……私もね、本当は誰かが迎えに来てくださるのをずっと待っていたんです。でも駄目でした、憎しみを募らせていくだけの私は、永遠にあの森から出られなくなってしまって」

「ヘイゼル――」

「けれどダイアナはまだ間に合います、あの洞窟は言わば『生と死の狭間』です。あそこで死んでしまったとしても、真の意味で魂と肉体の結びつきが絶たれたわけではありませんから、ですから……あの子が望みさえすれば、あの子は自由になれるはず」


 「あの子はまだどうしようもない苦しみに囚われたままなのです」薄らと微笑みを浮かべ、まるで鎮魂の祈りを捧げるかのようにヘイゼルが囁く。


 彼女の手首を掴んだ俺の手にもう一方の手をいたわるように重ねた彼女は、穏やかに微笑んでいた。



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