第一章 灰の契約 8
黒い腕が、夜空を埋め尽くしていた。
空から降る異形。
その一本一本が、人間を容易く握り潰せるほど巨大だった。
「迎撃!! 迎撃しろォ!!」
騎士団長の怒号が響く。
魔法が飛ぶ。
「炎」 「雷」 「風刃」
夜空が閃光で染まる。
だが。
黒い腕は止まらない。
斬っても。
焼いても。
まるで痛みを感じないように蠢き続ける。
「クソッ……!」
リアが剣を振り抜く。
轟音
一撃で三本の腕が吹き飛ぶ。
だがその断面から、
新しい肉が増殖していく。
再生。
しかも異常な速度で。
「再生持ちかよ!!」
リアが舌打ちする。
ミシェルは冷静だった。
「違う」
「は?」
「あれは単体じゃない」
灰青色の瞳が空を睨む。
「深淵門そのものと繋がっている」
レインの背筋が冷える。
つまり。
あの裂け目が存在する限り、無限に再生するということだ。
その時だった。
「きゃあああ!!」
悲鳴。
一人の騎士が腕に掴まれる。
そのまま空へ。
「離せェェ!!」
仲間たちが必死に引き戻そうとする。
だが。
腕は騎士を裂け目の奥へ引きずり込んだ。
絶叫が途切れる。
直後。
裂け目の向こうで、
“咀嚼音”が響いた。
誰も動けなかった。
あまりにも現実離れしていて。
脳が理解を拒否する。
その沈黙を破ったのは、灰の竜だった。
『――見ろ。』
レインの視界が強制的に引き上げられる。
裂け目の奥。
その向こう側を。
レインは見てしまった。
無数の死骸。
積み重なった骨。
血の海。
そして。
巨大な“何か”。
世界ほど巨大な黒い影。
それが裂け目の向こうで蠢いている。
見た瞬間、本能が絶叫した。
理解してはいけない。
認識してはいけない。
アレは。
この世に存在してはいけないものだ。
「っ……あ……!」
レインの身体が震える。
頭痛。
吐き気。
視界が歪む。
すると灰の竜が低く囁いた。
『――あれが“深淵”だ。』
深淵。
世界を侵す災厄。
その正体。
レインは息を呑む。
「あんなものが……」
『――まだ端末に過ぎん。』
「……は?」
その瞬間。
裂け目の向こうで、巨大な瞳が動いた。
レインを見た。
世界が止まる。
次の瞬間。
圧力が来た。
見えない“何か”が、レインへ触れようとする。
魂を掴まれる感覚。
寒い。
怖い。
死ぬ。
その時。
灰炎が爆発した。
レインの身体から灰色の炎が噴き上がる。
同時に。
空の裂け目が僅かに震えた。
まるで。
“怯えた”ように。
ミシェルの目が見開かれる。
「……まさか」
リアも異変に気づく。
「おい、あれ……」
黒い腕たちが、レインを避け始めていた。
本能的に。
恐れるように。
その瞬間。
灰の竜が笑った。
低く。
古く。
底知れなく。
『――当然だ。』
『――我は“終焉”を喰らう者。』
レインの心臓が跳ねる。
終焉。
その言葉を聞いた瞬間、断片的な記憶が脳裏を掠めた。
灰の空。
滅びた都市。
無数の竜。
そして。
巨大な黒い“月”。
『失敗した』
誰かの声。
女の人。
泣いている。
『また、世界を救えなかった――』
映像が崩れる。
レインは頭を押さえた。
「ぐっ……!」
「レイン!!」
セレナが駆け寄ろうとする。
だが。
その瞬間。
裂け目の奥から、巨大な“腕”が現れた。
今までとは比べ物にならない。
山ほど巨大な黒い腕。
それが空間を砕きながら伸びてくる。
ミシェルが叫んだ。
「伏せろ!!」
轟音
地面が消し飛んだ。
衝撃波だけで騎士たちが吹き飛ぶ。
結界が軋む。
リアが歯を食いしばる。
「なんだよ……これ……」
絶望的だった。
勝てる相手じゃない。
理解してしまう。
人間が戦っていい存在ではない。
その時。
灰の竜が静かに言った。
『――契約者よ。』
レインの身体が熱を帯びる。
『――力を使え。』
「……また代償を払えってのか」
『――そうだ。』
即答だった。
レインは唇を噛む。
また失う。
記憶を
感情を
自分自身を。
でも
使わなければ
みんな死ぬ。
セレナ
リア
ミシェル
騎士団
全員。
レインは震える拳を握った。
その時。
セレナが後ろから抱きしめた。
「だめ」
小さな声。
震えていた。
「これ以上……消えないで」
レインの呼吸が止まる。
彼女の温もり。
鼓動。
涙声。
全部が胸へ刺さる。
忘れたくない。
失いたくない。
なのに。
守るためには、
失わなければならない。
その矛盾が、レインを壊しそうだった。
空では、巨大な黒腕が再び振り上げられている。
時間がない。
レインはゆっくり目を閉じた。
そして。
静かに呟く。
「……ごめん」
灰炎が、夜空を呑み込んだ。




