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意天  作者: 安藤 兎六羽
二章 神
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十四、尚とおひい様の、ムーの邑での日々


 時は遡り――朱蝶どのが最初にこのムーの邑で目覚めた夜の事だ。



 なぜか、蒼褪めた龍どのに呼ばれたはずのおひい様が泣きながら、我らが借りた宿へと帰って来た。


「尚ぅ~。……朱蝶が、朱蝶があ!」


「どうされたと言うのです?」


 尚の胴に抱き付いてくるおひい様。

 尚が国都から担いで来た綾絹の御召し物の袖を、涙と鼻水でぐしょぐしょにするおひい様。

 おひい様は存外脆い。気丈に振る舞っていても、心が脆いのだ。

 すぐに泣く。ただ、こういう御姿はほぼ尚しか知らないだろう。



 泣き泣き語るおひい様によれば、あの温厚な朱蝶どのがおひい様にとうとう逆らったらしい。

 この尚に弾き飛ばされても、気にもしていなかった、あの朱蝶どのが怒っているという。


「あぁ……」


 思わず頭を抱えてしまう。

 ありそうな事ではあった。




……そもそも、おひい様から朱蝶どのが「ひとに変じた」と聴かされた時は、大層驚いたものだ。

 しかも、≪雷名≫卿とおひい様、龍どのと朱蝶どのは、尚が気絶していた間に怪だか蛟だかを滅したと言う。

 さらには、朱蝶どのはその怪の身体を手に入れ、≪神怪≫に上ったというのだから、この尚ごときの考えが及ぶべくも無い。



……戦いの最中に気を失った尚が目覚めたのは、≪雷名≫卿の大音声によってだった。


――我こそは、長双。≪ムー≫の方々とお見受けするが、この長双の一命を以てほかの者は見逃して下され――



 ≪雷名≫卿は酷い火傷を負った身体をもろ肌脱ぎに晒して、松明を掲げる十数名の者たちに向かって首を差し出していた。

 ざわめき動揺する≪ムー≫とか言う者たちと、身を横たえた尚の間、卿の横にひとりの見覚えのある人影が加わった。


――南、虞衡、龍と申す! 長双様の助命を嘆願したい!! ――



 その影は朱蝶どのでは無く、龍どのだった。

 そして、驚くべき事に、松明を掲げた≪ムー≫――蛮から、か細く高い声が上がった。


――……龍様? ――


 女子。浅黒い肌に、大きな眼、鼻梁は高く、小鼻は小さく、豊かな漆黒の髪を流した小柄な女子。それが龍どのの名を呼んだのだ。



……そこから先は流れるように、とんとんっと事が運んだ。

 おひい様と龍どのと、この尚までがなぜか蛮に丁重にもてなされ、≪雷名≫卿も縛られはしたが、手荒には扱われなかった。

 少し龍どのに似た裸の男――朱蝶どのは、「これは妾の僕じゃ!」とおひい様が強弁して、蛮の皮衣を着せられて担がれた。


 松明を掲げた女ばかりの十数人に、南沼から三十里ほど南の蛮――ムーの邑に案内されると、藍染めの衣を纏った腰の曲がった老婆が、朱蝶どのだとおひい様が言う男をつかまえて、


――なんというものを持ち帰った! 人妖ぞ!! ――


 などと絶叫した為に朱蝶どのは、仇扱いの≪雷名≫卿と伴に獄に繋がれる事となった。


 その夜、与えられた粗末な宿に入ると、おひい様は尚の肺腑を治しながらぼそりと言った。


――……皆殺しじゃな……――



 ああ、おひい様に火が点いてしまった……。


 その後、尚はおひい様と龍どのから諸々の事情を聴かされて、今に到るというわけなのですが……。



 結論から言えば、朱蝶どのは姿を変じても朱蝶どのだった。起きた朱蝶どのを見て尚は納得し、血に染まった朱蝶どのを見て怒りに震えた。

 だが、朱蝶どのはと言えば、なぜかおひい様に創を癒された後のほうが、元気が無かった。

 少なからず衝撃を受けていたように見えた。

 今晩の朱蝶どのの、あの愕然とした顔を見れば……。なぜだか少し泣いていたようでもあったし……。


「尚?」


 涙ぐんで尚を見上げるおひい様は愛らしい。本当に愛らしいが……。


「よろしいですか? おひい様。 ……朱蝶どのはおひい様の僕とはいえ、元は『ひと』で、今は立派に身体まであるのです」


 おひい様は涙を拭き拭き、尚の言葉に耳を傾けている。

 うん、弱った時のおひい様は素直でよろしい。


「おひい様も言っておられたでは無いですか? 『朱蝶は既に≪神怪≫じゃ! 妾の手許になんとしても置かねばならぬ』とかなんとか」


「うん」


「ならば、それなりの敬意を払われるべきです。朱蝶どのはおひい様の御手を離れ、望めば≪神≫にも成れるのでしょう?」


「……しかし、朱蝶は妾の僕じゃろう?」


 ダメだ……。

 おひい様は本当にこういうところが駄目だ。


 そもそも、おひい様を拒める者など今まではいなかったのがいけない。

 この尚とて、おひい様の御身を過失で危険に曝してしまった事はあっても拒絶した事などない。

 だから、おひい様は慣れていないのだ。対等に話すという事、相手にも権があるのだという事が頭から抜け落ちている。


「よろしいですか? 朱蝶どのは、もう既に半ばおひい様の御手を離れているのです。おひい様が朱蝶どのをご足下にお置き遊ばしたいとお思いなら、それ相応の譲歩をなさるべきです」


「どうすれば良い?」


「朱蝶どのをいたわられる事です。ねぎらわれる事です」


「……えーー?」


 えーー? って。もう、本当に愛らしい!

……いえ、そうでは無かった。



「――姫様!」


 部屋の外から声が掛かる。龍どのの声だ。

――朱蝶どのが倒れたと言っている。


「おひい様!」


「任せよ!」


 颯爽と立ち上がるおひい様。中々に凛々しくあらせられる。しかし、これで創を癒されれば朱蝶どのとて、おひい様を無碍には……。



 少しして、おひい様が帰って来てしまった。


「あの、おひい様? 朱蝶どのはなんと?」


「うん? 起きぬから帰って来た。きっと、明日には泣きながら妾の足下に馳せ参じよう」


……あぁ、おひい様はほんっにダメだ。起きるまで見ていれば良いものを。

 一夜を空ければ、おひい様が創癒した実感なぞ薄れていよう。それでなくとも朱蝶どのは怒っているのだ。無理だ。

……明日、尚めが顔を出そう。




 ―――




 翌朝、まだお起きになられないおひい様を残し、龍どのの宿へと伺った尚を信じ難い光景が出迎えた。

 泣く龍どのと、それを慰めて頭を撫でる朱蝶どの。


 ああ、なんと背徳的な! 男女の結婚の制度を創ったと言われる『風帝』様にはとても御見せできぬ光景。

――そう、このお二方にはそのような気配があった。何せ、年ごろのおのこがひとつの身体の内に在るというのだ!

 尚めは嗅ぎ取っておりました。旅の途中からずっとお二人の御関係に興味を持っておりました。しかし、朱蝶どのにどう問うても良くわからない。

 まさか、それがこのような――あ、目が合ってしまった。……そうでした、尚は違う用事で参ったのでした。



 尚がおひい様から聴いたお話をお伝えすると、朱蝶どの、いえ朱蝶様は何やらぼやっとしたお顔をなさる。

 しようが無い。ここは尚がひと肌脱ぐべきでしょう。そう思って跳んで跪く。


 尚の額が床にめり込んで暫らくしたところで、朱蝶様、いえ朱蝶どのも許してくれたよう。


――おひい様から謝れば、赦す――


 言質を取った尚が喜び勇んで立ち上がれば、朱蝶どのから「待った」がかかる。



――尚どのが強引におひい様を謝らせるのは、無しっすから! ――



……難しい。おひい様はちぃっともご自分が悪いなどと思われて無いのです。

 しかし、朱蝶どのも珍しく頑ななご様子。

 やはり、ここはこの尚が頑張るほか無いでしょう!




 ―――




――無理にございました……。


「なにゆえ、この妾が、僕ごときに頭を下げねばならん!!」


 おひい様がこうなっては手の施しようがございません……。



 尚は何度も説得を試みたのですが、おひい様は聴く耳をお持ちで無い。

 無為に龍どのと朱蝶どのの宿と、尚とおひい様の宿を往復する日々。

 おひい様のご機嫌がまずうございます。


 ふと、尚の頭に妙案が浮かびました。



「……おひい様は七夕をご存知ですか?」




 ―――




――七夕をご存知ですか? ――


 尚にそう問われて、そのような時期か、そう思った。


 考えてみれば、はつも、みなもこのムーの邑にかなり長居してしまっている。

 だが、長双どのの処遇に対する結論は出そうに無い。

 ロウに呼ばれて、ムーの合議とやらに顔を出してみても一向に進展が無い。

 とりあえずこのままではいかん、という事でロウには、長双どのの処遇がひと月経っても決まらぬ場合は都に復命する、とだけ伝えた。そうして父上の御指示を仰ぐ、と。


 朱蝶は未だ謝りに来ぬ。……あまつさえ、こちらに謝れと言い出す始末。

 しかし、それが七夕とどう関係がある? 尚にそう尋ねれば。


「七夕には、友同士の親睦を深めるという習慣があるそうです。宮中の女官に聴きました」


……そういえば、この時期は毎歳、尚の部屋の入口に山のような紐が置かれていた。

 尚は女官どもから慕われている。あれはそのような習慣だったわけか。


「尚も良くは知りませぬが、手ずから編んだ紐を親しくしたい者の屋の柱に結ぶそうにございます。……おひい様は謝られる要は無いとの仰せ。しかし、おひい様から歩み寄られる事も肝要かと存じます」


……うーむ。少々、釈然とはしないが……その程度ならば……。



――慣れない手つきで尚の調達した糸を紐へと編むという作業に悪戦苦闘する。

 色は紺色と赤色と橙色の三色。尚の択んで来た糸だ。

 同じ色の糸を縒り合せ、さらには出来た三色の紐をさらに三つ編みにする。


「できたぞ!」


 その紐を尚が上弦の月がかかる前夜、夜更けに朱蝶と龍の宿の柱へと結びに行く。

 きっと翌日には、泣いて詫びる朱蝶の顔が拝めるだろう。その日は尚と笑い合って寝た。




……来ない。朱蝶が来ない。



 それどころか、ムーの会合に出席するこの姿を見て、踵を返す始末。


 様子を見て来た尚に問うても、


「……全然、気づいている様子が無いのです。龍どのもおられるし、このムーの邑で公国の風習を知っているのは、尚らのほかにはいないはずなのですが……」


「何か間違っているのではないか?」


 考えてみれば、尚を慕う女官どもの眼は親愛を深めるというには少々、熱がこもり過ぎていた。


「女官から直接聴いた事ゆえ、間違いはないと思うのですが……」


 当てにはならない。

 尚は、上卿たる冬官長とうかんちょうの息女だ。冬官長がムーのはしために産ませた子供――それが、異様な膂力を持っていた為にこの≪巫姫≫につけられた。

 つまり、尚とて宮中育ちで下官や庶民の風習は良く知らないはずなのだ。


「しかし、朱蝶めが……」


 なぜ、謝りに来ない!



――久々に朱蝶の顔を見た。ムーの会合の席に呼ばれたのだ。……おうおう、良くもまあ顔を見せられたもの。


 少々、怒りが過ぎて言ってはいけない事を言ったかもしれない。……しかし……。




「……ちん、ちくりん……」


「……おひい様、みな様もういらっしゃいません……」


「……ちんちく……りん……」



 溜息を吐く尚に運ばれながら、考える。


 崇める為の言葉……では、間違いなく無い!

 だが、この≪巫姫≫をつかまえて、まさか侮辱するなどという事が……。……そんな事があり得るわけが無い!

 正直、崇め奉られた事はあっても、侮辱された事など一度も無い!



 翌日も、朱蝶から言われた「ちんちくりん」という言葉が頭を廻る。

――侮辱? まさか? この妾が侮辱を受けるなど! あり得ん!!



――夕方になった。俄かに外がざわめいている気がする。


「……ちんちく――」



「――おひい様! 玲華どのが戻られ、朱蝶どのと龍どのが!!」



――息せき切って部屋へと駆け込んで来た尚の言葉に、妾の頭の中の「ちんちくりん」はどこぞへ消し飛んだ――




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