十五、声
――跳んでいた。
跳んで、飛んで、翔んで。まるで蝶にでも戻ったように。
五里霧中の霧の中、細かい霧の粒子を全身に浴びながら、俺は龍を担いで飛んでいた。
ふと、何かに突っ込んだ気がした。
ブヨブヨのゼリーみたいな何か。
でも、眼には灰色の霧しか映らない。なんだろう? なんかどこかで感じた覚えがあるような感触だ。
「≪気≫です、か? ……」
――ああ、そうか。≪気≫だ。
龍の言葉に納得した。モヤッとした≪気≫を、なんか、圧縮したみたいな感触。
実際に、圧縮された≪気≫の固まりなのかな?
長いようにも、短いようにも感じられた、その≪気≫の固まりの層を突き抜けたらしい。
俺の身体は解放感、っていうか懐かしい感覚に襲われる。
……どっちかって言うと無力感――
「朱蝶どの!」
龍の警告が耳元で聞こえた。ああ、龍、わかってる。――マズい!!
俺の総身からエネルギーが勢い良く抜けていく! いくら染み出す≪異気≫で捕まえようとしても、どうしようも無い!!
――着地――地面、見えない――龍を、無事に! ――
俺は「ままよ」って感じで≪異気≫を拡げた!
コントロールできるか? そんなこと考えてる暇なんて無い!
俺が背中に向けて大きく拡げた≪異気≫は、なんとか俺が飛び立った谷の向こうから幾らかのエネルギーを拾って来る。
量が少ないのは、さっきの分厚い≪気≫の層のせいか?
俺は筋肉や関節に瞬時にそれを充填する。
衝撃を殺さないと、龍にダメージが行く!
急に足が何かに触れてつんのめった――
――ヤバい、体勢が崩れる。
俺は右肩に担いでた龍の身体を慎重に、両手で上に向けて放った。
そのまま俺の身体は、さっき足先が触れた堅い地面を転がる。
摩擦係数は高くない、硬質で滑らかな石みたいな地面の感触を俺は全身で味わう。
数メートルぐらいは転がっただろう。俺は即座に起き上がる。
身体に違和感。
「なん……」
両手で全身を擦ろうとした俺は、すぐにその違和感の正体に気がついた。
――指が、無くなっていく。
厚く立ち込める霧に乱反射してる淡い光に掌を透かしてみれば、指の先端が痛みも無いのに崩れ始めてた。
咄嗟に≪異気≫で崩れる指をつなぎ止めようとする。――なんでだ? 効果が無い?
つまり、手の施しようが無い? なんで?
俺は気がついた――周囲に≪気≫が無い。それどころか人の魂の成れの果てのエネルギーさえ無いみたい。
いや、ココがそんな場所だとしても、俺は現に膨大な≪異気≫を収納してて、今身体をつなごうとしてるじゃないか。
≪気≫や≪異気≫ってのは≪つなぐ≫モノなんだろ? なんでソレが働かないんだよ!!
――異界――≪大荒≫――ココでは≪気≫や≪異気≫の機能が、失われる……?
同時に、俺の思考は「この一瞬の中」に停止した。
別に、あの『ファウスト』が「止まれ!」っていう言葉を捧げた、長い旅路の果てに見たような「素晴らしい一瞬」だったわけじゃ無い。
俺には道案内をしてくれるような『否定する霊』もいないし、むしろ俺のほうがつい最近まで、そのゴーストみたいなモンだったわけだし。
――喪う? この身体を? どうして?
そう、たったそれだけ。それだけのことだ。
でも充分だ。それだけで俺には充分だった。
俺はこの世界に来てから、幾度と無く「死ぬ」って実感を覚えて来た。
でも、そんな実感はいつでも突然やって来て、「あっ」という間に俺のぜんぶを攫って行った。
……そんな事を考えてる間にも、霧の中で俺の身体は感覚と伴に喪われていく。
指だけじゃない。地面に衝突して傷んでいたはずのつま先も、膝も、擦り剥いたはずの肘も、なす術も無く崩れ始めてた。
喪失感――
ああ、そうか。これが身体を喪うってことか。
こうやって徐々に、衰えていくように、身体を喪っていく――これも、たぶん死ぬってことなんだ。
中世を生きた歴史上最も有名な言葉の「カミソリ」を振るった人は、「観念とは、ただ名前だけがあるに過ぎない」みたいなことを言ったらしいけど。
この喪失感を抱えながら、喪われる肉体を眺めてる俺を、≪魂≫と言わずになんて言えばいい? ≪魂≫が在るって言わずになんて言えばイイ?
……身体を何か他の物のように見つめてる「俺」のことを、≪魂≫と呼ぶ≪俺≫をなんて言えばイイ?
……さらに、その≪俺≫のことをなんて言い表すか、考えてるこの【俺】が居て、その【俺】を眺めてる〔俺〕が……。
そうやって延々と、「この一瞬の中」に連なっていく俺。
きっと、引き延ばされた時間感覚の中で、俺の脳みそが高速回転してるだけ。まるで何でも「この一瞬」のうちに考えられるような気がする全能感。
でも、俺は囚われてる。喪失感に囚われ続けてる。
精神と肉体のアンバランス――
――ああ、そうだ。これが間違いなく「死ぬ」ってことなんだ。
三つ子の魂、百まで。だから、「死」ってモンは受け容れ難いんだ。
力を喪ってく肉体に、膨れ上がる≪自分≫――
どこかその≪自分≫の重みに崩されていくような気さえするカラダとココロ。
――イヤだ……死にたくない……――
……俺は本当に阿呆だった。
わかった気になってただけだったんだ。
奪われる、ってことの本質が何ひとつわかって無かった。
俺は二度と会えなくなる。
龍と、長双さんと、尚と、――おひい様にも。
俺を≪朱蝶≫にしてくれた、ぜんぶが今、身体と一緒に崩れて…………。
――その時、〔俺〕の――【俺】の――≪俺≫の――「俺」の――紛れも無い俺の、ヒビ割れて血の滲んだ腕が掴まれた――
「――朱蝶どの!」
――そうだ、俺の傍には、コイツがいた。
いつだって、俺を励まして、奮い立たせるコイツが、今もこうして俺の腕を力強く掴んでくれ……。
……力が弱くないか? 龍の手の力が、弱くないだろうか?
「……朱蝶どの、戻りましょう……」
「龍?」
俺は思わず、俺の腕に伸ばされてる龍の腕に、崩れかけた掌で触れた。
「朱蝶どの! その手は!!」
霧のせいで、すぐ傍に立ってる龍の姿も良くわかんねーけど、その腕がなんかぶにっとしてる。いつもより龍の腕が太くて柔い気がする。その上、なんかダランてして力入って無い感じ。
こいつ、腕ヤっちゃってんじゃない――!!
「朱蝶どの、お怪我を!!!」
……バカなんじゃないの? このコ?
「ふへ、へへ……」
自分もケガしてんのに、こっちの心配なんかしてる龍のせいで、なんか笑っちまう。
後生大事に「この一瞬」なんかに囚われてた自分の阿呆さ加減がイヤになっちまう。
「……朱蝶どの? 大事無いのですか?」
「――ああ、心配ねえ。戻るぞ」
俺は龍の腕を引き寄せると、その身体を肩に担ぎ上げた。
「…………」
龍が痛みに身体を強張らせたのがわかった。
触った感じだと、けっこう腕は腫れてるみたいだけど、ほかは大丈夫そうだし、すぐに命に関わるほどじゃねえだろ。
でも、なんで腕なんか? ……あー、俺が放った後、落っこちたのか。
つまり、俺のせいか……。
「……悪いな、龍」
「? 何がでしょうか?」
まあ、イイや。
あとで、また土下座しよう。
問題はココからどうやって戻るかだ。
盛大に転げ廻ったせいで、視界数十センチって霧の中、完全に方向を見失っちまった。
「……やべーな」
そうこうしてるうちにも、俺の身体は末端から順調に崩れていってる。
迷ってる時間なんかねえ。≪異気≫を全方位に向かって展開する。ほんの数十メートル先には、あっちの岸があるはずなんだ。
あっち側に≪異気≫が届けば、さっきみたいにエネルギーを拾って来れるはず。
「――朱蝶どの!! 身体が――」
「安心しろ、まだもつ」
龍の悲鳴に応える。
「しかし!!」
「だいじょーぶ」
こんなワケわかんねーとこで死んでたまるかってんだ! ……≪異気≫が向こう側に届いた。エネルギーが俺の身体に巡って来る。
でも、マズい。さっきの高密度の≪気≫の壁のせいか、送られてくるエネルギーが少ねえ。このまま跳んでも、たぶん、落ちる。
俺は≪異気≫で触れた、向こう側――崖の方向へと歩き出す。
「しゅ、朱蝶どのお!」
お、おおう……。歩いてるせいで脚の崩壊が早まってる。早くしねえと!
なんでか痛く無いのが、不幸中の幸いだね。痛覚が働いてたら、まともに歩ける気がしねーよ。
探り探り崖の際を動物の皮をなめして縫製した皮靴の裏、何重かに皮が余計に張られた靴底で確かめる。
「ここだな。でも……」
谷の位置はわかった。でも、エネルギーが足りる気がしない。そうでなくったって、俺の脚はボロボロなのに。
やっばい。このままじゃ、龍を担いだまま立ち往生しちまうよ。俺は弁慶じゃあないのに。
――その時、光が差した――
いつだってピンチの時には俺を照らしてきた光。
たまに、俺をピンチに陥らせる光でもあるけど……。
…………ああ、あの人だ。間違いねえ。
俺の左手の甲がにわかに熱を発して、そこからたくさんのエネルギーが流れ込んでくる。
ケンカしてたのに。っていうか時間的に無理じゃないのか。でも、今はとにかく……。
「――おひい様、バンザーーイ!!」
そう叫んで、俺は来た時と同じように脚にエネルギーを込めれるだけ込めて跳躍した――
俺の両脚はその瞬間、崩壊。
「龍、≪気≫の壁越えたら、出来るだけ≪気≫纏え」
「――朱蝶どのおぉ!」
龍の返事を聴いたか、聴かないかぐらいのトコで、俺たちはまた例のブヨッとした≪気≫の壁に突入した。
――≪声≫が聞こえた。
聞こえた? なんかそんなんじゃない。かと言って、俺がこの世界に来てから慣れ親しんだ、脳内会話みたいなモンでも無い。
どっちかって言うと、≪気≫の壁の中に、そんな声が溢れていたって言うほうが正しいような……。
≪見つけた≫
【見つけた】
〔見つけた〕
――“見つけた”――
ぞっとした。
別に「見つけた」なんて言葉は聴き慣れた言葉のひとつだ。怖気を震う必要なんか欠片も無いありふれた言葉だ。
でも、幾重にも重なって聞こえたその声には、喜びも、憎しみも、怒りも、哀しみさえも無くて、感情が一片たりとも感じられなかった。
俺は機械音声よりも無機質な声を出す≪何か≫、「不気味の谷現象」の向こう側にいる≪何か≫に見つかってしまったらしい――
この世界にはまだ、そんな何とも知れないヤツがいる。
そして、たぶん、俺はソイツに眼をつけられちまった――




