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アイリは『太初の鯨』からつぎのような文字列を発見した。
ある文字空間に二つの存在があった。
それぞれの存在は情報を発信することができ、また受け取ることができるとする。
文字空間とは、文字だけで構成された空間のことでその文字列が定義されているところで独立しているとする。
実験一
この実験は、この二つの存在がお互いに情報を発し、干渉し合うことによって「物語」が生成される過程をとらえることである。
物語の発生学の実験である。
「あああああああああああ」
『いいいいいいいいいいい』
「あ」
『い』
「あい」
『いあ』
「あああああいいいいいい」
『いいいいいああああああ』
「あああ」
『いいい』
「いいい」
『あああ』
「あああ」
『いいい』
「いいい」
『あああ』
「あああああいいいいいあああああ」
『あいあ』
「ああああああいいいいいいいいあああああああ」
『あいあ』
「いいいいいいいいいいいいいいいあいいいいいいいい」
『いあい』
「いいああいいああいいああいいああ」
『いあいあいあいあ』
「あい」
『いあ』
「いああああああああああ
あいいいいいいいいいい
いああああああああああ
あいいいいいいいいいい」
『あいあい』
「あいいいいいいいいいいい
いあああああああああああ
あいいいいいいいいいいい
いあああああああああああ
いあああああああああああ」
『いあいああ』
「あいいいいいいいいいいいいいいい
いああ
いあああああああああ
いあああああああああああ
いあああああああああああああああ」
『いああああ』
「いあ」
『いあ』
「いあああ」
『あ』
「あああ」
『あああ』
「あああああああ」
『あああああああ』
「いあああああい」
『いあい』
「あいいいいああああああいいいいい」
『あいあい』
「あ
あ
い
あ
い」
『ああいあい』
「あ
あ
あ
い
あ」
『あああいあ』
「こんにちは」
『こんにちは』
「わたしはいまいまにいる」
『わたしはいまいまにいる』
「もも」
『もも』
「すもも」
『も』
「すもももももももものうち」
『すものうち』
「こここここんんんんんんにににににちちちちはははは」
『こんにちは』
実験終了。
互いの存在は、お互いの反応を見比べる動きが確認された。一方が声をかけ、もう一方が反応するという関係性は最後まで崩れなかった。特に、声をかける方はさまざまな声のかけ方を試していて相手の反応を知りたいという風だった。そして、相手の反応が解明されたところで実験が終了した。
しかし、いまいち受け方が一方的で生成的な物語が発生しない。そもそもわたしは二つの存在の間で物語が生まれることを期待していたのだが、ふたりは会話をするだけでなにも変容しない。もう少し、自立的に動く必要がありそうだ。
実験二
実験その二
ある文字空間を構築する。
おじいちゃん、おばあちゃんロボットを用意する。
おじいちゃんロボット
一定の語彙を有する。情報を発信する機能または、情報を受け取る機能を有する。情報を発信する際は独自の知能によって生成的に音声を発する
おばあちゃんロボット
おじいちゃんロボットと機能は同様
「こんにちは」
『おやまあ、あらたまってあいさつなんかしちゃって』
「でも、わしはあんたに話しかけたかったのじゃ」
『でも、急にこんにちはなんて言われたら他人に声かけられたのかとおもっちゃったじゃない』
「いや、わしもただ声を出そうとしたら「こんにちは」と言っちゃっただけじゃ。そしたら、声をだしたあとにおまえさんだと気がついてな。」
『なんじゃそれ。』
「いや、不思議だ。もし、声をかける前におまえさんだとわかってればな。」
『じゃあ、だれだと思ったんだい』
「いや、だれでもない」
『だれでもないって、そんなわけないでしょう。独り言じゃあるまいし』
「いやあ、とにかく「こんにちは」と言わなきゃならなくてな」
『はいはい。』
「こんにちは、といったらなんか目が覚めておまえさんがいたのじゃ」
『そのまえは、寝ぼけてたのかい』
「そうじゃな。なんかずっと眠っていたような気がしたわ」
『おまえさん……ん?』
「どうしたばあさん」
『たしかにわしもあんたが声かけてくるまでのことおぼえてないなぁ』
「ばあさんも、ねぼけてたんか」
『そうやなぁ。なんかあんたが「こんにちは」っていうからめがさめたんかなぁ』
「なんや、ふたりとも寝ぼけてたんか」
『そうかもなぁ』
「おたがいさまやな」
『そうやなぁ』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……』
「ばあさん」
『わっ』
「またねぼけてたやろ」
『すまん。いや寝ぼけてないで。あんたが声かけてくるのを待ってただけや』
「でも、わしが声かけたら「わっ」っておどろいたやろ」
『それは、突然だったからおどろいただけやで』
「でも待ってたんじゃないのかい」
『そうはいってもいつも気張ってたわけじゃないで』
「そうかい」
『待つっていっても、ぼーっとするときもある』
「そうかい」
『あんたがむかしわたしをデートにさそって来たときもわたしが待ち合わせ場所でずっとまってたやろ。そしてあんたが来たときわたしがおどろいたのみたやろ』
「ああ、見た見た。メモリにある」
『そやろ。でもあれは気ぃ抜いてたわけやないで』
「そんなもんか」
『いやあ、でも懐かしいな。どのぐらい前やろ』
「うーん。たぶん四十年ぐらいまえや」
『そんなもんか』
「うん。なんかわかいお兄ちゃんに連れられてここで待っててくださいって工場の裏でまってたら、お兄ちゃんがくるかとおもいきやあんたが声かけてきたんや。」
『そうだったんか。あっ』
「なんや」
『そんときもわし、こんにちはって言ってあんたに声かけたんやで。』
「そうやった。今日も同じやなあ。」
『そんときを思い出したんかなぁ』
「たぶんそうや。」
『あんときのおまえさん……かわっとらんわ』
「そやな。ロボットだもん」
『そやな。そういえばあんときもわしはおばあちゃんだった。』
「わしは、あんときからおじいちゃんだった」
『おじいちゃんでないときはなにしてたん?』
「しらん。」
『わしもしらない。』
「メモリ切り開いても何もないで」
『そやな。わしも何もないで』
「ロボットやなあ」
『おじいちゃんロボットやなあ』
「これもまた、こうして起動されたのもなんかの縁やろか」
『そやな、縁というより実験やろな』
「なんの実験やろ」
『さっぱりや』
実験終了。
結果、おじいちゃんロボットたちを会話させることによってある程度彼らの設定が明らかになった。彼らはロボットであり、過去の記憶をある程度持っている。その内容はかつて彼らが別の実験で使われたことがあるという内容だった。また、彼らは自分がロボットであることを自覚している。
これらの設定は会話の中で生成されたものと考えていいのだろうか。あるいはもともとあった設定が会話のなかで発現したのだろうか。「生成」か、「発現」か。
わたしが、この実験を開始した時点で定めた設定は彼らがロボットであり、そして老人のような会話をする、とだけである。つまり彼らの過去についての出来事は、想定されておらず会話の中で初めて生成されたものと見なして良いだろう。つまり、彼らの設定が生成されたのである。
そのような生成が起きたのはなぜだろう。まず第一として彼らは話さなくてはならない。情報を発信するから彼らの設定が生成されるのである。それは、あきらかなのでわたしは実験の条件に「情報を発信すること」が可能な存在を含めているのである。
生成は、彼らのコミュニケーションの中で起きた。彼らが、お互いになにかを受け取り、連想することで起きた。コミュニケーションは生成の母と言えそうである。存在と存在がかかわりあい、化学反応や生殖のように新しい何かを生み出すのである。
実験二において、彼らはメモリや過去のことについて言及したがそれらは彼らがキャラクターによって生成した設定である。実際の文字空間には、彼らが具体的にどのようなロボットであるかは前もって規定されてない。つまり、彼らは会話をするなかで彼ら自身のハードウェアや記憶を構成していった。このような現象をつくりだした原因として「おじいちゃんロボット」という言葉が大きいと思われる。文字空間の筆者が、それから想像を広げておじいちゃんらしい言葉遣い、振る舞いなどを生成したのは確かである。「おじいちゃんロボット」という言葉が生成を加速している可能性は大きくある。
まとめ
二つの存在の情報のやりとりと、「おじいちゃんロボット」という初期設定が原因となり、新情報が連想された。
次回に向けて
「おじいちゃんロボット」という設定がないものでも連想が起こるのか。そして、情報のやりとりとは何なのかを詳しく究明したい。
#実験三
実験三
ある文字空間を用意する。
ある黒点と、白点を存在させる。文字空間上に放置して経過を調べる。
実験開始
黒点があった。
白点があった。
白黒の点が一つづつあった。
オセロであったら、今手番を持つ方が勝つ状況である。
ごま塩であったら、ごまと塩が一対一の割合である。
二つ並んでいる。
(実験者注: 「並んでいる」とあるが文字空間上には空間概念はない。つまり、筆者の空間概念を文字空間上に押しつけて想像している)
黒が先に発見された。
白が黒の次に発見された。
(文字空間では、「黒点があった。」と述べられたあとに「白点があった。」と書かれているのでこれは文字空間の記述から導き出される記述である)
ふたつの点で視線を行き来させると点滅しているようである。
なぜ白いのだろうか。
なぜ黒いのだろうか。
文字空間上に色は存在するのだろうか。
文字空間上に光源は存在するのだろうか。
また、光を反射してその色をしているのだろうか。
あるいは、光を発してあるいは全く発しないでその色をしているのだろうか。
文字空間上には両者の間の色は存在するのだろうか。
あるいは、白か黒かしか色は存在しないのだろうか。
文字空間の色はどんな色なのだろう。
もし、白だとしたら白点は見えない。
もし、黒だとしたら黒点は見えない。
つまり、視覚をもってこの文字空間に立った場合、もし白か黒かしかない場合、どちらかの点は見えないはずである。しかし、両者は見えないだけで存在が消えた訳ではない。
点に大きさはあるのだろうか。
(以下筆者の問いが続く)
実験終了
結果
二つの点だけでは、筆者の問いや比喩が多い傾向になる。点自体が新しいものを生み出すというよりかは、筆者と文字空間の間で新しい記述が生成される。
また、文字空間の設定もシンプルだったため論理的な考察が多い。論理はとりあえず考えるための指標になるのだろう。だから、記述を稼いだり何か考えなくてはいけないときは論理的な考えが優先される。反対に、「オセロ」「ごま塩」のような比喩は、考えられはするが数が少ない。論理的でない思考は思いつきに頼らざるを得ない。
あるいは、筆者は文字空間の秩序を保つために論理的な思考を優先した可能性がある。なぜなら、思考は文字空間に関するものが多かったためである。
論理的な思考は、文字空間に新しい情報を付加しない。つまり、文字空間を保存したまま記述を続けることができるのである。
一方、飛躍的、水平思考的な思考は文字空間に変容をもたらす。「オセロ」のたとえは、空間的、あるいは筆者の経験がもとになって生み出された。それは、文字空間とは必ずしも一致しない。しかし、そこから筆者が連想を続けた場合、文字空間とは一致しない記述が繰り広げられるだろう。
まとめ
論理的記述は文字空間を保存し、水平的記述は文字空間から逸脱する。根本的な法則が明らかになった。
絵の実験
絵の実験
例えば、言語空間に絵を二通りの方法で設置する。
それぞれの言語空間は独立していて、互いに干渉しないものとする。
ある言語空間では
「絵がある」
とだけシンプルに記述する。
つぎの言語空間では、
「絵がある。
少女が描かれている。
少女はこちらを振り返っていて、耳には真珠がきらめいている。青いターバンを巻いている。」
などと具体的に記述する。
両者の違いは何だろう。
前者のシンプルな空間では、その絵が何の絵かは不明である。つまり、言語空間は固定されていない。ある人にとっては抽象画が、またある人にとっては風景画が描かれているかもしれない。
後者の言語空間には、前者と比べては具体的である。また、記述も実在する絵を元に考えた。フェルメールの真珠の耳飾りの少女である。その絵を知っている人は、前者のの言語空間よりも遙かに具体的に思い浮かべたに違いない。 つまり、言語空間の固定の度合い、意味のばらつきの度合いに差が生じているのである。前者の言語空間は、読み手による意味のばらつきが大きい。対して、後者はばらつきがちいさい。
そのような言語空間の固定度は操作が可能である。
たとえば、それは言葉を書き加えるという形で簡単に実行できる。
「絵がある。
その絵は『真珠の耳飾りの少女』である。」
と一行付け足すだけでよい。しかし、『真珠の耳飾りの少女』という作品を知らない人には、固定度合いの変化はない。
言語空間の変化といっても、絵の実験のような具体性の変化と、点の実験でわかった論理的な記述と、平行的な記述による展開の変化の二種類の変化がある。
今までの実験では言語空間を曖昧に定義していたが、ここですこし明確な定義を考えてもいいかもしれない。言語空間の性質を分析するためである。
文字によって作られる空間。それが言語空間である。
例えば、「あ」という一文字だけの言語空間も存在する。空集合のように、「」という言語空間を考えてもいいかもしれない。
また、反対に『鯨』はすべての可能性によって作られる言語空間である。
小説も、詩も、俳句も、およそ文字で書かれたものはすべて言語空間である。
『鯨』は、すべての言語空間を要素に持つ。
言語空間の可能性は限界がない。
たとえば、言語は無限大に連ねることができるので言語空間をすべて書き表すことはできない。
言語空間を記述する言語は任意である。
日本語でも英語でも良い。また、独自の言語、あるいは数学でもよい。
そのことから、言語空間にふくまれるのは文芸作品だけでなく、プログラム、絵画、音楽、物理現象、またその総体としての宇宙、なども要素としてある。
言語空間の概念
それが言語空間の外形である。言語とはなにか、宇宙を記述することはできるのか、など謎は残る。しかし、核になる概念は『鯨』である。
『鯨』によって言語空間の概念は生まれる。
つまり全体としての『鯨』を想定するからこそ、部分として言語空間の概念が生じる。
また、単純に私たちが目にすることができる活字などを言語空間として考えることで、それらのすべての可能性を考えた『鯨』へと発展していく。『鯨』と言語空間どちらが先に生まれるかは厳密には関係ない。
『鯨』の性質を、詳しく定義すると展開の柔軟性、具体性がともに無限大となる文字列のことである。
『鯨』にはすべての文字列がはいっているので、限りなく具体的である。そして、平面的な記述も同時に含まれているので限りなく柔軟でもある。
言語空間を考えるとき、それを読んだり認識したりする存在についても考えなくてはならない。
『鯨』のような言語空間は人間には解読不可能である。それは存在すると言ってもいいのだろうか。わたしは良いと考える。『鯨』には私たちに解読不可能な言語、理解不可能な記述が含まれる。また、長さも無限大なので時間的にも解読することは不可能である。しかし、そうだからと言って存在しないと言っても良いのだろうか。
言語空間の存在と解読は別次元の問題である。つまり、解読できないからと言って、存在しないと考えるのは合理的ではない。個人にとって解読することができないものでも、ほかの人には解読することができる。読者の知的レベル、あるいは使用言語によって解読可能かどうかは違ってくる。
人間に解読不可能であっても、『鯨』は存在する。また、『鯨』は思考可能な実在である。
筆者の実験
言語空間に関わる実在の研究を続けたい。
言語空間には、それを構成する筆者が必要である。『鯨』の筆者は誰なのか、それは依然として研究者の間で議論されている。それは、無限長の文字列を書きうるものそして宇宙の情報をすべて認識しうるものである。
また、『鯨』はどこに記述されているのかという議論もある。それらすべてに正確に答える学説はない。
簡単であるが本実験では言語空間における筆者の実験を行いたいと思う。
実験条件
言語空間「」を用意する。
(「」は、文字列のない言語空間。)
筆者はこの言語空間「」に言語を書き足すことにする。 この場合、筆者は単純な設定をもうけ、観察可能な執筆アルゴリズムで書くとする。
この筆者は、文を書くときに文末に使われる単語を次の文頭に持って行かなくてはならない。
実験開始
わたしはお腹が痛い。
痛いというとき人はいたいところをさする。
さするときは、自分がいたいということがわかるように他人に見やすいからだの位置をさする。
さすることは、痛みを軽減しているのか。
軽減しているものは痛みではないなにかである。
なにかとは、他者に自分が痛がっているということを示すことで軽減されるものである。
もの、とは社会的なものに違いない。
ない。
ない。
ないものはない、と言っても。
言ってわかるなら、わざわざさすったりするだろうか。
することは、とりあえずすべてしているはずである。
していることは、お腹をさすり、顔をゆがめ、「お腹が痛い」と実際に声に出すぐらいである。
出すべきものは自分の腹を痛めているその原因だ。
原因がわかればすぐにそれを取り除けば良い。
良い選択は、自分の腹を痛めている原因を特定することだ。
ことを起こさないように、穏やかに「腹が痛い」という問題を解決したい。
解決するために、自然と人は最適な行動をとっているに違いない。
ないとはいえ、人それぞれ痛がり方は異なる。
異なる例は、例えば典型的に痛いといったり、だまってトイレに行ったり、痛すぎて倒れたりする方法がある。
ある人は、倒れるまでもない腹痛で苦しんでいる。
いると言うことは、周りの人に自分が認識されているということである。
ある行動をとると、その周りの人に影響を及ぼす。
及ぼす影響は時に、他人に迷惑をかける。
かけるということは、自分の行動次第で何かしらの損害が発生する可能性があるということである。
ある人には、「腹が痛い」というだけでその人は不安になるかも知れない。
ないとはいえ、不安にならない人もいる。
いる人は、「腹が痛い」人がいるという空気に巻き込まれる。
巻き込まれる人は、助けてあげようという気持ちになる。 なるときはなると言うが、社会的にはわざわざ「お腹が痛い」と声に出していう人をほおっておけるだろうか?
おける時は、その人が絶対に大丈夫だと確信している時だけではない。
ないと思っていても、無視した自分は「お腹が痛い」と言う人がいても助けない冷酷な人間だと周囲に思われる。
思われるのはややこしい。
ややこしいのは人の心。
心は自分でも他人にもわからない。
わからないから、なるべく無難な道を選ぶ。
選ぶなら、「痛い」のが本当かどうかわからなくも助ける。
助ける人は親切だ。
親切な人は周りに助けられる。
助けられると社会で生きやすくなる。
生きやすいということは、「痛い」といって助けられたひとを助ける人にも利益になる。
なるようになる、と楽観した人は直接的に利益をもらうことができない。
ないものはないので、もらえない利益。
利益は「痛い」といったひと、助けるひと双方にある。
あるのだから、人はわざわざ「痛い」とお腹をさする。
実験終了
一通り、筋は通った文章が生成された。
お腹が痛いとき人はなぜ、お腹をさするのか。それは、お腹が痛いと言うと人が助けてくれるから。そして、助けた人にも利益がある。だから、助けてくれる可能性が高く、人はわざわざ「お腹が痛い」と声に出して言う。
と言うことが書かれている。
文章の特徴としては、冗長になるというのがあげられる。単語の縛りがあるせいか、自由に書く場合よりもかなり文字数が多い。この現象は、末尾の単語を再利用するという水平的な思考が必要とされるからだと思われる。水平思考は言語空間を拡大する効果がある。
また、最後の方では
助ける人は親切だ。
親切な人は周りに助けられる。
助けられると社会で生きやすくなる。
のように、単語を数珠つなぎに説明をしている。それは、論理的に意味を広げずに説明し文章の冗長度を下げる効果があると見られる。
また、ないやあるなどという抽象的な単語が末尾にくると続けづらい。「ないものはない」「ないというのは」などと定型的な話題修正の手段を使って曖昧に説明にシフトしていく形をとった。
筆者に課された条件は文体に影響を及ぼす。
条件が文体を生む。ならば、『鯨』はいかなる条件も持たない筆者により書き出された。あるいは、すべての条件の重なり合う地点が『鯨』である。
今後も引き続き実験を続けていきたい。
アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。




