第一章 灰の契約 14
「……下がってろ」
レインの声は静かだった。
静かすぎた。
感情の起伏が薄い。
それが逆に、セレナを恐怖させる。
「嫌……!」
彼女は震える手でレインの服を掴む。
「もうやめて……!」
レインは答えない。
答えられない。
融合体の咆哮が夜を裂く。
巨大な黒腕が再び振り上がる。
周囲では騎士たちが必死に戦っていた。
だが押されている。
深淵の瘴気が広がるたび、
人間側の魔法が鈍っていく。
このままでは全滅する。
レインは理解していた。
だから。
「……ごめん」
セレナの手をそっと外す。
その瞬間。
彼女の顔が絶望に染まった。
レインは空へ跳ぶ。
灰炎の翼が夜空を切り裂く。
融合体が迎撃に動く。
無数の腕。
無数の口。
無数の怨嗟。
『カエセ』
『イタイ』
『シニタクナイ』
声が頭へ流れ込む。
レインは顔を歪めた。
これは。
喰われた人たちの残骸だ。
魂すら利用されている。
怒りが込み上げる。
その感情だけは、まだ消えていなかった。
灰の竜が囁く。
『――憐れむな。』
「……っ」
『――深淵に呑まれた時点で、既に人ではない。』
「それでも!」
レインは叫ぶ。
「元は人間だったんだろ!!」
灰炎が爆発する。
感情に反応するように、力が膨れ上がる。
その瞬間。
灰の竜が沈黙した。
まるで。
何かを思い出したように。
レインは融合体へ突っ込む。
轟音
灰炎の拳が肉塊を吹き飛ばす。
だが。
再生。
即座に。
キリがない。
深淵門が開いている限り、奴は無限再生する。
なら。
狙うべきは一つ。
レインは裂け目の中心を見る。
黒い心臓。
門核。
あれを壊すしかない。
その時。
融合体の胸部が裂けた。
中から、巨大な“顔”が現れる。
女だった。
半分崩れた顔。
涙を流しながら、こちらを見ている。
『たすけて』
レインの動きが止まる。
その瞬間。
融合体の腕が迫った。
避けられない。
だが。
紫電が走る。
轟音
雷槍が腕を貫いた。
「止まるな!!」
ミシェルだった。
彼は口から血を流しながら、無理やり術式を維持している。
「深淵は迷いを利用する!」
融合体が咆哮する。
同時に、無数の“顔”が浮かび上がった。
老人。
子供。
騎士。
少女。
全員が泣いている。
『シニタクナイ』
『コワイ』
『タスケテ』
セレナが涙を流した。
リアが歯を食いしばる。
誰も剣を振り切れない。
それが狙いだった。
深淵は人間の心を折る。
希望を利用する。
優しさを利用する。
その時。
灰の竜が静かに告げた。
『――だから我は、情を捨てた。』
レインの呼吸が止まる。
竜の声には、深い疲労があった。
『――救えなかった者たちを見続ければ、心が壊れる。』
その言葉に。
レインは初めて、この竜の孤独を感じた。
何千年も。
何万年も。
滅びを見続けた存在。
きっと最初は、この竜も誰かを救いたかった。
だが。
救えなかった。
だから。
感情を削った。
そうしなければ耐えられなかった。
レインは拳を握る。
「……でも」
灰炎が揺れる。
「俺は捨てない」
竜が沈黙する。
レインは涙を流す顔たちを見つめた。
「全部は救えなくても」
胸が痛い。
苦しい。
それでも。
「悲しいって思うことまで捨てたくない」
その瞬間。
灰炎が変質した。
ただ燃えるだけの炎ではない。
柔らかな光が混じる。
温かい灰。
まるで。
誰かを包み込むような炎。
灰の竜が目を見開く。
『――それは……』
融合体の動きが止まった。
無数の顔たちが、苦しげに揺らぐ。
その時。
女の顔が、小さく笑った。
『……ありがとう』
次の瞬間。
融合体の内部から、灰色の光が溢れ出す。
深淵の肉体が崩壊を始めた。
裂け目の奥で、巨大な瞳が揺れる。
初めて
深淵が“動揺”した。




