≪巫姫≫、動く
――朱蝶と龍と玲華が消えて、五日が経っていた。
無論、兄――≪皐琴≫の行方も知れない。
「まさか、第二公子様が謀反とは……」
宮を修繕する鎚音が響く廟殿の一室で、向かいに座した長双が呟いた。
「いや、これは太子の≪甘≫兄の讒訴に近かろう。……妾も尚も、まして悪神どもも、琴兄が凶刃を振るった事など漏らしてはおらぬ」
「では、今、裁かれている者たちは?」
「さあ? 無辜と言えるか、それとも疚しい事があるものか。……どちらにしても、琴兄上と繋がりのあった者すべてを罰する事など出来ぬ相談じゃ。国が立ち行かぬわ」
――そう。公都の宮は荒れていた。
ひとつには悪神――≪女神の腸≫の四女が、宮殿を壊して進んだ為。
ひとつには、皐琴と≪威名≫が消えたを良い事に、太子が父公に讒訴し、粛清の風が吹いている為。
……しかし、大逆の証など出ては来ない。
そして、皐琴が消えると伴に、多くの者が宮や都から去っている。中には官職を得ていた者もいるから、問題だ。
さすがに大物が職を離れる事は無いが、下大夫の中には「病を得た」と言って蟄居する者まで出る始末。
疑いをかけられている当人――皐琴と梧帥がおらぬ以上、二、三のどうでも良い首を落とすか国外へと流して、終いとなるだろう。
まことに大逆の嫌疑が持ち上がれば、その程度で済むはずも無いが、父公とて太子の讒訴に過ぎない事を承知しておられる。
鼻息を荒くしているは、独り太子・甘のみだ。
「なんとも……一武官の私には、計り知れぬ事ですね」
苦笑を浮かべる長双を睨む。
「卿が最も厄介な御方を招き入れたのではないか……」
長双の苦笑いがさらに引き攣る。
「このような仕儀に到るとは、なんともはや……」
―――
――五日前の夜開け前、宮中は混乱に陥っていた。
≪二天≫なる鬼怪の出現。空を駆けていたという白い大虎と赤い竜。そして、都の空には≪仙≫の軍。
急を推して開かれた朝。上卿たちが出揃う前に、紛糾する朝廷。それもそのはず、誰もが事態を把捉できてはいないのだから。
朝に参じた≪巫姫≫に誰彼問わず、尋ねてくる。
――≪極南山≫にございますか、姫様? なぜ、≪神仙≫が我が都に? ――
――それよりも、消えた≪二天≫とは? 消えた公子様はいったい何処へ? ――
とりあえず、煩いやからから順に罵倒して行った。
≪竜眼≫を使う余力があれば、即座に縛ってやったものを。
尚に抱きかかえられて、口を塞がれていると、混乱を極める朝廷に下官の声が響いた――
――夏官長輔・長双様、御復命にございます――
≪雷名≫長双。皐公国最強の武人。
斃れたはずの英雄の帰還。それも、このような混乱の最中だ。
≪仙≫の軍や、鬼怪や、大虎や、竜がいようとも、長双卿の武があらば……。どの官の顔にも安堵が浮かんでいた。
――そう言えば、長双卿の事を忘れておった――
他方、≪巫姫≫はそう思っていた。
沸き、喜ぶ百官は次の瞬間、朝廷に姿を現した≪雷名≫を見て首を傾げる――
……皐公国最強の武官が、縛に付いている……。
後ろ手に、そして両脚を縛られた≪雷名≫が、器用にも両脚で跳びながら、進んで来た。
――公。そして、百官が皆様方。長双ただいま復命してございます。……申し訳ございませんが、少し匿って頂くわけには……――
その長双を追うように、朝廷の扉の向こうから下官の絶叫。
振り返り、≪意≫を決した顔を晒した長双はなぜか、一目散にぴょんぴょん跳ぶと、≪巫姫≫と尚の背に隠れた。
――朝廷の扉が開かれる。
いや、開かれたというよりは、巨大な鼻面で、こじ開けられたと言ったほうが正しい。
竜だった。鼻息も荒く、一頭の竜の頭部が、朝廷の中へと差し込まれていた――
息を飲む一同。――戦慄。恐慌を来たす間も無い。
――巨きい。南沼で見た蛟の親よりも二回りは巨きい頭部ではないか? ――
大人ふたりを並べても一口で飲めそうなほど……。
警戒した。長双が身を縮めている理由はこれか。
――長双様、こちらにおわしますか? ――
仙女――ひとりの甲姿の女子が竜の頭から降りた。
『ひとども! ≪炎帝≫が末子、≪火聖真女≫様であらせられるぞ! 跪くが良い!!』
それが、竜の声だと誰もが悟ったのであろう。
既に登朝していた上卿のふたり冢宰と地官長、呆然とする太子・甘、そして父と≪巫姫≫を除く官がみな額を床へと打ちつけた。
――≪火聖真女≫。
≪炎帝≫亡き後の、≪極南山≫の女主と聴く。
それが、何ゆえ長双を追っているのか?
――≪極南山≫が仙女。≪火聖真女≫様が我が鄙官・長双にどのような御用かな? ――
泰然とした父の問い。
竜が口の端をゆがめた。
『≪皐陶≫公の匂いがする。……なるほど、姫君。この者――いや、この御方こそが当代の宗主という事でございましょう。いかがなされる?』
――≪赤≫どの。わたくしが御話を致しましょう。……ひとへと転化を御願い致しますわ――
『御≪意≫のままに』
≪赤≫と呼ばれた竜の身体がするすると萎んでいく。朝の群官から驚嘆の声が漏れる。
赤い竜鱗はそのまま甲へ。四肢は縮み、鱗を生やした手足へ。
揺らめく焔のような頭髪に、角が二本生え、皮膚を鱗で蔽われた竜人がそこに顕れる――
――長双卿が主どのと御見受け致しますわ。わたくし、≪極南山≫にて一洞を構えます、≪女娃≫と申します――
――かの≪火聖真女≫様に御目にかかれるとは光栄と存じます。……今上帝より揚州方伯、公爵を拝命しております≪皐霜≫と申します。……して、此度はどのような御用向きにて、≪仙界≫の軍勢を率いて、我が鄙都へとお降り遊ばされましたかな? ――
父の問いにはたと、止まる仙女。
困ったように、転化した≪赤≫を見る。
――少々、待たれよ……『≪霊恝≫! 来よ!』――
ふっ、と一陣の風が吹き込んだかと思えば、そこにひとりの男が立っていた。
壮年の男。緋紅の着物の袖をふわりと翻し、男は父公の前に降り立った。
白銀の冠と伴に少し頭を下げる。ふたたびどよめく百官。
――……≪赤≫どのも、≪仙≫遣いが荒い。……≪極南山≫筆頭、ここにまかり越し申した――
――噂に名高き、五仙、≪霊恝真人≫様と御見受けする。……さて、≪仙界≫の御方は人界には直に干渉されぬと伺っておりますが、此度のご用向きはいかがな事でしょうか? ――
父の問いに、かの五仙は一度、こちら――いや、後ろの長双を見て、また困り顔の仙女を見る。
そして、ひとつ息を吐くと、語り始める。
――公都を御騒がしした事、まったくもって弁解のしようも無い。……しかしながら、南方神≪祝融≫様の御依頼を受け、我らは御国へと南の果てから参りました――
どよめき。南方神≪祝融≫――
帝域の空に君臨する、≪四方神≫がひと柱。南を管轄するという≪戦神≫。
――朱蝶か。朱蝶を追って来たと言うか……。
朱蝶を含めた≪巫姫≫の一行は、皐山の≪神≫を弑した。
ならば、南方神が出て来ても不思議は無い。
……しかし、かの五仙は意外な言葉を吐いた――
――人界は皐公国におかれましては、≪二天≫なる悪神を≪人帝≫が領野に呼び入れてしまわれた御様子。……我らはそれを追って参った次第――
瞬時、仙女が安堵の顔を浮かべた事を見逃さなかった。
朱蝶を追って来たのでは無いのか? あるいは、長双に類が及ぶを恐れて、≪二天≫の為としたのか……。
こやつらは明らかに長双に執心している。なぜなのだろうか?
――その≪二天≫とやらは、消えたと聴くが? なぜ、御身らは長双を追っておられる? ――
父公が圧を上げた。
このような時、父公は老獪な≪仙≫にも遅れを取らぬ。
壮年に見えても、≪仙≫は齢を重ねない。眼の前の五仙もどれほどの時を経ているか……。
――……さて、そうは仰せられますが、公よ。神々が千歳を賭けて追う≪二天≫を、≪人帝≫の領野に隠ししは、御国の責とは存じませぬかな? ――
≪仙≫はゆらりと気配を変えた。
慇懃、しかし、五仙の一角はこちらを譴責する構えを見せる。
――なるほど。我が国に償いをせよ、そう仰せられるか? ……しかし、その≪二天≫とやらを主に退けたも、我が国に属しし者とこの耳には聞こえておりますが? そも、神々、そして≪仙界≫の御方々が御眼を晦ましし悪神を、ひとの身が取り逃ししを御責めになられるか? ――
父の言葉に≪赤≫が舌打ちを溢した。
他方、≪仙≫は笑みを浮かべる。
――さすがは≪竜帝≫に仕えし≪裁神≫≪皐陶≫公が裔。……しかし、考え違い召されるな。≪祝融≫様の御叱責を賜るとしても、我らにも≪意≫がある。無為に退いたとあっては≪極南山≫の名が泣く――
父公はその言葉に眼を細めた。
――……何を御望みか? ――
――……例えば、御国随一の将が、我が姫君、≪火聖真女≫様の婿となる。……さすれば、婿殿の出でし御国を責むるを、心優しき我が姫がお認めにならなかった故、我らは退いたとの釈明が立つとは思われませぬかな? ……姫は≪炎帝≫の御子であられる。≪祝融神≫とは言え……――
父公の眼が、激しく首を横に振っている長双を捉えていた――
―――
「人界に入っておれば、≪仙≫といえども生半に手出しは出来ぬ。今上帝――ひいては≪竜帝≫を無視した事になるゆえ。……卿が仙女の手を自ら取ったのが、間違いの元じゃ」
苦言にさらに顔を引き攣らせる長双。
「ご無体な。……しかし、猶予は頂きましたゆえ」
――長双には、未だ人界にて為すべき事がある。……二十歳の猶予を頂きたい――
父公の言葉が脳裏に蘇る。
――かくして、≪極南山≫の≪仙≫たちは引き上げた。一頭とひとりを残して……。
「……長双様? いずこにおわしまするか?」
扉の外からそんな声が聞こえてくる。
「……卿もこれにて、身を固められるか」
皮肉を込めた言葉に、長双はあからさまな苦笑を浮かべた。
そして、真顔になる。
「……かの≪獣神≫、≪白王神≫とやらは北へと翔けたように見えました。追われるのでしょう?」
頷く。
「今歳は朝覲の歳ゆえ、父公が名代として妾が帝都へと参る。……そのついでじゃ」
――朝覲。
今上帝の四歳に一度の御巡幸以外の歳、諸侯が帝都に詣でる事を言う。
只今の公国は混乱している。父は勿論、上卿たちも公都を離れるわけにはいかない。
「――卿も付いて参れ」
――長双はその言葉に即座に首肯を返すと、≪火聖真女≫の呼ぶ声に応えるように座を立った。
――さて、出立はいつになるか。
悪神どもも付いて来るとのたまうだろう。特に四女は朱蝶が消えて以来五月蝿くてかなわん。
最近、落ち込んでいる尚もこれで元気を取り戻すやもしれん。
……さても、朱蝶めが。ようも煩わせてくれるものだ。
独り残された部屋で、そう考える≪巫姫≫の耳に慌てふためく下官の声が届く。
「――≪豫州≫より、四つ柱の女神様が御来訪なされました――っ!!」
……なぜに、こうも次から次へと……。
――≪巫姫≫もまた座を立った。




