≪竜眼≫の≪巫姫≫
――朱蝶――いや、龍の身体が蛟――≪怪≫の爪に貫かれる。
そして、≪怪≫の動きが止まる。そうしてゆっくりと、龍の身体を貫いて持ち上げていた前肢を僅かに下げた。
その動きが停止した。ずるり、と地面に落ちる龍の身体――その腹に空いた穴からは血が溢れだす。
「くそがぁ! 龍の阿呆め!」
――なぜ、答えてしまったのだろうか? あの夜、龍の問いかけに。
ごまかしてしまえば良かったものを!
悔恨は深く、心を抉っていた。
だが、龍の断じた通りだったのだ。みなで死ぬか、龍が死ぬか。
そうして、龍は己を捧げる事を択んだ――
「生かされて、妾が喜ぶと思うてか?」
血で視界が霞む≪竜眼≫で、大穴を開けられた龍の身体を睨んだ。
――待てよ。≪龍の身体≫じゃと?
……駆け出す。倒木をよじ登り、跨いでは転び、躓いては転び、それでも駆ける。
龍は、朱蝶が失神していたあの夜、確かに言った。
――朱蝶どのを捉えた己の掌には、蝶の屍骸はその欠片もございませんでした――と。
ならば、なぜ、今、龍の身体は消えていない?
蝶とひとが違うから?
それとも、朱蝶が龍の身体を完全に己の物としていなかったから?
――どちらも考え得る。ただ、それだけの事かもしれぬ。じゃが――
「――阿呆は、妾じゃ!!」
もうひとつの可能性。それに駆け寄り、腰に付けていた皮嚢の水を棄て、新たな液体で満たす。
――朱蝶が溢れさせた≪蛟≫の血で。
そうして、また戦いの痕跡の残る坂道を駆け下る。
そう、朱蝶は先刻、龍の身体で、≪蛟≫――竜を討ち取った。
竜を弑する者には、そののちに連なる系に及ぶほどの呪詛――祝詛がある。
竜を弑したのは朱蝶だ。
しかし、それは龍の身体で行われた。
この場合はどうなる? 祝詛や呪詛は朱蝶のものか?
――いや、後系の肉体を変ずるのであれば、竜の祝詛は肉にこそ宿るはず。
龍には今、おそらく竜の呪詛が、祝詛が与えられているはず。
――ならば、竜を弑した者にはいかなる祝詛が及ぶじゃろう?
祖先の場合は、この≪竜眼≫だった。
いや、祖――≪禺氏≫に与えられた物は、もしかすると異なっていたのではないか?
可能性は十分にある。何せ、数百歳も前の事だ。正確に伝わっているとは思えない。
ふと、沼のほとりの≪怪≫の身体が徐々に崩れ始めた。
――朱蝶め、やりおったか!
ならば、今度はその主たる妭がやらねばなるまい。
南沼の際、打ち寄せる小波に濡れる、龍の身体に駆け寄った。
眼前では、≪怪≫の身体がどんどん崩れ落ちていく。
霞む≪竜眼≫が、空を蓋い、地を這うように拡がっていた巨大な≪異気≫が急激に引いていくのを捉える。
「流石は、妾の僕!!」
言いながら、横たわる龍の身体に手を添える。
心の臓は動いていない。だが、腹に開いた穴から流れた血が、なぜか穴へとじわじわ還っていっている。
「やはり!」
拳を握りしめた。
――竜の呪詛――いや、この場合は祝詛と呼ぶに相応しい――それは、間違いなく、龍に及んでいた。
「おそらくは肉を維持しようとする、祝詛」
だから、龍の身体は消えなかった。
だが、それでも腹の穴は塞がらない。貫かれた腑は戻らない。
さきほどの嚢の中身――蛟の血を龍の身体に空いた穴へと注ぐ。
そして、その身体に手を添える。
「――竜を弑しし、我が系において奉る。老陰が元に少陰を滅し、老陽が元に少陽を滅す。陰陽和合し、乾元は万物を創むる。利貞に因りて、創癒をなさん――」
創癒の祝詛だ。
だが、これでは足りない。破壊された腑の能は戻らない。
ここからは賭けだ。
――思えば、あの≪怪≫は、面白い事をやってのけていた。――≪竜気≫と≪異気≫の併用――
霞む≪竜眼≫をグッと見開いた。
本来、≪竜気≫と≪気≫は相容れない。
だが、怪がやっていた≪竜気≫と≪異気≫の同時使用――それを、≪竜眼≫でつぶさに捉えていた。
だからこそ、あの震雷を咄嗟に曲げる事が出来た。
仕組みはそれほど変わらない。弾き合うふたつの≪気≫と≪竜気≫を、重ならぬように、別々に用いれば良い。
眼光で、形作られつつある腑を射る。
≪気≫で血と肉片を繋ぎ合わせ腑を造り、≪竜気≫を以て腑を動かす。
巧く動けば後は竜の祝詛が勝手に能を示すはず。
既に、腑は形成され、肉に空いていた穴も、皮膚を裂いていた創も塞がっている。
あとは腑を動かすだけだ。
「来い、来い、来い!」
刺すような≪竜眼≫の痛みに耐えながら、呟く。
動け、動け、と。
――創が塞がった皮膚の内側で、腸が蠕動したのを、≪竜眼≫で捉えた――
次は、心の臓だ。
≪竜眼≫の光が皮膚を透過して、龍の心臓を突っついた。
≪竜気≫を僕たる朱蝶以外の者に通わせる事はできない。
だが、≪竜気≫とは、弾くもの。捉えて縛るもの――他の者の肉を、縛り、放す事が出来る。
先程、腸にした事と同じように、≪竜気≫にて優しく心の臓を捉え、縛り、解放する。
腸の時のような繊細さはそれほど必要なかろう。
だが、≪竜眼≫の限界が近い。血が噴き出して、見ているはずの龍の心の臓が赤黒く、こちらの血の色に染まって見える。
「――ええかげんに、還ってこんかい!」
苛立ちと伴に、握り締めた拳を龍の胸に叩きつけた。
「ごふっ」
――……息を吹き返しおった……。
≪竜眼≫で心の臓の動きを確認してから、目蓋を閉じた――
眼球を射る痛みが少しだけ、和らいだ気がする。
「暫らくは使えぬじゃろうな」
だが、やった!
やったのだ!!
喜びに顔を上げ、振り返った。
――朱蝶は?
南沼を見ると、巨怪の姿はどこにも無い。
血の気が引いた。
まさか、巨怪もろとも、朱蝶も崩れてしまったのだろうか?
「阿呆ばかりじゃ!!」
焦って再び痛む≪竜眼≫を開こうとした時、見た。
――何か、浮いておる。……ひとか?
先刻まで≪怪≫が棲んでいた沼に浮かんでいる阿呆など、ひとりしかおるまい。
心当りは、僕ただひとり!
「朱蝶か?!」
返事は無い。
俯せに背中と後頭部を水面に見せて浮かんでいるから、返事も出来まい。
――息も、出来ないのではないか?
「朱蝶!!」
沼に入って、そのひとの身体を曳いた。
己が握ったその左手の甲には間違いなく≪皐≫の≪紋≫がある――朱蝶だ!
「阿呆め、≪怪≫を滅したというに溺れて死にかけるなど、どういう了見じゃ!!」
ほとりに引き摺り上げてから、改めて気づく――こやつ、裸だ。
違う! 心の臓が動いているか確かめねば!
……だが、裸だ。仰向けにするのは、なんとなくイヤだ……。
しようが無いので、背中に耳を押し付けた。
水面を漂っていたので、耳が少しひんやりする体温。その奥で微かな鼓動を聴いた。
息は? ……しかし、裸だ。……呼吸を確かめるには、仰向けにせねば。だが……。
苦肉の策で、顔を横向きに動かした。その顔はなんとなく、龍に似ている。
唇に耳を寄せ、手を翳すも、呼気が無い。
――わけのわからぬ忿怒に駆られて、猛然と立ち上がる。
「この、阿呆が、僕の分際で、主の手を、焼かせ、おって」
言葉を区切るごとに、背中を全体重を乗せて踏みつけた!!
「ぐへっ」
という妙な声と伴に、息を吹き返す。
だが、苛立ちは収まらない。なぜ、僕の朱蝶に主の自分が気を遣わねばならんのだ!!
「……フフ、ふへへへ」
朱蝶の身体を痛ぶりながら、妙な笑いがこぼれた。
踏みつけ、蹴り、乗っかり――尽きぬ暴行を加えてから、ふと、気づくと、何かの気配がする。
振り返れば、さきほど駆け下った坂の上に、小さな焔が揺れていた。
「ひとか? ……マズい! 尚と長双どのが――」
その松明と思しき灯りが、坂の上に増えていく――
いったい何者が、この森の深みに――焦燥と不安に、跳ね上がる鼓動を聴いていた――




