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意天  作者: 安藤 兎六羽
一章 怪
14/159

十三、龍(一)――閉心――



――閉神の術。



 虞衡に伝わる、巫術の一種。

 龍も五つの時に初めて父・会に教えられた。



 虞衡とは、山林沼沢を管理する官吏だ。

 虞衡が立ち入る深山幽谷の中には≪異気いき≫――瘴気が蔓延はびこっている。


 その瘴気に呼ばれて鬼や怪が集まる。



――鬼に己が心の神を侵されぬようにする術だ。


 父はそう言った。「神って何?」と尋ねると、


――神とは、器だ。


 そう、龍の左胸をぽんっと拳で叩きながら告げた。



 ふくろ、嚢だ。

 ひとの心の神――器とは水を入れた皮の嚢のようなものだと、龍は想う。

 汚水が流れ込まぬように、水が溢れぬように嚢の口をきゅっと締める。


――閉神の術とは、その口を絞めることなのだ。そう、幼い龍は解した。



 その術を龍に授けた幾日かあと、父は龍を連れて山に入る。

 虞衡は邑だけではなく、山のあちこちにねぐらを持っている。岩穴から、洞窟、大木のウロや樹上。

 まるで獣のようだけど、幼い龍は父と過ごす山の夜が好きだった。


 夜気は冷たく、土は暖かく、木々の梢は風と共に唄い、そしてすべてに包まれるような。


 その夜の森に融け込むようにして、彼らは父を待っていた。

 父はいつもより深く森に立ち入っていたのだ。



 焚火の明りに嘗められた浅黒い肌。髪を纏めずに流して、男は獣の皮の衣服を着て、女は極彩色の着物を着ていた。



――大丈夫、怖がらなくていい。彼らは友だ。


 裾を掴んで離さない龍を宥めるように、頭を撫でながら父はそう言った。


「でも」


 このひとたちは≪違う≫、そう言いかけた龍に小さな掌が差し出される。自分のそれと同じようにまだ、幼い掌。


 こちらの顔を下から覗き込む不安そうな、でも人懐っこい笑顔に、安堵を覚えて、龍は≪蛮≫の子の手を取った。



---



 蛮とは長い戦をしていた。

 でも、戦とは関わらない蛮もいる。父は彼らから森に立ち入る許しを得ていた。



――永い間、虞衡はそうしてきた。たとえ、国が彼らを殺そうとも、彼らの仲間が邑を襲おうとも、彼らは友だ。


 父のその言葉を、龍は幼心に誇らしく思っていた。





 だが、時は流れ、日々は流転し、ひとは流される。



 十になったある日、龍は南邑の家を父に手を引かれて連れ出された。「父上、どこへ行くのです?」そう尋ねる龍に、父はただ首を振って、


――彼らに会う。


 言葉少なく、それだけを告げた。



 何か、いつもと違うことが起きているのだ、ということはわかった。でも、龍は彼らに会うことが、あの子に会えることが嬉しかった。


 浮き立つ心を漏らさぬように、いつもと違って怖ろしい顔をした父に気付かれぬように、龍は心を閉じる。



 夜――大人たちは焚火を囲んで、何かを話している。


 山もどこかいつもと違う。騒がしく、ざわめいている。




――怖いの?


「怖くないよ」


 くすりと笑う、隣に座るその子だけには、弱みを見せたくなかった。

 本当は恐ろしい。震えだしそうな龍の手が、夜気に染まったような、冷たい、もうひとりの掌にぎゅっと握られた。


――怖い、ね?


 笑っていたはずの彼女は、いつのまにか震えていた。

 龍は彼女の指に、己の指を絡ませる。


「大丈夫」


 そう口にはしないが、励ますように。





 ---



 数日後、龍は知った。


 何が起こっていたのか。


 何が行われていたのか。



――蛮など獣だ! 殺してしまえ!


 勝利に酔ったひとりの若者――血に濡れて、その血が乾いたよろいを纏った若者が、浅黒い肌を蒼褪めさせた首を手にささげて、龍の眼の前を駆け抜けた。




……いや、龍はこの南邑に戻る前から、もっとずうっと前から知っていたんだ。

 何が起きているのか、何が起ろうとしているのか。


 ただ、耳を塞いでいただけ。


 どんな顔をして、彼らに――彼女に会えばいいかわからなくなるから。



 あの夜、父は彼らを逃がしたのだ、国を裏切ったのだということも、本当は気づいていた。


 でもそのずっと前から、龍は、知らないふりをして、聞こえないふりをして――心を閉じて、彼らを裏切って来たんだ――



 だから、龍は彼らに、あの娘に、二度と会えない。


――龍はもう一度、心に封をした。





 ---




 父が死んだ、そう聞かされた日、龍は一匹の鬼に憑かれる。しかも、夜になって鬼に怒鳴られてから、憑かれたことを思い出す始末。

 公との謁見――父の死の予感に心を乱されていたからだろうか。


 慌てて、国都に来てからは、すっかり忘れていた閉神の術を己の心に施す。

 もう既にいくらか這入り込まれてしまっているが。



 いつか父が言ったように――穢されないように、溢れさせないように。


 だが、その鬼はなぜか、それ以上龍の心に踏み入ろうという気配がない。返ってこちらの術が鈍ってしまう。

 それどころか、何かわけのわからない事を言いながら、龍を叱り出す。



――なあ、だからさっさとクソして寝ろや! 寝て、英気養って地官長のおっさんから言われた命令こなす為に精進しろ!





 なぜか、そんな乱暴で汚い言葉に龍は、彼らを――そして、彼女を想い出す。


 そうだ。別れの時、彼女は涙を浮かべ、それでも笑いながら言ったのだった。



――あなたの仲間が、いくらわたしたちに酷いことをしても、あなただけはわたしの心にいつまでも変わらずにいるから。だから、……離れたとしても共に生きましょう?



 なぜ、忘れていたのだろうか――いや、龍はその言葉にすら、彼女の最後の笑顔にすら術をかけて仕舞いこんでいたのだ。


――穢されないように、溢れさせないように――大切なものだからこそ、仕舞い込んでしまっていた。




――この鬼の言う通りだ。


 世界は不合理極まりない。残酷で、醜悪で、時に希望を与えてはそれを奪う。


――それでも、生きねばならない。


 彼女と共に生きる為には、どのようなことでもしなければならない。



 溢れ出しそうになる、心を抑え込む。


 悟られぬように、いや、既に悟られてしまっただろうか。


 少なくとも、怯えは知られてしまっただろう。



 怯え――今、ここでこの想いを溢れさせてしまえば、きっと哀しみに立ち止まってしまう。


 父を亡くした悲しみが、彼らを裏切った呵責が、龍の脚を止めてしまう。


――心を閉じろ。今度は見て見ぬふりをする為ではなく、聴いて聴かぬふりをする為でもなく、確かな一歩を踏み出す為に。


――だから、龍は己に強く閉神の術を施した。


 そして、この鬼に助力を願う。

 恩を返す為に名を与える――『朱蝶』という名を――






 だが、世界というものはやはり、残酷なのだ。



――≪雷名≫長双。なぜ、この男が己の前にいる。


 なぜ、この男に試されねばならない。

 今にも封が切れるのではないか――それに龍は恐懼し、自然と涙が眼に滲む。


 別の事を考えねば、心を、頭を空にしなければ。

 だが、日々を過ごすごとに疑問は新たに、龍の心の内側を刺す。





 なぜ、己はこの男と共に飯を食べているのだろうか?


 なぜ、己はこの男に学んでいるのだろうか?


 なぜ、この男はこれほど愉快そうに笑えるのだろうか?


――なぜ、彼女と生きると誓った龍が、この男と共に生きねばならないのか?


 なぜ……、なぜ……――




「なぜ、五歳前、あのようなことを、なされたのでしょうか?」


 龍はふるえる心で、震える声で、≪雷名≫にそう問うていた――




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