鼓動
「いいなぁ……」
香代子は無意識に自分が発した言葉で我に返る。こたつに足を突っ込み、頬杖をつきながら視線を向けているテレビドラマでは、メロウなBGMに合わせて、ラブシーンが繰り広げられていた。完全にその世界に没頭していた香代子は自分の声にはっとする。
「わ、わたし、今、口に出した……?」
怖々と香代子はコタツの角を挟んで隣に座る由貴也に尋ねる。彼の前にはこんもりとみかんの皮の山ができていた。
「出した。思いっきり」
由貴也の相変わらずの平坦な答えに、香代子は穴があったら即座に入りたくなった。今、観ていたドラマでは、ヒロインに相手役の男が『愛している』と熱烈な告白をしていたところだったのだ。それに対して香代子は「いいなぁ」と発してしまったのだ。羞恥に顔が熱くなるやら血の気が引くやらだ。
心のどこかにずっと引っかかっていたけれど、香代子は由貴也に『愛している』だとか『好きだ』とか、はっきりとした言葉をもらったことがない。それらしい言葉をもらったことはあるし、彼の気持ちを疑ってはいないけれど、それでもつい自分だけに向けられる愛の言葉というやつを欲しいと思ってしまう。
いやいや何考えてんのよわたし、と自分の思考を打ち消しながら、ごめん忘れて、と言おうとすると、由貴也が食べかけのみかんを置いた。
「アンタが言って欲しいなら言うけど」
あまりに由貴也が気負った様子もなかったので、香代子は「え?」と聞き返してしまう。そんないまいち状況が飲みこめない香代子に構うこともなく、由貴也の手が伸びてくる。ふわりと空気が動いて、柑橘系の香りが香代子の鼻腔をくすぐる。その頃には耳、髪とたどって、由貴也の手のひらが香代子の頬に触れていた。
凄まじい求心力を持って、由貴也の瞳が香代子に向けられている。彼の色素の薄い瞳は中心になるほどに濃くなっていて、吸い込まれそうだ。香代子はもう由貴也から目を離せない。
「愛してるよ」
一瞬にして空気が変わった部屋の中で発せられる由貴也の言葉は、絶大な威力を持って、香代子のど真ん中に響いてきた。うれしいのか、恥ずかしいのか、わからなくなって香代子は赤面しながら意味のない怒りを由貴也にぶつける。
「なななな、何でそんなに平静でいられんのよっ!」
由貴也を見ていられなくて香代子は顔を背ける。頬に手を当ててみるとこの上なく熱かった。
気持ちがない交ぜになっていた。愛してるだって、と浮かれてその言葉を胸に中で繰り返す一方、これからどうしたらいいんだろうとも思う。さっきまでのように平然とテレビを見るなんてできない。ドラマのストーリーなんてもう追ってない。
ちらりと視線だけで由貴也をうかがうと、何事もなかったように平然と次のみかんに手を伸ばしているから、急に悔しくも腹立たしくもなってきた。香代子にとっては重大なひと言も、由貴也にとってはそうではないのかと。
「……全然緊張してなそうだね」
まったく違う由貴也との感覚の違いに、思わず嫌味が口をつく。どうせさらっとそうだと返されるのだろうと思っていたのだけれど違った。
由貴也はみかんを食べながら、ひと言「緊張してるよ」と返す。香代子は反抗心からではなく、純粋に驚きから、反射的に言葉を返す。
「うそっ、全然緊張してないじゃ――」
香代子の言葉の途中で由貴也の手が香代子の手をつかんだ。熱い、とまず一番に思う。体温が低い由貴也にしては熱い手だった。
「緊張してるよ」
由貴也は同じ言葉を繰り返しながら、香代子の手をつかんだまま自分の胸に持っていく。ややあって、由貴也の鼓動を感じる。彼の胸は早鐘を打っていて、手の熱さもさることながら、緊張しているという言葉を裏づけた。
香代子は驚いたけれど、すぐに違う感情が追いつき、今までの感情を追い越していった。
「……私も緊張してる」
香代子のつぶやきのような言葉に由貴也がすぐに吐息のようなかすかな言葉で「……何で」と尋ねる。
「由貴也が好きだから緊張してる」
由貴也はそれにはもう答えなかった。その代わり当然と言わんばかりの顔でほんのわずかに微笑む。その一見自信満々な表情に香代子は嘘つきと心の中で返す。
さっき何でと聞いたのは由貴也が好きだと言わせたかったからなのだ。言葉を欲しているのは由貴也も同じだ。
そこまで考えて、香代子の思考は止まった。自信ありげな顔をして、でも言葉だけでは満足できない由貴也の顔が近づいてきたからだ。どちらからでもなく唇を重ね合わせる。
さわやかでみずみずしい香りと味覚が香代子を包む。思わず香代子は唇を離してから小さく微笑む。
「……みかんの味がする」
キスの延長のようなじゃれあいで、額をくっつけながら言うと、由貴也が「みかん好きだから」と答える。香代子は由貴也の言葉にいたずらめかした笑みで応えた。
「わたしよりも?」
みかんと自分を比べた言葉遊びに、由貴也は思いのほか真剣な顔を返してくる。
「わかってるくせに」
そうだわかっている。言葉にしなくとも、かたちにしなくとも。
由貴也が好きで、愛おしく、離れがたく、そして向こうもそう思ってくれていることを。
香代子は由貴也の胸に手をつきながら、少しだけ伸びをして顔を近づける。由貴也の方からも手が伸びてきて、腰を支えられ、遠慮なく彼に体を預けた。
彼が受け止めてくれると知っているから、もたれかかることができる。そして自分がした行動や言葉を返してくれるから、香代子も動けるのだ。
間もなく、由貴也から二度目の口づけが落ちてくる。香代子は再びのみかんの香りを堪能しながら、瞳を閉じたのだった。