第1章 ノアの行きたい場所
盾の縁の鉄に、冬の間の傷が三本増えていた。
借り物の時は数えるのが嫌だった。自分の物になると、数えるのが癖になった。春の初めの朝、組合の軒下で盾に油を塗りながら、俺は三本目の傷の端を指でなぞった。先月の、畑の柵を壊す鎧猪の若いやつで付いた。
冬の仕事はそういうのばかりだった。畑と柵と倉庫の鼠と、雪で折れた橋の板の運搬。四人で組んだのは二度だけで、あとは俺とノアの二人か別の組に混ぜてもらうかだった。遠出はしていない。盾の傷は三本で、剣は一度も血を吸っていない。
「翔太」
訓練場のほうからセドリクが来た。槍を担いで首に布を巻いている。顔がまた日に焼けていた。冬なのに。
「E級になった」
セドリクは挨拶の代わりにそう言った。
「……いつ」
「三日前。冬の間、北の街道の護衛を一人で回した。十一回。全部荷が無事だった。それで」
セドリクは槍の柄を握り直した。言い方は淡々としていたが、顔は違った。
「おめでとう」
「ああ」
「十一回って、どれくらい稼いだ」
「聞くか、それ」
セドリクは笑った。それから額を言った。俺は盾に油を塗る手を止めた。
俺とノアが冬に稼いだ分の倍より少し多かった。
「翔太のところは、二人組だろ。俺は一人だ。一人のほうが取り分は多い。それだけだ」
「それだけじゃないだろ」
「それだけだ」
セドリクはそう言って、俺の盾を見た。縁の傷を。
「自分の盾か」
「冬の前に」
「じゃあ、次は二本取れるな」
それだけ言って訓練場へ戻っていった。
俺は盾に油を塗り直した。塗る必要のないところまで塗った。E級。あいつは、F級の俺が盾に油を塗っている間に、一人で十一回街道を往復していた。
焦っていた。隠しても仕方がない。E級と、あの額と、一人で十一回。どれが一番悔しいのか、油を塗りながら分からなかった。
*
ノアは配達の仕事から、昼過ぎに帰ってきた。
胸の袋から青い手帳を出す。冬の間に角が丸くなっていた。ノアは手帳を開いて、俺の前に置いた。
一枚の紙が貼ってあった。
色の褪せた古い案内絵で、描いてあるものは分かった。丸い天井いっぱいに小さな光の点があって、その下に湯気と人の頭がいくつか浮いている。絵の下の文字を、ノアが指で押さえた。
「星天浴場。昼に星が見える浴場です」
「昼に」
「はい。天井に光る石が埋めてあって、建物の中を暗くしてあるそうです。外は昼で、中は夜です。配達先の旅籠の壁に貼ってあって、店の人がもう古いからとくれました」
ノアは紙の端を一度撫でた。手帳に貼る時に角を合わせたらしい。まっすぐだった。
「マスター。私の行きたい場所です」
ノアは俺を見た。
「冬の間、ずっと探していました。これです」
俺は案内絵を見た。星の点と湯気と、人の頭。その頭の一つが俺で、隣の一つがノアだったら、と考えた。考えてから顔が熱くなった。
「遠いのか」
「南へ、街道を歩いて四日です。春なら雪はありません。街の高いところに浴場があって、低いところは水に沈んでいます。沈んだほうの街には、人は住んでいません」
「沈んだ街」
「はい。でも行きたいのは浴場です。沈んだ街ではありません」
ノアはそこをはっきり言った。
「分かった。行こう」
言ってから、金のことを考えた。ノアも同じ顔をしていた。
*
その夜、宿の部屋で俺とノアは机に紙を広げた。
移動が往復で八日、向こうで三日。十一日分の宿代と食費。浴場の入浴料。それと、ノアが書き足した「菓子」。案内絵の裏に、浴場の近くの菓子店のことが小さく書いてあったのだ。星の形の焼き菓子。ノアはそれを「予算の項目」として一行入れた。
「菓子は項目なのか」
「はい。行くなら食べます。食べるなら項目です」
ノアは譲らなかった。俺も消す気はなかった。
貯えを数えた。冬の稼ぎから鞘の分を抜いて、移動と宿と浴場と菓子を引く。
「足ります」
「足りるな」
盾を買った時と同じことを言った。言ってから二人で黙った。同じ間だった。
足りる。でも、向こうで好きに使える分はわずかだ。俺の頭に、セドリクの額が浮かんだ。
「向こうで仕事をしよう」
俺は言った。
「浴場のある街にも組合の窓口はあるだろ。向こうで一件やれば余裕が出る。二件やれば、帰りに」
「マスター」
「三件やれば」
「マスター。向こうの三日が、仕事で埋まります」
ノアが紙の端を指で押さえた。
「仕事の次の日に浴場へ行くことになります。疲れた日に、星を見ます」
俺は口を閉じた。
浴場に行くために行くのだ。星を見るために。あいつの額に追いつくために行くんじゃない。
「仕事はしない」
俺は言い直した。
「今回は貯えで行く。向こうで何かあっても、浴場と菓子は動かさない」
「はい」
ノアは紙の「仕事」の字に、線を引いて消した。
「それでいい」
俺は言った。ノアはうなずいて、手帳の案内絵の頁をもう一度開いた。
*
カティアとフィオナには翌日の昼に話した。
「浴場。行く」
カティアは即答だった。
「冬の間、ずっと水が冷たかった。それだけで行く理由になる」
「沈んだ街のほうは」
フィオナが聞いた。
「水に沈んだ街の水は、どんな水か。見たいです。入りはしませんけど、岸から」
フィオナはもう目が光っていた。俺は「仕事はしない」と言おうとして、やめた。フィオナが見たいのは仕事じゃなくて水だ。
「四人で行く。仕事はなし。休みと浴場」
カティアが言ってまとめた。俺が言うつもりだったことを、俺より短く。
*
四日目の午後、街が見えた。
丘の上に、石の建物が重なっている。その丘の裾から下は、水だった。
水の中に、屋根が出ている。屋根だけじゃない。壁の上のほうと窓と、尖った塔の先。街がそのまま腰まで水に浸かっていた。水は春の光を受けて、灰色と緑の間の色をしていた。
「上が、上街。下が、沈み街です」
ノアが手帳を開かずに言った。
「浴場は、上街の一番高いところです」
俺たちは街道から丘の上の街へ上がった。坂が多かった。石畳が濡れていて、どこかで水の音がしていた。
カティアとフィオナは宿を取りに行った。
俺とノアは街を歩くことになった。
ノアが手帳を開いた。
旅程が書いてあった。到着、宿、浴場の場所の確認、水位標、市場、宿。間に、案内図から見積もった道のりが書いてある。全部足すと、日が落ちるまでに全部回れる。そういう計算だった。
「全部回るのか」
「はい。今日は確認だけです。浴場は明日です。今日のうちに場所を全部見ておけば、明日が早いです」
俺も実は似たことを考えていた。向こうに着いたら、名所を全部回って、ノアに全部見せて、「マスターは街に詳しいです」と言われる。そういうのを街道を歩きながら考えていた。
だから、ノアの旅程を見て、同じことを考えていたのに、違う気がした。
坂を上がった。ノアが歩数を数えている。見積もりと合わせるためだと言った。俺は横で、屋根の間から見える沈み街の水を見ていた。
角を曲がったところで、ノアの足が止まった。
俺も止まった。
菓子店だった。
窓の中に、焼き菓子が並んでいる。丸いのと星の形のと三日月の形の。焦げ色の濃いのと薄いの。砂糖が、星の形の上だけに白く振ってある。窓の向こうで年寄りの女の人が鉄板を出していた。
ノアは窓を見ていた。手帳を開いたまま。
「……予定にありません」
ノアが言った。目は窓から離れなかった。
「明日の、浴場の後の項目です」
「今日も食えばいい」
「項目が」
「増やせばいい」
俺は窓を見た。星の形の焼き菓子。案内絵の裏に書いてあった物。
俺も足が動かなかった。
「入ろう」
ノアは手帳を閉じて袋に入れ、俺を見上げた。
「はい」
*
店の中は焼いた砂糖の匂いがした。
俺は星の形を指した。砂糖が振ってあって、一番見栄えがする。案内絵に書いてあったのもこれだ。
「これだろ。ノアも、これ」
「いえ」
ノアは棚の端を指した。三日月の形で焦げ色が濃い。砂糖は振ってない。
「こちらにします。焦げているところが、甘いより苦いと思います。苦いほうが、好きです」
「星じゃないのか」
「星は見に行きます。食べるのは、こちらです」
俺は口を開けて、閉じた。手帳の時と同じだった。
「分かった」
俺は星を二つ買った。ノアは三日月を二つ、自分の金で買った。
店を出て、坂の途中の低い石垣に並んで座った。沈み街の屋根が見える場所だった。
星の形は甘かった。砂糖が口の中でざらっとして、それから溶ける。ノアは三日月をかじって、何も言わずに、もう一口かじった。
「苦いか」
「はい。苦いです。好きです」
食べ終わるまで、ノアは手帳を出さなかった。
それから手帳を開いた。旅程の頁。道のりの列を見て、それから俺を見た。
「マスター。今日は、全部回らなくてもいいと思います」
「俺もそう思う」
「浴場の場所だけ確かめて、宿に戻ります。水位標は、あとでフィオナと見ます。市場は、見たい時に見ます」
「それでいい」
ノアは旅程の半分に、線を引いた。消したんじゃない。線を引いただけだ。残った項目の横に短く書き足した。
「何て書いた」
「菓子店。坂の途中。三日月」
ノアは手帳を閉じた。
俺は石垣から腰を上げた。沈み街の屋根の間で、水が光っていた。あの水の下に、人の暮らしがあった。今はない。でも上の街には菓子店があって、浴場があって、俺の隣にはノアがいる。
「浴場、見に行こう。場所だけ」
「はい。歩数は数えません」
「数えてもいいけど」
「数えません。今日は」
坂を上がりきったところに、丸い屋根の石の建物があった。窓がない。扉は閉まっていて、脇の板に、今日の分は終わり、明日は朝から、と書いてある。中から、水の音が低く聞こえた。
ノアは扉の前で立ち止まって、案内絵の頁を開いた。絵の丸い屋根と、目の前の丸い屋根を見比べる。
「同じです」
それだけ言って、手帳を閉じた。
「明日だな」
「はい。明日です」
坂を下りる間、ノアは一度も手帳を出さなかった。沈んだ街の水が、坂の下で光っていた。
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