第6章 初めての遠征
組合で依頼の条件を確かめると、出発は七日後と決まった。
それまでにやることは山ほどあった。カティアが書き出した持ち物の一覧は思っていたより長く、食料と水筒、雨よけの外套、薬草を包む布と続いて、最後に着替え一組とあった。
「それと翔太。明かり、どうする?」
「明かり?」
「庭の入口は暗い階段だって、フィオナが言ってたでしょ。手提げの灯りは一つ持っていくけど、油は高いし、片手がふさがる。灯りがもう一つあれば、油も節約できるし、いざという時の予備にもなる」
そこで手を挙げたのがフィオナだった。
「《灯火》を覚えてみませんか。小さな物に触れて光らせるだけの、いちばん簡単な魔法です。魔力の少ない人でも、練習すれば使えることが多いんですよ」
魔法。
俺が、魔法を使う。それだけで出発までの七日間が一気に楽しみになった。
*
ところが、魔法はまったく言うことを聞かなかった。
一日目は組合の裏の訓練場の隅で小石を握ったまま半日座っていた。フィオナに言われた通り、手のひらの中の石に意識を集め、体の奥にある温かいものを指先からそっと流し込む。
石はただの石のままだった。
「……何も起きない」
「最初はそういうものです。私も最初に光るまで三日かかりました」
フィオナの隣ではノアも小石を握っていたが、そちらも光る気配はない。
「私の体にも魔力があるのかどうか、まだ分かりません。もう少し試してみます」
二日目の夕方、指の間からほんの一瞬だけ、蛍みたいな光が漏れた。
「今の! 見た!?」
「はい。光りました。一つ数えるくらいの間です」
三日目には三つ数えるくらい。四日目には十。光は手のひらで包めるくらいの淡いもので、熱くもまぶしくもなく、足元を照らすのがやっとだった。
「これ、もっと強くしたら、目くらましとかに使えたりします?」
「《灯火》はそういう魔法ではないですね。明るさは上げられても、手元の明かりくらいまでです。上手になると、光が安定して長く続くようになります」
さすがに都合よくはいかないか。それでも、自分の手の中で石が光るのは何度見ても嬉しかった。
五日目の昼、残りの品を買いに市場へ出た。
武具屋の前を通りかかった時、足が勝手に止まった。棚の一番いい場所にあの革の籠手が飾ってあった。黒く染めた革に銀色の鋲が並んでいて、手首のところに細い飾り紐が付いている。
まだ売れてなかった。
「……ノア」
「はい」
「これ、どう思う」
「格好いいと思います」
ノアはそう答えてから、俺の足元に視線を落とした。
「ただ、マスターの靴は底が薄くて、長い距離を歩くための靴ではないように見えます。左の踵もすり減っています。それに、昨日の練習で手のひらの皮がむけていました」
言われて、自分の靴を見下ろした。こっちへ来た時にもらった、町の中を歩くための軽い靴だ。底は指で押すとへこむくらい薄く、踵の外側が斜めに削れていた。これで遠征に出たら、先に音を上げるのは足の裏のほうだろう。
カティアが横から覗き込んだ。
「二日歩くからね。靴が駄目になると、全部駄目になるよ。手袋もあったほうがいい。庭の中、石の階段や手すりを触ることになるだろうし」
俺は籠手を見た。それから自分の靴を見た。
財布の中身では、籠手か、靴と手袋か、どちらかしか買えない。
「……靴と手袋にします」
声に出すと、思ったより悔しかった。籠手は棚の上で相変わらず格好よく光っていた。
買ったのは底の厚い革靴と、指先まで覆う作業用の手袋だ。どちらも地味な茶色で、鋲も飾り紐もついていない。ノアも自分の稼ぎで似たような靴を一足選んだ。
宿に戻って新しい靴を履くと、足の裏が地面をしっかりつかむ感じがした。出発までの二日間は訓練場でも町の中でもその靴を履き続けて、硬い革を足になじませた。
格好よくはない。でも、これなら最後まで歩ける気がした。
灯火の練習も出発の前日まで続けた。最後の日には、一度点ければ五十を数えるくらいまで光が続くようになっていた。
*
出発の朝はよく晴れていた。
ベルナの門を出て、西へ延びる街道を一日歩いた。最初は浮かれていたけど、昼を過ぎた頃には口数が減り、夕方には黙って足を前に出すだけになった。足の裏は痛んだものの、豆はひとつもできなかった。あの薄い靴で来ていたらと思うと、ぞっとする。
トルカに着いたのは日が沈む少し前だった。街道沿いに石造りの建物が十軒ほど集まった小さな宿場で、家々の裏には低い石塀で囲まれた広い囲いがあり、その中に頑丈そうな石の建物と大きな飼料庫が並んで建っている。囲いの外には放牧地がずっと西へ広がっていた。
宿に荷物を下ろして外へ出ると、ちょうど放牧地から山羊の群れが帰ってくるところだった。
群れは囲いの手前で、石塀に挟まれた細い通路へ吸い込まれていく。山羊が二頭並ぶのがやっとの幅で、その出口のところに木の門が一枚付いていた。門の脇には俺より年下に見える女の子が立っている。
山羊が通路から出てくると、女の子は門を横へ振った。門の板が通路の出口を斜めにふさぎ、山羊たちはそれに沿って向きを変え、囲いの奥へ流れていく。最後の一頭が通り過ぎると、女の子は門を元の位置へ戻して閂をかけた。
「ああやって向きを変えさせるのか」
つぶやいて横を見ると、ノアもじっとその様子を見ていた。
女の子は俺たちに気づくと、照れくさそうに手を振った。俺も振り返した。
その夜、宿の食堂で四人そろって夕食を食べた。煮込んだ豆と、焼いた腸詰めと、黒っぽいパン。歩き通しの体にはどれも信じられないくらいうまかった。
「明日は朝のうちに庭へ入る。採取して、日暮れまでにここへ戻る」
カティアが段取りを確かめる。フィオナは鞄から薬草の絵を出して、採取する葉の形をもう一度見せてくれた。ノアはその絵を覚え込むようにしばらく見つめていた。
窓の外を見ると、暗くなった空の向こうに塔の影がベルナから見た時よりずっと近く見えた。
*
翌朝、トルカから続く細い道を半刻ほど歩くと、塔の足元に着いた。
近くで見ると、塔は思っていたよりずっと太くて高かった。古い石を積み上げた壁が空へ向かってまっすぐ伸び、その上に段々の緑が重なっている。見上げると首が痛くなるほどだ。あの光る雨はここからでは塔の陰になって見えなかった。
正面の大きな入口は崩れた石で埋まっていた。
「側面に使える入口があるはずです」
フィオナが塔の壁沿いに回り込んでいく。草をかき分けた先に人ひとりがやっと通れるくらいのアーチがあった。中を覗き込むと、石の階段が上へ向かって続いている。
そして、真っ暗だった。
入口から差し込む光はほんの数段先で途切れ、その先は何も見えない。奥からひんやりとした空気が流れてくる。
「じゃあ翔太。出番」
カティアが手提げの灯りを腰に下げたまま、俺を振り返った。灯りの油は帰り道のために残しておくと、昨日の夕食で決めてあった。
俺は手袋を外して、ポケットから小石を一つ取り出した。訓練場の隅から拾ってきた、白っぽくて丸い石だ。
手のひらに載せて、目を閉じる。体の奥の温かいものを指先からそっと流し込む。
まぶたの裏がほんのりと明るくなった。目を開けると、手のひらの上で石が小さな月みたいに淡く光っていた。
「点いた……!」
白っぽい光が、すり減った石の段と、壁に残る古い手すりの跡を浮かび上がらせた。照らせるのは足元の三、四段くらいだ。
「十分です。足元が見えれば歩けます」
ノアの言葉にうなずいて、俺を先頭に、ノア、フィオナ、最後にカティアの順で階段を上がり始めた。光が後ろまで届かないので、四人は間を詰めて一列になり、前の人が踏んだ段を順にたどっていく。俺は石を胸の前に掲げ、新しい靴の底で一段ずつ確かめながら上った。
数十段上がったところで、光がふっと弱くなった。
「点け直す!」
声をかけると、後ろの足音がぴたりと止まった。前の人を見失わないよう、点け直す間は全員が立ち止まる約束だ。俺は石を握り直し、もう一度意識を流し込んだ。光が戻ると、また数十段上がる。弱くなればまた声をかけて、止まって、点け直す。
何度目かで後ろからノアの弾んだ声がした。
「マスター。点け直しにかかる時間が出発前より短くなっています」
「やっぱり?」
階段はぐるぐると塔の内側を回りながら、どこまでも上へ続いていた。足が重くなり、息が上がってくる。手の中の光が照らすのは俺の足元だけだ。それでも後ろの三人は俺の踏んだ段をたどって、ぴったりとついてきていた。
さらに何度か点け直した後、上のほうからかすかな音が聞こえてくるのに気づいた。さらさらと、何かが降り注ぐような音だ。
光を掲げて見上げると、階段のずっと先に細い線のような明るさが見えた。扉の隙間から漏れる外の光だ。
雨の音だった。外は晴れていたはずなのに。あの丘の上から見た、光る雨だ。
俺は石を握りしめて、残りの段を上がり始めた。
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