第一章 灰の契約 16
空が砕けていた。
比喩ではない。
夜空そのものに、無数の亀裂が走っている。
その向こう側には、深淵の闇。
世界の裏側。
存在してはいけない領域。
そして。
そこから“指”が伸びていた。
巨大すぎる。
山脈ほどの黒い指。
その一本だけで、王都が消し飛ぶと理解できた。
騎士たちは完全に動きを止めていた。
恐怖。
本能が理解してしまっている。
これは。
人類が敵にしていい存在ではない。
セレナが震える声を漏らす。
「……こんなの……」
リアですら剣を握る手が震えていた。
ミシェルの額から汗が流れる。
「門が完全接続される……」
最悪だった。
もし深淵本体が顕現すれば。
世界は終わる。
灰の竜が静かに言う。
『――契約者。』
レインは空を見上げたまま答える。
「……分かってる」
やるしかない。
もう。
選択肢なんて存在しない。
その時。
深淵の指が、さらにこちら側へ侵入してきた。
空間が悲鳴を上げる。
山が崩れ始める。
王都の方角からも悲鳴が聞こえた。
まだ遠い。
なのに。
存在するだけで世界が壊れていく。
レインは拳を握る。
灰炎が揺れる。
だが。
同時に。
身体の感覚が消えていく。
寒い。
痛みも薄い。
鼓動すら遠い。
灰の竜が静かに告げる。
『――侵食率66%。』
不吉な数字だった。
レインは苦笑する。
「……縁起悪いな」
だが。
恐怖は薄かった。
それが怖い。
普通なら怯えるはずなのに。
心が静かすぎる。
人間らしさが、少しずつ削れている。
その時。
後ろから、小さな手が服を掴んだ。
セレナだった。
彼女は泣いていた。
声を殺しながら。
「……行かないで」
レインの呼吸が止まる。
振り返る。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
震える唇。
怖いのだ。
レインが消えることが。
レインは何か言おうとして。
言葉が出なかった。
何を言えばいい。
大丈夫?
そんな保証はできない。
帰る?
分からない。
だから。
ただ。
そっと彼女の頭へ手を置いた。
温かい。
その感触だけで、胸が締め付けられる。
まだ。
自分はちゃんと感じられる。
セレナは泣きながら言った。
「覚えてて」
レインの目が揺れる。
「もし……忘れても」
彼女は必死に笑おうとする。
「また友達になるから」
胸が痛かった。
あまりにも。
レインは掠れた声で答える。
「……ずるいな」
こんなの。
帰りたくなるに決まっている。
普通の人間として。
みんなと一緒に。
生きたくなるに決まっている。
だが。
空では深淵が世界を侵食している。
時間がない。
レインは静かにセレナの手を離した。
「待ってて」
小さな声。
それだけだった。
次の瞬間。
灰炎が爆発する。
轟音
レインの身体が夜空へ撃ち出された。
一直線に。
深淵の指へ。
空気が燃える。
世界が軋む。
灰の竜が低く告げる。
『――これより先、お前の魂は深淵へ触れる。』
レインは前を見る。
巨大な黒。
終わりの象徴。
怖い。
それでも。
「……だからどうした」
灰炎がさらに燃え上がる。
その瞬間。
深淵の指が動いた。
一本。
ただそれだけ。
なのに。
空間が潰れた。
超重圧。
山が押し潰される。
レインの身体が軋む。
骨が砕けそうになる。
それでも。
止まらない。
「うおおおおおおおおおッ!!」
灰炎の拳。
深淵の指。
激突。
瞬間。
世界から音が消えた。
そして。
衝撃が爆発する。
空が裂けた。
雲が消し飛ぶ。
山脈が崩壊する。
騎士たちは吹き飛ばされ、結界が砕け散る。
その中心で。
レインは。
深淵の指を、
止めていた。
人間サイズの少年が。
山ほど巨大な災厄を。
真正面から。
押し返している。
リアが呆然と呟く。
「……化け物」
違う。
違ってしまった。
もう。
完全に。
その時。
レインの右腕が、完全な竜の腕へ変わった。
灰色の鱗。
巨大な爪。
人間ではない腕。
そして。
頭の中で、何かが砕けた。
パリン。
小さな音。
同時に。
レインの記憶が、一つ消えた。
『――セレナと初めて会った日の記憶。』
レインの瞳が、僅かに揺らぐ。
「……あれ」
何か。
大切なものが抜け落ちた。
なのに。
思い出せない。
その瞬間。
灰の竜が沈黙した。
まるで。
祈るように。




