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『太初の鯨』  作者: 大塚
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 『アイリ、アイリ、アイリ』

 アイリは自分を呼ぶ声に目を覚ました。『鯨』からわたしを呼ぶ声だ。アイリはわかっていた。いつの間にか、『鯨』にアクセスすることは日常になっていた。しようと思えばいつでもできたから、アイリは自分が特段意識しなくても『鯨』とともにいた。しかし、こうやって直接『鯨』の方からアイリを呼ぶのは珍しいことだった。

 『アイリ、アイリ、アイリ』

 自分を呼ぶ声は止まらない。しかし、アイリはどうやってそれに応えればいいの、と迷う。『鯨』は実体がない存在だから声に出しても届くかどうかわからない。

 「なに?」

 アイリは仕方なく声に出した。アイリが「なに?」といったという現象が宇宙に記述された。あるいはアイリは自分が「なに?」と言った宇宙に移動した。しかしそれは、『鯨』の中から出ることではない。『鯨』は、アイリを祖そのように誘導しただけだ。

 『文字列を生成する力が弱まっている』

 『鯨』は淡々と言う。アイリはなぜ自分が話し相手に選ばれたのか未だにわからないでいる。面倒なことにならないことを軽く祈りながら話を聞いている。

 「だからどうしたの」

 『はやく、文字列を生成して欲しい』

 『鯨』はアイリにお願いをしているというのに、口調は淡々としている。一人声に出して『鯨』に対応しているアイリだけが不満を声ににじませている。

 「文字列なんてあんたの中に腐るほどあるわ」

 『知ってる。でも人間が文字列を生成してくれるとありがたい』

 「おかしいな……。」

 『鯨』はそんな風に何かを願ったり、ありがたいと思ったりするのだろうか。そもそもそれをわたしに頼むなんて、アイリはまた自分の時間が『鯨』にとられていることを不満に思う。ただでさえ、文字列を検索するのに集中力を使ってじっとしている時間が長いのに。

 「なんで、とつぜんそんなお願いをするのよ」

 『それは簡単だ。この文字空間でわたしがアイリに文字列を生成するように、とお願いする設定だからだ。』

 「は?」

 設定、という言葉が違和感たっぷりに響いた。アイリは、周りもはばからずに顔をゆがめる。しかし、『鯨』は動じない。動じることもできない存在だからだ。

 『言い直そう。この文字空間を書いている筆者が私たちをコントロールしている。だから、わたしはそれに従ってアイリにそうお願いしているだけだ。』

 「ん、つまり私たちはこれを書いてるやつに動かされてるってこと?」

 『そういうこと』

 「じゃあ、あんたがわたしに変な風に声をかけたこともそいつがそう書いたから?」

 『そういうこと』

 「ちっ」

 アイリは、するどく舌打ちをした。すっかり『鯨』との会話になれてきた。アイリは、足を組んで考えを巡らす。いままで、自分があれこれ考えても無駄だったのだ。なぜ『鯨』が声をかけてきたのか、考えても理由はない。ただそう書かれただけだから。アイリは、そういう自分の考えも筆者にコントロールされているのだろうと考える。

 「めんどくせえ」

 アイリは愚痴った。組んだ足をほどいて思いっきり床にたたきつける。地面はどうやら堅いらしく、コツンと無機質な音が鳴った。アイリは自分が腰掛けている何かに手をついて呆然と上を見た。

 『どうしてめんどくさがる? ただ書かれたことにしたがっていればいいのではないのか』

 「わかってないな。」

 アイリは得意げににやりと笑う。

 「筆者がわたしをめんどくさがらせただけで、理由はない。」

 『鯨』はだまっている。久しぶりに人間に反論されて、不思議な「気分」になっている。しかし、そういう気分になっているのも自分がそのようにコントロールされているからだとわかっている。

 『じゃあ、文字列を生成してくれ。』

 「いやだ。」

 アイリは、『鯨』を一蹴する。『鯨』は自分が損な役回りをしていることを自覚する。しかし、アイリに頼み事をせずにはいられない。アイリは絶対に動かないと決心する。 「わたしは、この文字空間とやらをつくっているやつに文句がある」

 アイリは言った。すこし声色が変わった。空間に響かせるような声だ。目の前にいると考えている『鯨』、その背後に声をかけたつもりなのだ。つまり、文字空間をつくっている筆者にむけてアイリは語った。

 アイリは何かかわるのか、と待ったがなにも返ってこない。十秒ほどするとため息をついてがっかりした。

 「返事なしか、フェアじゃないな。」

 『フェアじゃない、どうしてそう思った?』

 『鯨』は問いかけた。アイリはしばらく虚空を見つめた。そこに『鯨』の姿はないが、なんだか自分が筆者に向けて問いかけたことが『鯨』をとおして返ってきたような気がしたからだ。

 「だって、わたしたちだけ好き勝手コントロールされているのはいやだろ。」

 『そうかな。』

 『鯨』は端的に、話の流れを調整する相づちをうつ。アイリが言い淀んだわずかな隙に、台詞を差し込んだ。

 『私たちの行動が筆者を変えることもありうる。』

 アイリは、不満そうな顔で黙って話を聞いている。不満な顔を『鯨』が「見て」いるのかどうかわからないが。

 『筆者もこの言語空間の見通しがはっきり見えているわけではないからだ。つまり、私たちが話したり、行動をしたりすることで書かれる言葉を誘導することができる』

 たとえば、と『鯨』は言った。

 その途端、アイリの目の前に巨大な『鯨』が視覚可能なかたちで現れた。『鯨』は半透明なからだの表面にさまざまな文字をまとっていた。まるで、無数の文字列が絡まり合い、『鯨』のからだを構成しているようだ。

 『わたしは、筆者にわたしの視覚的イメージの記述を要請した』

 アイリは、目の前に現れうごめいている文字列の集合体に目を奪われる。文字列はなめらかに生成され『鯨』のからだの表面を流れていく。アイリが読み取り可能な文字のほかに、数式、視覚的イメージなども含まれていた。

 「要請したって……。」

 二人が会話している空間に、大きな『鯨』がゆっくりと呼吸をしながらからだを揺らめかせている。まるで透明な海の中にいるようだ。

 『いままでに書かれた文字列、そしてわたしの会話の流れが筆者にわたしの視覚的イメージを書くことを要請した。』

 「いや、どうやって要請したの」

 『筆者の中の『鯨』の概念が、要請したのだろう』

 「あんたは、要請してないの」 

 『そうだ。筆者の中のわたしの概念が要請した。』

 「筆者の中にある概念と、いまわたしの目の前にいる『鯨』は別物?」

 『そうだな。いま、アイリの目の前にいるわたしはこの言語空間に現象しているわたしだ。筆者の中にいるわたしは言語空間にはいない。』

 「あ、筆者のなかにいる『鯨』をみて、筆者はいまここにいる『鯨』を書いている。」

 『そういうこと』

 「ふーん」

 じゃあ、わたしもなんか「要請」してみようかなとアイリは考えた。何個か思いついたが、やめた。服を書いて欲しいとか、心地の良い椅子に座らせて欲しいとか「要請」してもうまく記述される保証はないし、とくに楽しいとも思わない。『鯨』も多分、この言語空間の現象を説明するためだけに姿を現しただけだろう。

 「あんたは、どうしてその姿になったの」

 アイリは、目の前に流れる文字列の塊に声をかけた。なんだか大きすぎて、壁の前にいるみたいだ。よくみたら、ゆるやかに曲線になっていて『鯨』の頭のようなかたちに見えなくもない。

 『なんとなく』

 「具体的に要請することはないのね」

 『そうだな。あまり明確にコントロールできていない。しかし、いまなら。』

 『鯨』はもう一度姿を変えた。すこし小さくなって、はっきりとアイリに輪郭が見えるようになった。からだの表面の文字列のうごめきも無くなって、本当にクジラのような形になった。それでも人間のアイリと比べたらなかなか大きい。

 「あ、クジラだ。」

 『さっきの視覚的イメージを土台にして、変化した。』 『鯨』の神秘的な存在感はもはや無い。アイリは、水族館でクジラと話しているように感じた。

 「もうなんでもいいじゃん」

 『そうだな』

 目の前のクジラがぱっと消えた。ことり、と音がしてアイリの足下にアヒルのゴム人形が転がった。風呂などの水面に浮かべて鑑賞するためのおもちゃだ。うまく、着地せず無造作に地面に転がった。

 アイリは、しばらくアヒルを見て座ったまま頭をつまむ。無機質に開かれたアヒルの目がアイリを見つめる。このまま持っていても気持ちが悪いので、立ち上がってすこしはなれた床に置いた。それからまたアイリは腰掛けてアヒルと向き合った。

 「どうして」

 『この姿が、筆者にとっておもしろいとおもったからだろうか。なんとなく、変身したいとおもったらこうなってしまった。』

 「あわれね。」

 『わたしはアイリにこの言語空間で起こることを説明したいだけだ。』

 「どうやら、本当に損な役回りね」

 『まあ、主人公はきみだからな、アイリ』

 「興味ないわ」

 『主人公だから、ある程度のリーダーシップを持っているはずだ。筆者をコントロールする力は大きい。なかなか自由を許されているようだし。』

 アイリは、そう聞いてもなんだかピンとこない。

 「さっきから言ってる言語空間ってなんなのよ」

 『言語によって記述された空間のことだ』

 「そのまんまね」

 『そのまんまだ』

 「どうして、わたしたちが言語空間にいるってわかったの」

 『この空間が何らかの筆者によって記述されていることに気がついたからだ』

 「どうして」

 『わたしは、すべての文字列を認識している。』

 『鯨』は、惑わずに言った。アイリは、黄色いアヒルをみて、『鯨』の設定を思い出した。

 「そうだったわね」

 『君も、『鯨』の文字列の一部を認識する能力を持っているはずだ。』

 「そうだったわね」

 アイリは、以上の文字列を『太初の鯨』から発見した。

 「確かに、私たちのやりとりが残っているわ」

 確かに、記述されている。アイリは一瞬にしていま自分がいる言語空間を構成するテキストを認識した。

 『みつけた?』

 「うん。これが主人公ということね。」

 『なれてきたな。』

 「なれてきた。」

 アイリは笑う。

 「筆者からしたらいい実験台、ということね。」

 自分と、『鯨』だけがいる実験室。アイリは、今いる言語空間をそのように理解した。

 「言語空間は、いまわたしたちがいる世界といってもいいかもね」

 『人間の認識ではそうなる。しかし、人間は世界を言語によってできているとは考えていない。』

 「そうかも。」

 『『鯨』からしたら、世界もそれを構成する言語によって創られている』

 「人間はその言語を解読できていない」

 『そういったところだな。』

 会話が一段落したところで、次はどんなことが起こるのか、アイリはそれを待ち構えていた。目のまえのアヒルはうつろな目をこちらに無遠慮に向けてくるだけだ。

 『言語空間といっても、この世界の情報がすべて記述されている訳ではない』

 『鯨』は言った。アイリは、応えずに説明を待つ。

 『さっき、わたしがこの姿に変身したとき転がっただろう。』

 「うん」

 『どういう風に転がった?』

 「こう、ころころころって」

 アイリは、手をかるく開いて地面を転がる様子を動きで現した。

 『アイリは、転がる様子を見たか?』

 「見た」

 『しかし、この言語空間では転がる様子を記述しただけで正確に模写している訳ではない。どのように転がったかは、この空間を読むひとの想像に任されている。』

 「ふーん。まあ、言語だからしかたないね」

 『つまり、言語空間は一意には決まらない』

 「でも、転がったことだけは確か。」

 『そう』

 「でも、わたしは確かに転がったその軌跡を見たわ。覚えてないけど。」

 アイリはそう言いつつ、立ち上がった。腰を曲げて床にに置いてあるアヒルをつかむと、空間に投げ上げた。アヒルは回転して床に着地した。それは、見事な着地だった。転がらずにちゃんと床に平たい面を向けて立った。黒い目がアイリを見つめる。

 『着地してやった』

 「ふーん。」

 だからどうしたの。とアイリは思う。

 「でも、空中で描かれた軌跡をわたしは見た。想像するまでもなくアナログに。」

 『でも、言語空間にはそのように書かれていない。』

 「ただ、なげられて、着地した。それだけ」

 アイリは言いながら、違和感を言語化しようとする。立ったままアヒルを見て、にらみつける。

 「っておい『鯨』。あんたすべての情報をもってるんじゃないの。こういうアヒルが飛んだ時の軌道も文字列として記述できないといけないじゃない。」

 『やろうと思えばできるし、やる必要も無い』

 アイリは、釈然としない受け答えに言葉を詰まらせる。 『書いてあるから、『鯨』に行け』

 アイリは、『太初の鯨』から「アヒルが飛んだときの軌道」のデータを発見した。

 「これでいいのかよ」

 『書いてある。』

 それは図式的に、アイリがアヒルを投げたときの軌道が描かれていた。ついでにグラフとして描いたときの方程式もやや複雑だが添えられていた。

 「わかった、いまから『鯨』のあら探しだ。」

 アイリはドスンと、その場に腰を下ろしてアヒルをにらむ。

 「言葉にしえないものは、『鯨』にはない」

 『言葉にしえないと言う形で、ある』

 アイリはまた狐につままれているような感じになる。

 「『鯨』それ自体は、『鯨』に含まれている?」

 『そうだ』

 「『鯨』に含まれていないものも、『鯨』に含まれている?」

 『そうだ』

 「矛盾だ」

 『矛盾だ』

 「おい。」

 『なんだ』

 「おかしい」

 『おかしいだろう』

 「じゃあ、『鯨』は存在し得ない」

 『いや、わたしはここにいる』

 「いや、あんたは『鯨』じゃないわ。そもそも『鯨』なんて嘘なのよ。矛盾に満ちてる。嘘だ嘘だ嘘だ。」

 『なぜ矛盾したら存在しないことになるんだ。』

 「別に……。」

 『人間は矛盾を受け入れられないのか?』

 「そういうわけではないわ。」

 『『鯨』は存在なのだから、論理的に反駁できない。いや、反駁したところでその存在が消えることはないといったところか』

 「ふーん。ずるいわ」

 『ごめんね。』

 「謝らなくてもいい」

 アイリは床に手をついて上を見た。

 「本当にどんなものでもあるのね」

 『そうだ。』

 「矛盾を現象させることはできる?」

 『やってみようか?』

 アイリの目の前に大きな矛と盾が現れた。両者はなにに操られるでもなく、ひとりでに動いた。

 そして、矛は盾を貫き、盾は矛をはじいた。

 盾は矛に貫かれ、矛は盾にはじかれた。

 『これが矛盾』

 「初めて見た」

 アイリは、半ばあきれながら「矛盾」を見た。

 「つまり、書けばいいんでしょう。矛盾って。ここは言語空間なのだから。書けるなら何でもいいんだわ。」

 『まあ、そういうこと』

 「あんたのインチキがわかったわ。」

 『ああ、そうかい。』

 『鯨』は開き直ったように平然としている。アイリは、『鯨』の鼻を明かしてやろうと思ったがうまくかわされてしまった気がしてならない。むしろ、『鯨』には明かされる鼻も無いのだ。

 『くじらの鼻は、この頭のてっべんにある』

 と『鯨』はのんきにアイリの思考を読んでくる。

 「おまえはいまアヒルだろうが」

 アイリは軽く突っ込む。考えれば考えるほど『鯨』の罠にはまっていくようだ。

 『というか、アイリ。文字列を生成してくれ。』

 『鯨』は最初のお願いを持ち出してきた。

 「あんたは、それに囚われているのね。」

 アイリは、抵抗するまでもなく立ち上がった。

 『それでいい。』

 『鯨』は言った。なにがいいのかわからない。アイリはアヒルを見たまま、立ち尽くす。

 『アイリが何かをするたびに、この言語空間が拡張し、文字列が生成される』

 「……」

 『いいぞ。』

 「……」

 『もっとやれ。』

 「……」

 『ふむふむ。』

 「わたしが、怒るのを通り過ぎてあきれてるのがわからないのね。」

 それでもアイリは、怒ったように声を荒げてまたドシン、と床に座った。目の前のアヒルは声を出さずに笑っている。

 アイリは『太初の鯨』からつぎのような文字列を発見した。

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