第7章 雨待ちの庭
階段の最後の一段を上がると、古い木の扉があった。
隙間から漏れる光が足元に細い線を引いている。俺は光の消えかけた小石をポケットにしまい、扉に肩を当てて押した。蝶番がきしんで、扉がゆっくりと外へ開いていく。
まぶしさに目を細めると、まず濡れた土と草と甘い花の匂いがして、それから顔に細かい水の粒が当たった。
雨だ。
雲ひとつない青空なのに、細い雨が光りながら降っていた。
目が慣れてくると、自分が塔のてっぺん近くの石の露台に立っているのが分かった。そこから先は段々になった庭が塔の周りをぐるりと取り巻き、下へ下へと続いている。一段ごとに低い石垣で区切られた花壇があり、赤や黄色や青い花が、見たこともない形の葉と一緒にぎっしりと植わっていた。ところどころに古い石の水路が通り、池がきらきら光っている。
あの丘の上から見えたのは塔と光る雨だけだった。こんなに花があるなんて、ここへ来るまで知らなかった。
「すげえ……」
それ以上の言葉が出てこなかった。
「マスター。上です」
ノアが空を指さした。
見上げると、庭の上に細い金属の弧が何本も架かっていた。塔の壁から伸びた弧は蜘蛛の糸みたいに細く、段丘の上を大きく横切っている。その弧に沿って、透き通った丸いものがゆっくりと滑っていた。
水の球だった。人の頭くらいの大きさの水の塊が、こぼれもせずに宙を進んでいく。日の光を通して、中で虹色が揺れていた。
水球はある場所まで来るとふっと形を崩し、細かい粒になって下の花壇へ降り注いだ。光る雨の正体はこれだったのか。
ノアが水球を目で追いながら言った。
「どれも同じ道を通っていますね。あの弧の上を決まった順番で回っていて、崩れる場所も毎回同じです。花壇ごとに水をまく場所が決まっているのだと思います」
フィオナはうっとりと弧を見上げていた。
「昔の人が作った水やりの仕掛けだって言われてます。今でも動いているのはこの庭くらいなんですよ。……来てよかった」
カティアは扉の脇で盾を下ろし、腰に手を当てて庭を見渡していた。
「見とれるのはいいけど、仕事が先ね。薬草はどこ?」
「三段下の東側です。依頼書の地図だと、水路の脇の花壇に生えているはずです」
フィオナが我に返って鞄から地図を取り出した。
*
段丘をつなぐ石段を下りていくと、花壇の間の通路は思ったより広かった。両側の花が膝の高さまで伸びていて、歩くたびに葉の先から水の粒が落ちる。
三段下の東側、水路に沿った細長い花壇に、目当ての草が群れて生えていた。手のひらくらいの丸い葉が茎から何枚も重なるように広がっていて、表は濃い緑、裏は銀色。宿でフィオナに見せてもらった絵と同じだ。
「これです。銀露草。葉を一株から二、三枚ずつ。新しい芽と若い葉は残します」
フィオナがしゃがみ込んで、そっと葉の一枚をめくった。
葉の裏に親指くらいの長さのトカゲが張り付いていた。体は葉と同じ濃い緑で、腹だけが銀色をしている。めくられた葉にしがみついたまま、黒い粒みたいな目でこちらをじっと見上げていた。
「いました、葉隠れトカゲ……!」
フィオナが声を弾ませた。
よく見ると、ほとんどの葉の裏に一匹ずつトカゲがいた。葉の色にまぎれて、上からはまったく見えない。
「これが話してた生き物? 噛むの?」
「噛みます。痛くはないですけど、葉にしがみついたまま離れないんです。無理に摘むと葉が破れてしまうし、トカゲの脚を傷めることもあります」
カティアが眉をひそめた。
「追い払えばいいんじゃない?」
「驚かせると花壇の奥へ逃げ込んで、ほかの草の上を走り回ります。花壇を荒らすことになりますし、それに」
フィオナはトカゲを見つめて、困ったように笑った。
「できれば、この子たちも痛い目にあわせたくないんです」
依頼書には庭の植物を傷めないことと書いてあった。トカゲを無理に引きはがすのも、花壇を踏み荒らして追い回すのも駄目だ。
四人で花壇を囲んで考え込んだ。俺は手袋をはめ直して、一番手前の葉をそっとめくってみた。トカゲがぎゅっと葉にしがみつく。確かにこれは引きはがせない。
その時、頭の上で水球が崩れた。
細かい粒が隣の花壇へ降り注ぎ、その一部が風に流されて、俺の手の甲にもぱらぱらと落ちてきた。
手の下でトカゲがびくりと身を縮めた。次の瞬間、葉の裏から飛び出して、花壇の縁の石の上へするすると逃げていった。
「あ」
隣の花壇を見る。雨が降り注いでいる間、葉の上には何もいない。トカゲたちは花壇の縁の乾いた石の上に並んで、雨が止むのを待つようにじっとしていた。雨が止んでしばらくすると、一匹、また一匹と葉の裏へ戻っていく。
「なあ、こいつら、水が嫌いなんじゃないか?」
三人がいっせいに俺を見た。
「隣の花壇、雨が降ってる間はトカゲが葉から降りてる。今、俺の手に水がかかった時も、こいつ逃げた」
フィオナが隣の花壇へ目をやって、はっと息をのんだ。
「本当です。秋は体が冷えるのを嫌がるので、濡れると乾いた場所へ移るのかもしれません」
ノアが空を見上げた。
「でも、この花壇の上では水球が崩れませんね。さっきから見ていますが、一度もです。ほかの花壇より土が乾いています。トカゲがここに集まっているのも、そのせいかもしれません」
「じゃあ、摘む株にだけ水をかければ、トカゲが降りてくれる?」
「水路の水なら、私の魔法で少し動かせます。一度に手のひら一杯分くらいですけど、やってみますね」
フィオナが水路に手を差し入れると、ひとすくいの水が宙に持ち上がり、一番手前の株の上でぱらぱらとほどけた。葉の裏からトカゲが飛び出して、縁の石へ逃げていく。
ノアがすかさず手を伸ばした。ところが葉の表に落ちた水は丸い粒になって、触れる前にころころと転がり落ちてしまう。葉はあっという間に乾き、逃げたばかりのトカゲがもう葉の裏へ駆け戻っていった。
ノアは伸ばしかけた手を引っ込めた。
「水が葉に染み込まずに、すぐ転がり落ちています。乾くまで、数えて三つもかかりませんでした」
「次の一杯をすくう間に戻ってきちゃいますね……」
「摘んでる間、ずっと降らせてないと駄目なのか」
四人でまた花壇を見下ろした時、ノアが花壇の端にしゃがみ込んだ。
「マスター。これを見てください」
花壇の縁の石に金属の筒がいくつも埋め込まれていた。泥と落ち葉が詰まっていて、言われなければ気づかなかった。通路の脇には膝の高さくらいの石の柱が立っていて、上に丸い取っ手が付いている。
「水の出口だと思います。水球の仕掛けとは別に、この花壇には足元から水をまく仕組みがあったのではないでしょうか。この取っ手で水を出し入れしていたのかもしれません。どちらへ回すのかは、見ただけでは分かりませんが」
カティアが取っ手と水路を見比べた。
「水路から水を引いてるなら、出口が詰まってると変なところから噴き出すかもね。先に詰まりを取っておこう」
「落ち葉なら、私が水で押し流せます」
フィオナがもう一度水路から水をすくい上げ、金属の筒の口へ流し込んだ。詰まっていた泥が押し出されて、ぽろりと落ちる。フィオナは一つずつ時間をかけて、花壇の縁の筒を順番にきれいにしていった。
俺が取っ手を少しずつ回し、トカゲが離れたら摘む。段取りはそれだけだ。
「翔太。回すのは少しだけね。足りなければ足せばいいんだから」
「分かりました」
俺は取っ手を両手で握った。右へ回そうとしても、びくともしない。左へ力を込めると、取っ手がじり、とわずかに動いた。
石の柱の奥でこぽこぽと水の流れる音がして、花壇の縁の筒から細い水が霧のように吹き出した。葉の上に柔らかい雨が降り注ぐ。
葉の裏からトカゲたちがいっせいに飛び出した。緑の体が葉から葉へ跳び移り、花壇の縁の乾いた石の上へ逃げていく。あっという間に石の上に緑のトカゲがずらりと並んだ。
「今です」
ノアとフィオナが手を伸ばし、銀色の裏を持つ葉を一枚ずつ摘み取っていく。フィオナは若い葉を避けて、外側の大きな葉だけを選んでいた。ノアはその手元を見て、すぐに同じ選び方を覚えた。カティアは花壇の外で摘んだ葉を受け取りながら数えていく。
「十二……十三……」
「あと少しです。マスター、水の勢いがやや弱くなってきました」
「了解」
俺は取っ手をもう少しだけ左へ回した。
ぐ、と手応えが変わった。何かが外れるような感触があって、取っ手が勝手にぐるりと回る。
足元で、どん、と音がした。
通路の石畳の継ぎ目から、太い水の柱が噴き上がった。ちょうど俺とノアが立っていた真下だった。
「うわっ!?」
頭から水をかぶった。冷たい。目を開けていられない。噴き上がった水は通路の上で崩れて、滝のように降り注いでくる。
「これは」
水の中でノアの声がした。
「花壇の筒からの水が止まって、代わりに通路の継ぎ目から出ています。噴き出している場所は三か所で、勢いは花壇の筒の何倍もあります。取っ手が回った直後から」
「説明いいから止め方!!」
カティアの怒鳴り声が飛んだ。
ノアがぴたりと口を閉じた。
「……取っ手を、さっきの位置まで右へ戻してください」
俺は水に打たれながら手探りで取っ手をつかみ、右へ力いっぱい戻した。
ごぼん、と鈍い音がして、水の柱がみるみる低くなり、最後に継ぎ目からこぽりと泡を吐いて止まった。
庭が静かになった。頭の上では水球がのんきにぽつぽつと崩れている。
俺は前髪から水を滴らせながら、ゆっくりと周りを見た。フィオナは飛び散った水を半身にかぶって、目をぱちぱちさせている。カティアは盾を傘の代わりにしていたらしく、膝から下だけが濡れていた。
そしてノアは俺の隣で頭から足の先までずぶ濡れになっていた。
「……先に止め方を言うべきでした」
ノアがしゅんとして言った。銀白の髪から水が滴り落ちている。
「うん……次は止め方から頼む……」
言いかけて、俺は固まった。
ノアの白い服が濡れて、体にぴったりと張り付いていた。肩の線も、腕の形も、その下の。
俺は勢いよく横を向いた。
心臓がうるさい。冷たい水をかぶったばかりなのに、耳まで熱くなっていく。
「マスター?」
「ちょ、ちょっと待って」
横を向いたまま、背中の荷袋を下ろした。口を開けて、手探りで一番底を探る。カティアの持ち物の一覧の最後にあった着替え一組を、油紙で包んで底に詰めてきたはずだ。
指先に乾いた布の感触が当たった。引っぱり出すと、厚手の上着が油紙の中で無事に乾いていた。
俺は顔をそむけたまま、上着をノアのほうへ突き出した。
「これ。乾いてるから、着て」
返事まで一拍の間があった。
「……ありがとうございます」
上着が手から離れていく。布がこすれる音がした。
「もう、こちらを向いても大丈夫です」
おそるおそる振り返ると、ノアは俺の上着を羽織って前をきっちり留めていた。袖が長すぎて、指の先しか出ていない。その袖口を持ち上げて眺めてから、俺の顔を見た。
「マスター。さっき、見ないようにしてくださったのですね」
「い、いや、それは、別に」
「嬉しかったです」
ノアは長い袖ごと、そっと胸元を押さえた。
俺は何も言い返せず、濡れた前髪をかき上げるふりをして顔を隠した。
「はいはい。二人とも、そのままだと風邪ひくよ」
カティアは呆れたように言ったが、口元がゆるんでいた。
「少しだけなら、乾かすお手伝いができます」
フィオナが俺の袖に手をかざした。服に染み込んだ水がじわじわと寄り集まり、袖の先から細い流れになって落ちていく。一度に全部とはいかないけど、絞るよりずっと乾いた。フィオナは自分の服と、ノアの髪とスカートの裾も、同じように少しずつ乾かしてくれた。
ノアが乾いてきた髪の先に触れた。
「すごいです。こんな使い方もあるのですね」
「濡れた物から水を寄せるのは、魔法を習って最初に覚えることなんですよ」
花壇の縁を見ると、トカゲたちはまだ石の上に並んで、日向ぼっこをするように目を細めていた。
カティアが摘んだ葉を数え直した。
「依頼の分は十分。少し多めに摘めてるね。この分も持ち帰っていいんだよね、フィオナ」
「はい。一株から摘んだのは三枚まで、若い葉は全部残っています。このくらいなら草も弱りません」
摘んだ葉は濡れた布に包んで、フィオナの鞄に収まった。
あの取っ手には、もう誰も触らなかった。
*
日当たりのいい段丘の石垣に四人並んで腰を下ろし、昼飯にした。
宿で包んでもらった黒パンと、固いチーズと、干した果物。冷えた体に日差しが温かかった。下の段の花壇では水球がゆっくりと崩れて、光る雨が降ったり止んだりしている。
ノアは長い袖をまくり上げて、両手でパンを持っていた。まだ湿った髪が日に当たって、銀色に光っている。
さっきの濡れた姿が頭をよぎりそうになって、俺は慌ててチーズをかじった。
「マスター。これを見てください」
ノアが差し出した手のひらに、ガラスの欠片が載っていた。親指の爪くらいの大きさで、角が丸くすり減っている。透き通った青に緑がかすかに混じったような色だった。
「さっき、通路の砂利の中で見つけました」
ノアが欠片を指でつまんで日にかざすと、光が欠片を通り抜けて、手のひらに青い光の点を落とした。指を動かすと、青い光も手のひらの上を滑るように動く。
「庭の古い温室の窓ガラスかもしれませんね」
フィオナが身を乗り出して、段丘の一番上を見やった。そこにはガラスの抜け落ちた鉄の枠が骨組みだけ残っている。
「きれい……光の色が水の中みたいです」
ノアは欠片から目を離さずに、フィオナに尋ねた。
「持ち帰ってもいいでしょうか」
「割れた小さな欠片なら大丈夫ですよ」
ノアは欠片を手のひらに戻して、しばらく眺めていた。
何かの役に立つわけじゃない。売っても値はつかないだろう。でもノアがこんなふうに何かをじっと見つめているのを、俺はあまり見たことがなかった。
「いいの見つけたな」
「はい。気に入りました」
ノアはそう言って、欠片を上着の内側の小さなポケットにしまった。俺の上着のポケットだったけど、何も言わないことにした。
*
昼飯の後、帰る前に一番上の露台まで戻った。
扉の脇から塔の反対側へ回り込んだところで、俺は足を止めた。
露台の端から、細い石の橋が空へ向かって延びていた。屋根付きの渡り廊下だ。手すりに細かな飾りが彫られていて、ずっと向こうにそびえる別の塔へつながっている。
いや、つながっていた、のだ。
渡り廊下は真ん中あたりで崩れ落ちていた。折れた石の端が宙に突き出していて、その先には何もない。崩れた隙間の向こうでは、渡り廊下の残り半分が、向こうの塔から同じように突き出していた。
そして、向こうの塔のてっぺんにも庭があった。
ここよりずっと高い。段丘の緑がかすかに見える。その上を白いものがふわふわと舞い上がっていた。花びらか綿毛か、ここからでは分からない。風に乗って、谷のほうへきらきらと流れていく。
「あっちにも庭がある……」
誰に言うともなくつぶやいた。
「上の庭ですね」
フィオナが目を細めた。
「昔の記録に名前だけ残っています。でも渡り廊下が落ちてからは、行った人の話を聞いたことがありません」
カティアが腕を組んで、崩れた渡り廊下の端を見つめた。
「今日は無理。帰りの階段もあるし、日暮れまでにトルカへ戻らないと」
「分かってます」
今の俺たちにはあの隙間を越える方法も、別の道を探す時間もない。それでも目が離せなかった。
あの白いものは何なんだろう。あの庭には何が咲いているんだろう。この庭だって、ここへ来るまでこんなにきれいだとは知らなかった。あっちもきっと、行ってみないと分からない。
隣ではノアも同じ方向を見ていた。上着のポケットに手を当てたまま、ノアが口を開いた。
「私も、見てみたいです」
「うん。いつか行こう」
カティアが盾を背負い直した。
「いつか、ね。じゃあまずは今日の分をちゃんと持って帰ろう。帰り道で転んだら、いつかも何もないよ」
「はい!」
返事をしてから、俺はもう一度だけ上の庭を振り返った。
白いものが一つ、風に乗って高く高く舞い上がり、青い空に溶けていった。
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