44話 真由、ダウン
真由と違って、ガラス張りの一面から台風十号の嵐が吹き荒れる景色を見ても全く動じないのは、さすがは黒咲と言ったところか。
エレベーターが最上階に到着し、オレたちが宿泊している部屋、というかフロアに黒咲が足を踏み入れて一言。
「へえ、ふぅん……さすがはお嬢様。すごい部屋に泊まってるんだねえ」
「……まあ、オレは何もしちゃいないけどな」
そう、こんな豪勢な部屋に宿泊出来るのは別にオレが何かしたからというわけではなく。真由の手腕とコネによる恩恵に預かっているからだけなんだが。
エレベーターのある廊下から、まるで引っ越しの時に物色するように色々な部屋を見て回っていく黒咲は。
一々、違う部屋に入るたびに驚きの声を漏らしていく。
「見れば見るほど私たちが泊まってるホテルの部屋とは段違いだよ……もううちの部員全員でこっちに引っ越してきたい気持ちだねえ」
「はは、そりゃ合宿でこんな豪華なスイートルーム取ってたら、練習どころじゃなくなるだろうしな」
我が聖イグレット学園の女子剣道部と言えば、黒咲の加入によって今や全国制覇を狙える有力候補の一角だ。
だからこそ骨休めを兼ねて、合宿に北海道だったり沖縄だったりという場所を選択できたのだろうが。それでもオレらが宿泊してるような高級リゾートホテル、というわけにはいかなかったようだ。
まあ、この通称『伏魔殿』、普久間殿リゾートホテルは予約を確保するのも困難なため。いくら黒咲でも唐突に剣道部員男女合わせて四〇名ほどの部屋の確保は無理だったのだろう。
「ところで……景君が寝泊まりしてる部屋ってのはどこなんだい? いや、さっきからずっと景君の寝起き成分を堪能したくて仕方ないんだが……」
そう言った黒咲が、しきりにオレの頭に視線を向けていたので。頭に何か付いているのかと気になったオレは、わざわざ洗面室で鏡を見るのではなくガラス窓に写る自分の姿で確認したのだが。
「あっ……あ──っ!」
窓にうっすらと写る髪には、見事なまでにピンとはねた立派すぎる寝グセがついていたのだ。
オレがショックを受けてると、横にいた黒咲の口から笑いが漏れるのが聞こえた。
「ぷっ……フロントじゃ笑うのを我慢してたんだが……もう限界だっ、はっはははは!」
「う、うるさいっ、元はと言えばこんな朝っぱらから、しかも台風の中ホテルまで来た黒咲のせいだろうがっ!」
どうやらこの寝グセを見た黒咲は、ホテルの従業員がいたフロントでは笑いを堪えてくれていたらしいが。いよいよ二人きりとなると遠慮などしなくてもよいと思ったのか、盛大に笑い始めるのだった。
(だ、だったら笑うのを我慢する前にそれとなく寝グセのことを言ってくれよっっ……)
まさかこんな早朝から黒咲が来るなどとは聞いていなかったオレは、電話で叩き起こされ。
慌ててフロントに出るために服を着替えるのには気が回ったものの、さすがに寝グセにまでは気づかなかったのはオレのミスだが。
「はは……いや悪い悪い。こんな朝早くやってきた私も悪かったけど、それだけ急いで対応してくれたってことだからな、嬉しいよ景君っ」
「……な、なんだよ急にっ」
人をからかうように笑ったかと思えば、いきなり真顔に戻ってはオレの手を握ってくる黒咲の態度と、迫ってきた彼女の顔に。
思わずオレはドキン、と胸を高鳴らせてしまう。
オレの視線は、近づいてきた黒咲の顔の一箇所……リップなどしていないはずなのに、やけに艶かしいピンク色の唇に釘付けになっていたからだ。
(……き、昨日のことが、嘘じゃないってんなら、オレは真由だけじゃなく、黒咲とも……キス、しちゃったんだよなぁ)
そう。
昨日、泳げない真由をゴムボートに乗せて沖まで出て海を堪能していた際に。突如大波にボートがめくられ、真由の水着を紛失してしまうという不慮の事故にあってしまう。
どうしよう、と途方に暮れていたオレらの前に颯爽と現れたのが黒咲だった。
真由の水着を見事発見してくれた黒咲だったが、その代償として海に引きずりこまれた挙げ句。
泳げない真由に邪魔されない海中で、オレは黒咲に唇を奪われてしまったのだ。
「ふふ、どうしたんだい景君。いつもならこうやって手を触れただけで怒って振り払ってくるのに、今朝はやけに殊勝じゃないか」
「い、いや、それは……そのっ」
女子である黒咲にはわかるまい。
今までキスすら未体験だったオレが、たった一日で真由と黒咲の二人と一気に初めてのキスから二度目のキスまで済ませてしまい。
大人の階段を二段跳びで昇ってしまったような、今のオレの気持ちが。
そう思うと、今まで何気に触られてきた黒咲の指の柔らかな感触や、すっかり雨で冷えた肌の温度が。やたらと生々しく感じてしまえていたのだ。
(お、おさまれ……おさまれっ、オレの心っ!)
今まで男女の関係など意識してなかった真由と黒咲を、昨日の一件から妙に意識し出してしまい、すっかり戸惑っていたオレは。
いくら心の中で落ち着かせるように暗示をかけても、胸のドキドキが収まる様子はなかった。
そんなオレの唇への視線に気づいたのか、黒咲は自分の人差し指を唇に置いて。
動揺するオレを畳みかけるように黒咲は口を動かしてきたのだ。
「……景君。そんなに私の唇が気になるのかい?」
「い、いや……違っ!」
焦るオレの顔に黒咲の顔が、彼女の鼻先がオレの鼻頭に触れるかどうか、黒咲の息を顔で感じる距離にまでズイッとさらに迫ってくる。
ここまで距離を縮められてしまうと、恥ずかしながら黒咲とのキスを思い出し動揺していたオレは、もうまともに反論することもできなかった。
──黒咲の顔がさらに迫る。
このまま黙って雰囲気に流されたら、オレはきっと黒咲にまた唇を奪われてしまうのだろうが。
それなら別に構わない、と思ってしまい。黒咲に何ら抵抗することなく空気に流されてしまっていたが。
「はい。そこまで、ですわ」
背後から聞こえてきた声とパン、パン、という手拍子に、ぎょっとして我に返ったオレが声のした方向を見ると。
「ま、真由っ、起きてたのっ?」
「ええ、せんぱい……せっかくのお楽しみのところ申し訳ありませんが」
なるだけ起こさないよう細心の注意を払っていたはずなのに、寝ていた真由がいつの間にか部屋の入り口に立っていたのだ。
しかも、昨日寝かせたドレスのままではなく、部屋着に着替えているということは。多分、もう少し前から起きていたのだろう。
「……ちっ」
オレの耳に入るか入らないか、ギリギリの小声で黒咲が舌打ちするのを聞き逃がさなかったが。
「い、いや、これは違うんだって、黒咲が台風の中ここまでやってきたから放置するわけにはいかないだろっ?」
昨日のこともあって、オレは黒咲が握っていた手をとっさに振り解いていき。流されそうになった罪悪感から、必死に真由に弁解を始めてしまうが。
オレはてっきり、不機嫌になった真由がどんな意地悪を言ってくるのかとヒヤヒヤしていたところだったが。
だが、オレの苦し紛れの説明を聞いていた真由の様子が少しおかしいことに気づく。
昨晩とは違い、朝になって雷雲はすっかり収まり今は雨風のみの外の様子なので、雷を怖がっているわけではないようだが……
「……あ」
「あ、危ないっ真由っ!?」
こちらに近づいてこようとした真由の足が不自然にもつれ、前のめりに転んでしまう。
真由が体勢を崩すのには気づいたオレだったが、朝っぱらということもあり、昨日あれだけ海水浴をした筋肉痛もあって脚がなかなか動かなかった。




