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意天  作者: 安藤 兎六羽
三章 悪神
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二十七、長双の受難


――――どうして、こうなった?



「≪霊恝真人れいけいしんじん≫どの、長双卿の右手が生えましたわ!」


 銀に輝く錦の衣を纏い、その上からたっぷりとした翠に染められた絹の袿衣うちかけを羽織り、紅玉から削り出した冠を被った仙女が歓声を上げた。

 ベッドに腰掛けて呆然とする長双の右手を優しく取る仙女は床に膝を突きながら、部屋の中央に坐る壮年の男を振り見る。


――部屋。私が与えられてしまった間。これがまた、広い。


 ただ広いだけでは無い。実に居心地が悪い。

 驚くほどに純白な白土の壁面。菱形の窓から差しこむ光をところどころ壁が返して来るのが眼に痛い。

 床に敷かれている縞柄の絨毯は、仙女が言うには≪馬腹ばふく≫という≪怪≫の毛皮を用いたものらしく、足が沈み込むほど柔らかくて気持ち悪い。


 牀も幾つもの絹を重ねているようで、すべすべしており、しかも妙な弾力まであって、腰掛ける長双の尻を微妙なさじ加減で押し返してくる。

 方形の牀の四隅には銀の柱、それを繋ぐように、幾重にも薄絹の帳が垂れており、床に坐る壮年の男の姿は長双と仙女からは見えない。


「おそらく、≪人界≫に残されてきた右手が消滅したのでしょう。……先日の姫君の創癒が今、届いたものと見える。卿の快癒、祝着至極と存ずる」


 壮年の男――五仙の一角だという、≪霊恝真人≫が寿ぎを述べる。


……長双は≪仙界≫とやらの事情を知らない。ゆえに、五仙というものがあるという事しか知らない。

 だが、この男が相当に強いという事だけはわかる。


 長双に艶然と微笑みかけてくる仙女。

 満足そうに笑声を放つ≪仙≫。

…………ここは、≪極南山≫は、≪陽登宮ようとうきゅう≫……。



――どうして、こうなった?


 長双の感覚では、およそひと月前に遡る。ここは、常に陽が昇っていて正確な日月の経過がわからない。

 長双は≪相柳神≫と闘っていたはずだ――




 †††




「――溢れ、至れ。押し流せ――≪かん≫――≪水塊すいかい≫」


「――よろこべ、よろこべ。付き連なれ――≪≫――≪澤柱たくちゅう≫」


 飛来する水弾。

 地面から立ち上る水柱。


 避ける。眼で≪異気≫の流れを捉え、膚で感じて、長双は避け続けていた。


「≪神格≫っ!! ≪女神のはらわた≫どもはどこにいる!」


 中央の首が吠える。

 無視する。応えている余裕など、ありはしない。

 神経を磨り減らす作業。同時に放たれる巫術を回避するのは生易しい事では無い。一手誤れば、即座に詰む。


 近づいてくる≪相柳神≫。速い。しかし、挙動は単純この上無い。

 最速はあちらのほうが上だろう。だが、皐山の≪神≫同様、小回りが利かない。ゆえに初動を見切れば、避け得る。


 繰り出される四つの拳を掻い潜って、剣を刻む。

 僅かに膚を傷つけるのみ。しかも、そのような些細な創でさえそのうち回復されてしまう。



――膠着。互いに決め手に欠けている。

 ≪相柳神≫は長双を捉える術を持たぬし、長双はこの脚の速い悪神から逃げる機が無い。


 半日に及ぶ闘争。

 日が落ちようとしていた。


 悪神には余力がある。

――だが、こちらには無い。


 ≪意≫を決する。このままでは、いずれ捉えられる。ならば――

 長双は駆けた。繰り出される水弾を避けながら、間合いを削る。


よろこべ、よろこべ――」


 数回ほど聴いた祝詛。だが、長双は気がついた――これまでとは違い、敵を中心に八十歩ほどの≪異気≫に大きな乱れがある――

 僅かに震える地。長双の逃げ場を消すつもり――長双は脚の回転を速めた――


「――付き連なれ――≪≫――≪沼澤しょうたく≫」


――≪相柳神≫がそう唱え終わる前に、長双は跳躍していた。長双が足を付いていた場所が水の中へと没していた。

 迫る四つのかいな。身を捩り、蹴り、殴って、躱す。蹴った右足と、殴った左腕が融けはじめていた――


 残った左足で遅れて突き出された敵の左腕を踏み越え、右手で剣を操り左の首を狙った。

 ≪相柳神≫は首を傾け、それを避ける。剣は左肩へと深々と突き立った――


――ここより、ほかは無い!


 長双は空中で身を翻しながら、敵の背中に膝を付け、≪相柳神≫の肩に突き刺した剣を抉る。

 肩から噴き出す黒い血――

 右腕を融かし、長双の身体へと降りかかる血――



――次の瞬間。長双は地中にいた。


――縮地の術。――そう、皐山の≪神≫が使用していた術。

 長双はこの術を何回も眼で捉え、膚で感じていたのだ。巫術のように祝詛はいらない。

 ≪神仙≫が使う≪遁法とんぽう≫というものなのだろう。

 そして、≪気≫の動かし方――身体の操り方はわかる。


 つまり、従えた≪気≫の範囲のどこかへと、≪気≫を伝って己の身ごと力を運ぶ要領だ。

 地中は本来、≪気≫の死角。だが、乾燥して水が消えた沼沢。脆い泥土と、地の隙間。

 長双は従えた≪気≫をそこへと差し入れ、今、そこに縮地によって潜り込んでいた。


……息を殺す。≪相柳神≫に気づかれぬように。≪気≫も手放した。≪死≫を偽装する為に。

 身体中が痛んでいた。四肢は融かされ、己の血が滲んでいるのがわかる。特に右腕は一瞬にして蒸発してしまっていた。

 今見つかれば、確実に殺される。

 殺せ、気配を殺せ。生きる為に殺すのだ――




 †††




――どれほどの時をそうしていただろうか?

 長双は地表へと顔を出した。日はすっかり落ちて、月が昇っていた。

 左拳には血が滲み、両脚のくつは裏地が消え、両膝は衣服が融かされ露出した膝の肉――≪相柳神≫の背中に付けた膝頭はぐちゃぐちゃだった。

 そして、右腕は無い。



――運が良かった。


 眼と鼻の先――長双が潜んでいた地中からニ十歩ほどのところまで≪相柳神≫が産み出した沢が拡がっていた。

 地中では無く、水中だったならばこれほど潜んではいられなかった。その前に、逃げ込んだ場が水中だったならば≪水帝≫の眷属たる≪相柳神≫に悟られたかもしれない。


「……南鄙へ……姫様に火急を告げね、――ば?」


 長双の咽喉は、舌はそれ以上動かなかった。

 痛んだ身体の為では無い。

 身体は確かに痛むが、それ以上に眼を疑った。



――車が宙に浮いている。

 月を背負ってその車駕は間違いなく浮いていた。


 眼を凝らす。――≪異気≫を中空で固めている? その上に載っているのか?

 その≪異気≫を操っているのは、車駕に繋がれた三頭の獣――見たことの無い獣だ。馬のようだが、角があり、たてがみは炎のよう。

 ≪怪≫なのか? しかし、どれほどの力を以ってすれば、これほど≪異気≫を堅固に――


「――≪はく≫が珍しいと見えますわね。大丈夫、馴らしておりますゆえ、貴方様を襲うたりは致しません事よ?」


 車駕の内より、薄い御簾みすを通して女性の声がした。


「姫君。≪火聖真女かせいしんじょ≫様、御自らお声がけなど……」


 車駕の御者――≪駁≫という≪怪≫を御している者も女のようだ。

 静かに車駕の内へと声をかける。


「良いのです。≪繊阿せんあ≫。……わたくしは本当に気分が良いのです。まさか、かの≪相柳神≫と討ち合える者に会おうとは……これほどの者、貴女の父君≪霊恝真人≫どのご自慢の高弟の中にも、ひとりとしていないでしょう?」


 黙する≪繊阿≫と呼ばれた御の女。


――これはどのような状況なのか? ≪火聖真女≫……確か南方で敬われている仙女ではなかっただろうか? ≪霊恝真人≫という名にも耳に覚えがある。確か五仙の一角。……しかし、どうしてそのような大仙と五仙の娘御が、ここに?


「御山を――南方を騒がす≪朱蝶≫なる≪神怪≫を探していたところ、神代の如き決斗けっとうを眼にする事が適うとは……惚れ惚れ致しましたわ!」


…………まずい。そうだ、私とした事がどうして、そこに頭が廻らなかったのか?

 私たちは皐山の≪神≫を弑し奉ったのだった。≪神≫と≪仙≫の関係がどのようなものかは知らないが、少なくとも探されている事は確からしい。


「≪繊阿≫様。≪火聖真女≫様への直答をお許し願えましょうや?」


 長双は即座に跪いた。

 ≪繊阿≫はちらっと車の内を窺った。


「許しましょう。……では、まず貴方様の御名を聴かせて頂けませぬか?」


 ころころと笑う。仙女。

――≪相柳神≫の事は、火急。しかし、≪神仙≫の動きを探る事も重い。

 ならば、情報を引き出せるだけ引き出して、暇を願うほかあるまい。


「私の名は長双と申します。皐公国に仕える夏官長輔、下卿でございます」


 間。

――なぜだ? なぜ、このように間が空く?

 少しだけ、頭を上げれば≪繊阿≫が眼を見開いて停止していた。驚いているのか?


「≪繊阿≫? 皐公国とは、どこの山でしょう? それとも洞?」


 ≪火聖真女≫は何を言っているのだ?

 ≪神仙≫にとっては公国とは、歯牙にも掛けられぬようなものなのだろうか?


「――いいえ。姫君。皐公国、夏官長輔とは、人界の≪格≫にございます」


「あら? では、この長双様は≪人帝≫に仕える≪仙≫という事かしら? ……なれば、≪荊山≫は≪力牧りきぼく真人しんじん≫どのに、寿ぎを――」


「――いいえ。姫君。この者は、≪力牧真人≫様の配下ではありません。……我らが成すべきはこの者――長双を捕える事にございます」


――不穏。

 ≪繊阿≫の気配と、三頭の≪怪≫・≪駁≫の気配が変わる――


「あら、どうして?」


「――≪雷名≫、長双。……父上から聴いた事がございます。かの五仙が一角≪伯夷はくい真人しんじん≫様以来、初めてひとの身でありながら≪転仙≫に至った者がいる、と。……その者が五山のどこに与するかで、≪仙界≫の均衡は大きく傾く、と――」


 咄嗟に、長双は縮地の術を使用しようとした。だが、≪繊阿≫の振るった鞭が長双の左腕に絡みつく。

 なけなしの力が吸われていく――


「≪仙器せんき霊鞭れいべん≫だ。――いかに≪転仙≫といえども、そのように傷んだ身で父上の≪仙気≫が込められたこの鞭から、逃れられるわけが無い」


――まずい。想定外。

 このような連戦は完全に予想の範囲外だ。

 一命を懸けて、脱出を試みるか? この傷ついた身体と、払底しかけた力でどの程度闘い得るか……。


「おやめなさい! ≪繊阿≫!」


「――しかし、姫君。この者を捕え、≪仙碑≫に名を刻めば、我が≪極南山≫の――」


「独力にて≪仙≫へと転化するほど御方を、傷んでいる事を良い事にそのように力で抑えようとは……」



――御簾が上がった。光輝くようなかんばせが長双の眼を奪う。


「さあ、長双様。わたくしの手を御取り下さいませ」


「……姫君」


 呟いた≪繊阿≫の鞭がするすると引かれていく――

 近づく車駕。どうするべきか?


「さあ、御手を……」


――今は力が少ない。

 それに、身体も傷んでいる。十分な情報も得ていない。

 長双は已むに已まれず、伸ばされた白い指を取った――




 〓〓〓




――それが、どうして、こうなった?


「――姫君、≪火聖真女≫様。お願い申し上げたき儀が――」


「まあ! そろそろ、菜園に水をやらなければなりませんわ!」


 長双の言葉をいかにも聞き逃したというように≪火聖真女≫はそう言うと、部屋を飛び出していった……。

 長双は同じく取り残された≪霊恝真人≫の顔を窺う。

……苦笑しつつ、首を振っている。


――最初は≪霊恝真人≫様もこのようでは無かった。


 初対面の時は大層困惑した顔をしていたはず。

 それが、長双が不用意に放った一言からだった――



――この部屋は少し、眩しすぎます。どうか、御物を片付けては頂けませんでしょうか? ――



 そう、長双が与えられた客間は金銀の御物――光り輝く壺やら、刀剣・鎧のたぐい、白坿せきえい白堊しろいし丹砂にしゃ、そして屋の下なのにも関わらず、酸漿ほおずきやらわすれぐさやら芙蓉やらの鉢まで置いてあって、白や橙の花が咲き乱れていた。

 このような部屋で、光と花々の薫りに溢れた部屋で眠れるわけが無い。



――……長双様の御望み通りに……――



 微笑みを崩さずに≪火聖真女≫はそう言ったが、それ以来≪霊恝真人≫の長双を見る目が変わった。



――卿は、この庭園をどう思われる? ――



 ≪陽登宮≫に来てから三日目。創癒の巫術を受けた長双を屋外へと連れ出して、≪霊恝真人≫はそう問うてきた。

 庭園には屋内以上に色とりどりの身の丈ほどもある宝玉、草花で埋めつくされていた。

 隅のほうに小さな菜園があり、種々の薬草を育てているように見えた。



――あの菜園のほうが、理に適っているのではないですか? ――



……なぜか、≪霊恝真人≫から深々と頭を下げられた。

 翌日には、広大な庭園の半分以上が菜園に変わっていた――



――姫君はお優しい方なのですが、その……なんというか……浪費癖がおありで――



 口を濁しながらそう言ったのは仙女の≪繊阿≫だった。

 五仙たる≪霊恝真人≫でも、それを口にするのは憚られたらしい。

――だが、私は言ってしまった……。


 さらに、長双の言葉は≪火聖真女≫に受け入れられてしまう。



――他の五仙の眼もある、そう思うていたが……思わぬ効能だ……――



 ≪霊恝真人≫が長双を見ながら溢した言葉。



――どうして、こうなった?


 長双の身柄は一向解放される気配が無い。

 ここは険しい山岳の頂き。雲の上だ。二度、脱走を試みたが、≪駁≫を操る≪繊阿≫に捕えられてしまう。

 ≪霊鞭≫――あの兵器は厄介だ。こちらの動きが封じられてしまう。


――朱蝶どのは、尚どのは無事だろうか? 私はこのまま囚われ続けるのだろうか?


 焦燥を募らせる長双の耳に、独りの≪仙≫の言葉が届いた――


「南方神・≪祝融≫様が御来訪にございますっ!!」



――……まずい。朱蝶どのを追う≪神≫が来てしまったらしい。……どうするべきなのだろうか?



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