第4章 勝てるときだけ賭ける作戦
カティアとの仕事までまだ二日ある。
その朝、宿の食堂で硬いパンをかじりながら、俺は財布の中身を三つに分けた。宿代と食費、装備や消耗品のための貯え、そして最後に遊び用の小銭だ。そこから入場料と軽い食事の分を別にすると、賭けに回せるのは指でつまめるくらいの硬貨だけだった。
「これは遊び用だ」
「遊び用、ですか」
「生活費には手を出さない。これだけなら、なくなっても困らない」
ノアは硬貨の小さな山を見て、それから俺の顔を見た。
「何に使うのですか」
俺は待ってましたとばかりに、壁に貼られた一枚の紙を指さした。
《本日 南門外にて走鳥競走 全四競走》
昨日、訓練場から戻った時に見つけたのだ。大きな鳥に騎手が乗って速さを競い、どの鳥が一着になるかに金を賭けられるらしい。
「ノアは観察と推論が得意だろ。だから、ノアが確実に勝つって言った時だけ買う。それ以外は全部見送る。負ける勝負はしない」
完璧な作戦だった。
勝てば、この小銭が何倍にもなる。そうしたら武具屋で見かけた格好いい革の籠手が買えるかもしれない。ノアにも何か好きな物を贈れる。この町に着いた晩に食べた豆の煮込みでもいいし、もっといい物でもいい。さすがマスターです、とノアに見直されるところまで、俺の頭の中ではもう話が進んでいた。
「確実に勝つと判断できた時だけ、ですね。ただ、その条件ですと一度も買えない可能性があります」
「四回もあるんだぞ? 一回くらいあるって!」
「……分かりました」
ノアは真剣な顔でうなずいた。
*
南門を出てしばらく歩くと、歓声が聞こえてきた。
なだらかな草地を楕円に削った走路が、朝の光の中に広がっていた。周りの柵には人がびっしりと並び、屋台から肉を焼く煙が上がっている。走路の端では背の高い鳥たちが首を振りながら出番を待っていた。
でかい。
脚だけで俺の背丈くらいある。体は茶色や灰色の羽に覆われ、頭には赤や青の冠羽が立っていた。その背中に小柄な騎手がまたがり、手綱を短く握っている。一羽が地面を蹴っただけで、柵の向こうまで土が跳ねた。
「すげえ……!」
「脚の筋肉がとても発達しています。ここから見ても、腿の太さが一羽ずつ違いますね」
ノアは柵に手をかけて、身を乗り出すように鳥たちを見ていた。
入場料を払って柵の前に陣取る。賭けの窓口の横には黒板があり、鳥の名前と番号、それに人気の順がチョークで書かれていた。
一競走目には五羽が並んだ。
「ノア、どうだ」
「一番人気は二番の鳥ですね。脚の運びはよく見えます。ですが、私はこの鳥たちが走るところを今日初めて見ますし、走路の土の具合も分かりません。確実とは言えません」
「じゃあ見送りだ」
合図の旗が振られた。
五羽が一斉に飛び出す。地面を叩く脚の音が腹の底まで響いてきた。二番の鳥は先頭に立ったが、最初の曲がり角で外へふくらみ、そこから一気に三羽に抜かれた。一着は人気の低い灰色の鳥だった。
周りからため息と怒鳴り声が上がる。
「見送り正解じゃないか!」
俺は拳を握った。買っていたら負けていた。作戦どおりだ。
「さすがノア! この調子で行こう!」
「はい」
ノアの返事は心なしか誇らしげだった。
二競走目は四羽で、一番人気の青い冠羽の鳥は他より一回り体が大きかった。
「あの鳥、強そうだな」
「歩き方に無駄がありません。ただ、先ほどの二番の鳥も強そうに見えました。確実とは言えません」
「……見送りか」
旗が振られた。
青い冠羽の鳥は最初から先頭に立ち、曲がり角でもぶれずに、そのまま二羽分の差をつけて一着でゴールした。
柵の周りで歓声が上がり、窓口へ走っていく人たちが見えた。
「……今の、買ってたら」
「当たっていました」
ノアは正直だった。
いや、いい。今のは結果論だ。確実じゃないものには賭けない、それが作戦なんだから。
そう自分に言い聞かせても、手の中の小銭はさっきより軽く感じた。
*
競走と競走の間は思ったより長かった。屋台を冷やかしたり鳥の手入れを眺めたりしているうちに、三競走目の鳥たちが走路に出てくる頃には日がだいぶ傾いていた。俺はもう落ち着いていられなかった。
「ノア、今度こそどうだ!」
「一番人気は白い羽の四番です。他の鳥より落ち着いていて、騎手との息も合っています」
「じゃあ」
「ですが、確実とは言えません」
旗が振られた。
白い羽の鳥はぎりぎりの差で一着になった。
「また当たってた!!」
俺は頭を抱えた。二回連続だ。買っていれば今頃、籠手もノアへの贈り物もずっと近づいていたはずなのに。
「なあノア。確実って、どうなったら確実なんだ?」
「全ての鳥の調子と、騎手の判断と、走路の状態が分かって、偶然の入りこむ余地がなくなった時です」
「それ永遠に来ないやつ!!」
叫んでから、はっとした。
ノアは朝の時点で一度も買えないかもしれないと言っていた。四回もあれば一回くらい、と聞き流したのは俺だ。
「……俺の作戦が悪かった」
「マスター」
「言い方を変える。確実じゃなくていい。次の競走で一番勝ちそうな鳥を教えてくれ。外れても文句は言わない」
ノアはしばらく考えてから、うなずいた。
「分かりました。ではきちんと比べて、理由をお伝えします」
最後の四競走目は六羽だった。今日一番の大きな競走らしく、柵の周りの人がさっきより増え、窓口の前にも列ができている。
出走の前に六羽は一羽ずつ走路を軽く一周して脚慣らしをした。ノアはその間ひと言も話さず、曲がり角ばかりを見ていた。
「締め切りまで、あとわずかです!」
係の声が響いた。窓口は柵の反対側の、列の向こうにある。
「私が一番勝ちそうだと思うのは三番です」
「よし、三番……いや待て。なんで三番なんだ? 理由を聞いてから買いたい」
ここまで三回も見送ってきたのだ。最後の一回を勘で買って外したら、悔やんでも悔やみきれない。
「一番人気の五番は、さっきの脚慣らしで曲がり角を外へふくらんで回りました。一競走目の二番と同じ回り方です。二番人気の一番は、走路に出てから何度も首を振っていて落ち着きがありません。三番は体は小さいですが、脚慣らしの時に曲がり角の内側を回っていました。この走路は曲がり角が二つあるので、内側を回れる鳥は距離を短くできます。ただし、出だしで前に出られなかった場合は、内側を他の鳥にふさがれる恐れがあります。その場合は」
「締め切りまーす!」
窓口のほうから声が飛んだ。
「ちょっ……!」
振り返った時には、窓口の木の板がばたんと下ろされていた。
「……締め切られましたね」
「説明が丁寧すぎる!!」
旗が振られた。
六羽が飛び出す。三番の小さな鳥は出だしで遅れ、内側を他の鳥にふさがれた。それでも最後の曲がり角で隙間を見つけ、するすると前へ出てくる。俺は柵を握りしめて叫んでいた。賭けてもいないのに。
「行けっ! 行けーっ!!」
三番は猛然と追い上げた。そして、首一つ届かずに二着でゴールした。
一着はノアが落ち着きがないと言った一番だった。
しばらく二人とも黙っていた。
「……買ってたら、外れてたな」
「はい。外れていました」
ノアがまじめな顔でそう言うので、俺はとうとう吹き出した。
「なんだよそれ! 結局、一回も買わなかったじゃないか!」
笑いが止まらなかった。あれだけ皮算用していた籠手も贈り物も、朝から一歩も近づいていない。そのかわり、賭けに回すはずだった硬貨は、朝に分けた時のまま一枚も欠けずに財布に残っていた。
*
帰り道、屋台で串焼きを二本買った。入場料と食事の分は最初から別にしてあったから、それくらいは払えた。
ノアは串焼きを両手で持って、歩きながらちびちびとかじった。
「楽しかったです」
「え、今日が? 一回も買ってないのに?」
「はい。鳥が走るところを見るのは楽しかったです。特に三競走目の白い羽の子は、走る前から騎手と顔を寄せていて、仲がよさそうでした」
弾んだ声を聞いていると、一回も買わずに終わった一日も悪くなかった気がしてきた。
「最後の三番もよかったですね。ふさがれても諦めませんでした」
「ああ。あれは本気で叫んだ」
俺は串焼きの最後の一切れを口に放り込んだ。
籠手の代金は賭けじゃ増やせそうにない。それなら仕事で稼ぐしかない。武具屋の棚にまだ残っているといいんだけど。
「明後日のカティアの仕事、ちゃんとやろうな」
「はい、マスター」
夕焼けの中、南門の向こうから一着の鳥を称える歓声がかすかに聞こえていた。
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