第一章 灰の契約 19
沈黙が落ちた。
誰も言葉を発せない。
風の音だけが、静かに山を抜けていく。
セレナは震えていた。
顔色が真っ白だった。
「……うそ」
小さな声。
壊れそうなほど弱い声。
「うそ……だよね……?」
レインは困惑したまま彼女を見る。
泣いている。
どうして。
胸がざわつく。
苦しい。
でも。
記憶がない。
彼女と過ごした時間が、ごっそり抜け落ちている。
その空白だけが、妙に冷たかった。
リアが低く舌打ちした。
「……最悪だ」
ミシェルは静かにレインを観察している。
「記憶欠損か」
学園長が小さく頷いた。
「侵食による代償でしょう」
その言葉に、セレナが反応する。
「そんな……!」
彼女はレインへ近づく。
必死に。
「私だよ……!? セレナだよ!?」
レインは目を細める。
セレナ。
名前は理解できる。
でも。
そこへ感情が繋がらない。
知らない。
知らないはずなのに。
胸だけが痛かった。
レインは苦しげに額を押さえる。
「……ごめん」
その謝罪が。
セレナをさらに傷つけた。
彼女の瞳から涙が零れる。
「なんで……」
声が震える。
「なんでそんな顔するの……」
レインは言葉を失う。
どんな顔をしているのか、
自分では分からなかった。
ただ。
酷く空っぽだった。
その時。
学園長が静かに前へ出る。
「これ以上は危険です」
リアが睨む。
「何がだ」
「契約侵食が進行しています」
学園長の視線は、レインの右腕へ向いていた。
灰色の鱗。
そこから微かに灰炎が漏れている。
「このまま放置すれば、完全侵食へ至る可能性があります」
ミシェルが目を細めた。
「……どこまで知っている」
学園長は答えない。
ただ。
レインを見つめる瞳だけが、異様に深かった。
まるで。
何度も同じ光景を見てきた人間の目。
「王立魔導学園へ来てもらいます」
リアが眉をひそめる。
「保護ってわけか?」
「半分は」
学園長は静かに続ける。
「もう半分は監視です」
空気が張り詰めた。
セレナが反射的にレインの前へ立つ。
「そんな……!」
だが。
学園長は否定しなかった。
「彼の力は危険です」
その言葉に、レイン自身も反論できない。
自分でも分かっている。
今の自分は、もう普通じゃない。
リアが腕を組む。
「拒否権は?」
「ありません」
即答だった。
騎士団もざわつく。
だが誰も反対できない。
今日の戦いを見た。
深淵を退けた力。
同時に。
人間から外れ始めている少年。
放置できるはずがなかった。
その時。
レインの頭がズキリと痛む。
断片的な映像。
銀色の髪。
泣いている少女。
『また忘れたの……?』
ノイズ。
激痛。
レインは思わず膝をついた。
「っ……!」
セレナが駆け寄る。
「レイン!」
その声を聞いた瞬間。
レインの胸が、強く痛んだ。
理由は分からない。
でも。
“この声を失いたくない”
と本能が叫んでいた。
レインは苦しげに顔を上げる。
セレナが泣いている。
その涙を見た瞬間。
頭の奥で、小さな記憶が揺れた。
笑顔。
焚き火。
薬草茶。
温かな手。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
感情が戻る。
レインの唇が震えた。
「……セレナ?」
その声に。
彼女の瞳が見開かれる。
希望が灯る。
だが。
次の瞬間。
その記憶は霧のように崩れた。
レインの目から、再び感情が薄れていく。
「……誰だっけ」
セレナの表情が、完全に崩れた。
彼女はその場で泣き崩れる。
レインは呆然と彼女を見つめるしかなかった。
胸が痛い。
なのに。
どうして痛いのか、もう分からなかった。




