第5章 任された場所
約束の朝、まだ空が白み始めたばかりの頃に訓練場へ行くと、カティアはもう盾を背負って待っていた。
「おはよう。眠そうだね」
「おはようございます。……起きてます」
「南の農場までは歩いて半刻。猪が出るのは夜明けすぐだから、急ぐよ」
前の日に組合で借りておいた剣と盾を身につけ、三人で門を出た。畑の間の道を歩きながら、俺はずっと考えていたことを切り出した。
「カティアさん。仕事の前にノアのことを話しておきたいんです」
「ノアのこと?」
「ノアは見たものをよく覚えてて、そこから考えるのが得意です。ただ、未来が見えるわけじゃないし、人の心も読めません。この辺りの動物のこともまだほとんど知らないです」
隣でノアがうなずいた。
「それと、この前の試合で分かったんですけど、俺はまだ細かい指示を聞きながら動く余裕がないです。人が相手だと、声に出した予想を逆に使われることもあります」
「私も、短く伝えるほうがよいと学びました」
カティアは歩きながら、俺とノアを順番に見た。
「ふうん。自分たちのできないことを先に言ってくる新人、初めてかも」
「だめでしたか」
「逆。助かる。できないことを知らないまま任せるほうが怖いからね」
カティアは前を向いたまま笑った。
「で、翔太は?」
「俺は……まだ戦えないです。試合でも一本しか取れなかったし」
「知ってる。だから見張りを頼んだの」
あっさり言われて、肩の力が抜けた。
*
南の農場は森の縁に沿って芋畑が広がる場所だった。
畑の北側は低い木の柵を挟んですぐ森になっていて、柵の切れ目から獣道が一本、畑の中へ延びている。西の端には森から流れ出た細い用水路が畑の縁に沿って走り、東には大きな納屋があった。荒らされた畝はどれも森に近い側で、土が深く掘り返されていた。
「鎧猪は小さいのが三頭。いつも森の獣道から来るらしい」
カティアは畑の真ん中、獣道の出口が正面に見える場所に立って、俺とノアに持ち場を割り振った。
「翔太は西の角。あそこの藁の山に登れば、獣道と用水路の両方が見える。ノアは東の角で、納屋の側を見て。何か見えたら、何頭か、どこからか。それだけ叫んで。戦うのは私」
「分かりました」
「それから翔太。何があっても、藁の山から降りて斬りかかろうとしないこと」
ぎくりとした。
実は、そういう場面を想像していたのだ。カティアの危機に俺が駆けつけて、借り物の剣で猪を追い払う。ノアとカティアが目を丸くする。そんな妄想がここへ来る道の途中で何度か頭をよぎっていた。
「……しません」
「よろしい」
俺は藁の山によじ登り、腹ばいになった。目の前に獣道の出口があり、左手の下には用水路が見える。畑の反対側、東の角ではノアが納屋の壁際に立っていた。
空がゆっくりと明るくなっていく。藁が服越しにちくちく刺さり、湿った土の匂いがした。森の奥で鳥が鳴き始めた頃、獣道の奥の茂みが揺れた。
灰色の塊が二つ、柵の切れ目から転がり出てきた。
小さいと聞いていたけど、それは最初の日に見たあの猪と比べての話だった。俺の腰くらいの高さはある。肩から背中にかけて硬い板のような毛が重なり、朝の光を鈍く跳ね返していた。
「獣道から二頭!」
腹の底から叫んだ。声が裏返りかけたけど、ちゃんと届いたらしい。カティアが盾を構えて半身になる。
先頭の一頭がカティアに気づいて地面を蹴った。
速い。土を跳ね上げながら一直線に突っ込んでいく。カティアは動かなかった。ぶつかる寸前まで待ってから、盾を斜めに当てて体を半歩ずらす。鎧猪は盾の表面を滑るように脇を抜け、勢いのまま畝の上を何歩も突っ走った。
そこで向きを変えようとしたものの、あれだけ勢いがついていると、すぐには止まれない。後ろ脚で土を掻きながら、大きく弧を描いて体を回す。その瞬間、肩の板に守られていない脇腹が、カティアの正面にさらされた。
カティアがそこへ踏み込んだ。剣が脇腹を打つ。鎧猪は甲高い声を上げて跳び上がり、そのまま森のほうへ逃げ出した。
すげえ。突っ込んでくる正面には手を出さず、向きを変えるその一瞬だけを狙っていた。
見とれていた俺ははっとして左下に目をやった。
用水路の土手の陰を灰色の背中が低く進んでいた。三頭目だ。獣道ではなく水路に沿って回り込んでいて、その先にはカティアの背中がある。カティアは二頭目と向き合っていて、こちらにはまだ気づいていない。
ここから飛び降りれば、俺のほうが先に水路の出口に着く。
一瞬、手が剣の柄に伸びかけた。藁の山を滑り降りて、あいつの前に立ちはだかる。格好いいのはたぶんそっちだ。
でもそれは俺の仕事じゃない。
「水路から一頭! カティアさんの後ろ!」
カティアが振り返る。間を置かず、東の角からノアの声が続いた。
「納屋の側、来ていません!」
カティアは二頭目の突進を盾でいなしながら、用水路から離れて畑の東側へ大きく下がった。これで二頭目も、水路から出てきた三頭目も正面に来る。二頭の間には距離があって、同時には飛びかかれない。
二頭目が突っ込み、さっきと同じように弧を描いて向きを変える。カティアの剣がまた脇腹を打った。二頭目は悲鳴を上げて跳ね、一頭目を追うように獣道へ逃げ込んだ。三頭目は仲間の悲鳴に足を止め、しばらく鼻を鳴らしてから、水路を引き返して森へ消えていった。
カティアは茂みが静かになるまで森のほうを見つめてから、ようやく盾を下ろした。
「終わり。今朝の分はね。柵の切れ目はこの後、農場の人が塞ぐって。追い払うところまでが今回の仕事」
俺は藁の山の上で大きく息を吐いた。剣の柄から手を離すと、指が震えていた。
*
藁の山から降りると、カティアがこちらへ歩いてきた。
「三頭目、よく見つけたね。農場の人の話だと、水路から回ってきたことは今まで一度もなかったって。あのまま後ろから来られてたら、私も危なかったよ」
「……飛び降りようかと、一瞬思いました」
「でも降りなかった」
カティアはにっと笑って、俺の肩を拳で軽く叩いた。
「見張りが持ち場を離れたら、次に来る四頭目は誰が見るの。叫んでくれたから、私は回り込めた。それで十分」
褒められた。格好いい場面なんて一つもなく、藁にまみれて腹ばいで叫んでいただけなのに、胸の奥がじんわり温かかった。
その時、畑の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
「カティア、もう終わったんですか」
穏やかな声だった。大きな肩掛け鞄を下げた女の人で、年はカティアより少し上に見える。
「フィオナ。来てたんだ」
「農場の方に畝の直しと見回りを頼まれていたんです」
フィオナと呼ばれた人は荒らされた畝のそばにしゃがみ込んだ。掘り返されて散らばった土に手のひらを当てて、目を閉じる。しばらくすると、散った土がゆっくりと寄り集まり、崩れた畝の形に盛り上がっていった。
「魔法……!」
「土の魔法です。柔らかい土をこのくらい動かすだけですけど」
フィオナは手のひら二枚分ほどの範囲を示して、照れたように笑った。
「固い土や石は動かせないので、畑全部を直すとなると何日もかかります。こつこつやるしかありません」
それからフィオナは土の中から何かをつまみ上げた。
親指の先ほどの、薄い板のような欠片だった。鎧猪の背中から剥がれ落ちた毛の板らしい。朝日にかざすと、灰色の表面にうっすらと虹のような色が浮かんだ。
「見てください。光に当てると、こんなふうに色が変わるんです。きれいでしょう」
「本当だ……!」
灰色にしか見えなかったのに、角度を変えるたびに青や紫がちらちらと揺れる。俺は身を乗り出していた。
「何かの役に立つんですか?」
「いいえ、全然」
フィオナはにこにこと首を振り、欠片を鞄の小袋に大事そうにしまった。
ノアも横からその小袋を覗き込んでいた。この人と一緒に歩いたら、面白いものをたくさん見つけられそうな気がした。
カティアが俺たちを引き合わせた。
「この人たち、翔太とノア。新人だけど、今日の三頭目は翔太が見つけた。こっちはフィオナ。土地とか植物とか生き物を調べるのが本業で、こういう畑の見回りもよく頼まれてる」
「まあ。水路から来たのを? それはお手柄ですね」
フィオナは用水路のほうへ目をやった。
「秋になると、森の木の実だけでは足りなくなって、鎧猪は畑まで下りてくるんです。普段と違う道を使うこともあります」
秋。この世界も今は秋なのだ。言われてみれば、朝の空気は来た日よりも冷たくなっていた。
俺は畑の向こうを見た。森の木々の上、ずっと遠くにあの細い塔がかすかに見えている。
雨待ちの庭。
組合の掲示板で見た依頼書を思い出した。D級以上の同行を推奨。カティアは今日みたいに戦えるし、フィオナは土地や植物を調べるのが本業だという。
でも俺から頼んでいいのか。今日、剣を一度も振っていない新人が。
口を開きかけて、閉じた。
隣でノアが俺の顔をちらりと見た。何も言わず、ただ待っているように見えた。
あの丘の上で行きたいと言ったのは俺だ。
「あの」
俺は二人に向き直った。
「組合に、雨待ちの庭の薬草採取の依頼が出てるんです。D級以上の同行が推奨されてて、俺たちだけじゃ行けません。でも、行きたいんです。フィオナさん、カティアさん。一緒に行ってもらえませんか」
言い終わってから、心臓がばくばくしているのに気づいた。
フィオナは目を瞬かせてから、ふわりと顔をほころばせた。
「あの庭の薬草、葉の裏に隠れる生き物がいるんですよね。前から一度、ちゃんと見てみたかったんです」
「ちょっと、フィオナ。もう行く気になってる?」
呆れたような声のわりに、カティアの顔はどこか楽しそうだった。
「遠征になるよ。宿場で一泊して、庭の中は暗いところもある。準備も費用もかかる」
「準備します。費用も今日の報酬から出します」
「庭の入口は暗い階段だと聞いたことがあります。明かりを用意できるといいですね」
フィオナが言うと、カティアは腕を組んで考え込んだ。
「……四人で遠くへ、か」
そうつぶやいてから、カティアは俺を見た。
「いいよ。ちゃんと準備して、ちゃんと稼げる形にするならね。依頼の条件、組合で一緒に確かめよう」
「はい!」
声が大きすぎて、農場の鶏が驚いて鳴いた。
ノアが隣でくすりと笑った。
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