第8章 今度は本物の拍手
「二台とも動くね」
オルネさんは稽古場の机の上で、二台目の輪を左へ回した。黄色い丸が縮んで消える。それから一台目。白い丸が縮んで消える。二度とも消え方を見ていた。
「口の形も溝も同じだ。先代の報告どおり。置いてきた一台は、現物を見てから考える。直せるなら次に行く組に取らせる。あんたたちの仕事じゃない」
宿場で一泊して、朝に出て、日が傾く頃にベルナに戻った。組合で報告を書いて、箱を二つ抱えて稽古場まで歩いた。オルネさんは箱を開ける前に、俺たちの顔を順番に見た。それから箱を開けた。
「規定の二台分。それと、二台揃えてくれた分を少し。約束していないけど、こっちが出したいから出す」
オルネさんは机の引き出しから革の袋を出して、カティアの前に置いた。カティアは中を見ないで受け取った。数えるのは組合でやる。
「それと、公演は十日後。二階の正面、四つ。空けてある」
「はい」
俺が答えた。ちょっと声が大きかった。
*
翌日、組合の装備窓口で借りた盾を返した。
受付の女性は盾を受け取って表面を見て、裏を見て、もう一度表面を見た。
「筋が、七本以上ありますね」
「はい」
「以上、というのは」
「数えると、八本か九本です。重なってるところがあって」
彼女は紙に何か書いて、修理代の額を言った。ノアが隣で、聞いた額をそのまま口の中で繰り返した。俺は払った。盾の借り賃と修理代を合わせると、三日分の宿代くらいになった。
「こんなに増えるとは思ってませんでした」
「返ってこない人よりずっといいですよ」
受付の女性はそう言って、俺の腰の剣を見た。それから窓口の奥に目をやって戻した。盾を買う気なら武具屋へ、という目だった。たぶん。
報酬は四人で分けた。俺の取り分から、宿代二泊、盾の借り賃と修理代、油と保存食。それを引いて、鞘のために貯めている分には手をつけない。残りを数えた。ノアも隣で数えた。
「足ります」
「足りるな」
二人で同じことを言って二人とも黙った。
*
武具屋の店主は、俺の顔を見て「鞘か」と言った。
「盾です」
「盾か」
店主は壁の盾を見た。俺も見た。丸いのと縦に長いの。縁に鉄を巻いたのと木だけの軽いの。
カティアは店の入口に立っていた。中に入ってこない。俺が振り向くと、顎で壁を示した。選べ、ということだ。
俺は丸い盾を一つ取った。借りていた物と同じくらいの大きさで、縁に鉄が巻いてある。持ち上げた。重い。借り物より重い。
隣の少し小さい丸い盾を取った。縁の鉄は細い。持ち上げると、腕の中で収まりがよかった。斜めに傾けてみる。手首だけで角度が変わった。
「どっちだ」
店主が聞いた。俺は小さいほうを持ったまま、カティアを見た。カティアは何も言わなかった。
「何で小さいほう」
言ったのはカティアだった。聞いたんじゃない。俺に言わせようとしている。
「斜めにしやすいです。おととい、大きいので受けた時、腕の骨まで響きました。あれは重さもあったと思います。それと、俺の後ろに立つ人の胸まではこれでも隠れます」
カティアは入口から一歩だけ中に入って、俺の手の中の盾の縁に指をかけた。
「紐の位置。もう少し外。今のままだと、傾けた時に手首が盾の内側に入って受けを殺す。店で直してもらえる」
「できる」
店主が言った。
「じゃあ、これを」
払った。鞘の分には触らなかった。店主は俺を見て、壁の黒い鞘を見て、何も言わなかった。でも鞘はまだ壁にかかっていた。
店を出て、紐の位置を直してもらった盾を左手に通した。借り物より軽い。借り物より小さい。自分の物だ。
「盾は買ったのに、鞘は貯金か」
カティアが言った。セドリクの口調に似ていた。似せている。
「鞘は飾りです。盾は違う」
言ってから、剣を買った時に同じようなことを言ったのを思い出した。カティアは笑わなかった。でも歩き始めるのが遅かった。
*
ノアの買い物は、文具屋だった。
「手帳を買います。図を描いて見せる用と、私が書く用と、両方に使える物です」
ノアは店の棚を端から見た。手に取って、紙を一枚つまんで厚さを確かめる。綴じを開いて、平らになるかを見る。胸の袋に入る大きさかを、袋に当てて測る。
俺は後ろで見ていた。これは俺の買い物じゃない。
ノアが三冊に絞った。一冊は茶色の革の表紙で、金具が付いている。一冊は布の表紙で灰色。もう一冊は布の表紙で深い青だった。
「革のやつ、いいじゃないか。見栄えがする。組合で図を見せる時も」
俺は言った。ノアは革の手帳を開いて紙を見て、閉じた。
「紙は三冊とも同じです。綴じは革が一番よくて、青が二番です。金具は邪魔になります。袋から出す時に引っかかります」
「じゃあ灰色」
「灰色は、好きではありません」
ノアはそう言って、青い手帳を手に取った。
「これにします。海の色です。保管庫の壁の、水の底の色のほうです」
俺は口を開けて、閉じた。
「分かった」
ノアは自分の取り分から払って、袋に入れた。口を閉める前に、手が一度表紙を撫でた。
「マスターが勧めてくれた革のも、よい物でした」
「でも買わない」
「はい。好きなほうを買いました」
俺は何も言わなかった。
*
公演の日は、冬の入りにしては暖かかった。
稽古場だった倉庫に人が集まっていた。板壁の隙間は布で塞いであって、客席には椅子が並んでいる。二階というのは、倉庫の奥の中二階に板を張った席のことだった。正面に四つ、椅子が並んでいる。
俺は先に来ていた。カティアもすぐ来た。カティアは普段の上着で、剣だけ置いてきていた。
「殺陣は後半って聞いた。前半は寝る」
「寝ないでください」
「寝ない。見てる」
次に来たのはノアだった。
ノアはいつもの旅の上着じゃなかった。深い緑の、襟の高い上着。袖口に細い刺繍。古着屋で選んだと、あとで聞いた。
ノアは俺の前で立ち止まった。何も言わなかった。待っている。
「どうですか」
言って、待っている。
俺は口を開けた。格好いいとか似合うとか、言葉はいくつかあった。でも、劇場でノアに答えてもらった時のことを思い出した。今回は俺が、あの答え方で返したかった。
「襟の緑で、顔が明るく見える。それと袖の刺繍。手を動かした時だけ見える。……それが、いい」
言い終わるまでに顔が熱くなった。言い直したくなったが、言い直すと駄目になる気がして、止めた。
ノアは自分の袖を見た。手を一度動かして、刺繍が見えるのを確かめた。
「はい。手を動かした時だけ見えるのを、選びました」
それだけ言ってノアは席に座った。耳が赤かった。たぶん俺もだ。
フィオナが最後に来た。
「翔太。席、どこですか」
俺は正面の四つを示して、真ん中の二つのうち一つを引いた。
「ここです。オルネさんに聞きました。海と月と役者の顔が、全部同じ大きさで見える席。暗いところと明るいところが両方入る」
フィオナは席を見て、俺を見た。
「稽古場で言ったことですね。暗いところがあるから、明るいところが見える」
「はい。覚えてました」
「……ありがとうございます」
フィオナは座った。それから俺を見上げて、言った。
「翔太は、海はどこから見ますか。今日は正面から見られますね」
「はい。正面から」
「床に落ちていた月と、どっちが月でしたか。終わったら教えてください」
俺は隣の席に座った。
*
灯りが落ちた。
舞台の上に、青が出た。
布の波が青くなって、白い線が走って消えて、また走る。その上に黄色い丸。黄色に白が重なって月になっていた。保管庫では夕方の色だった黄色が、布の上では月だった。
舞台の端に人がいた。女の人だ。港の石の上に座って、海を見ている。顔が、見えた。白い光が顔に当たっている。海も月も顔も、全部見える。
二台目の黄色だ。俺はまず、そう思った。あの黄色だ。棚の下から引き出して光らせて、箱に入れて置いていって、取りに戻った黄色。
女の人が立ち上がった。
「約束の刻まで、あと少し」
台詞だった。俺は彩灯のことを忘れた。
話は、港で船を待つ人の話だった。約束の刻までに帰ると言った船が、まだ来ない。女の人は月を見て、海を見て、月を見る。海の上を、黒い影が通る。船じゃない。鳥だ。女の人は座る。
俺は板の裏から見た女の人を思い出していた。あの人は船を見送っていた。手を振っていた。出ていく船に。
今日の人は、待っている。
海の上に黒い影が出た。帆が一枚。月の光を背にして、ゆっくりと岸へ向かってくる。
女の人が立った。叫んだ。船の名前を。
返事があった。遠くから、男の声で。
女の人は一拍、動かなかった。
それから走った。
舞台の袖へ。石の港を駆け下りて、見えなくなった。海と月だけが残って、波の音がした。
拍手が起きた。
本物の拍手だった。俺の両隣と後ろと、下の客席から。俺も叩いていた。誰に向けてでもいい。叩いていた。
*
後半に殺陣があって、カティアは寝なかった。
帰ってきた船の男と港の悪い奴らの打ち合い。木の剣が鳴って、受けるたびに肘が下がる。客席から剣が見えるように。カティアは膝の上で右手を動かしていた。受けるたびに。
終わって灯りがついた時、カティアは最初に立って最初に手を叩いた。
「見た?最後の受け。肘を下げたまま、半歩引いた。本当の受けじゃない。でも半歩引く位置が、本当だった」
カティアは本当に楽しそうだった。俺たちに向かって、半歩引く動きをやって見せた。椅子の間で。
「劇場の、剣を立てて下ろすのとは違いますね」
「違う。あれは見送る剣。今日のは守る剣。どっちも本当の剣じゃない。どっちもいい」
フィオナが俺のほうを向いた。
「翔太。月は」
「……今日のです。布の上の」
言ってから、考え直した。
「でも床の月は、手で触れそうだった。今日の月は遠い。遠いから月だった」
「遠いから月。はい」
フィオナはそう言って、舞台の布を見た。客席の灯りがついても彩灯は点いたままで、灰色の布はまだ青く照らされていた。
「私は、鳥でした」
「鳥?」
「船じゃなくて鳥だった時、あの人が座り直した。あそこで私も一度、座り直しました」
ノアは、青い手帳を開いていた。
「ノア。何書いてる」
「返事が聞こえてから、走り出すまでの一拍です」
ノアは手帳に短く書いた。覗くと、一行だった。日付と、その一拍のこと。
「後で開きたい時に開きます。覚えているのとは別に」
ノアは手帳を閉じて、袋に入れた。
*
倉庫を出ると、空に本物の月があった。
欠けていた。でも月だった。
「次、どこ行く」
言ったのはカティアだった。
「仕事じゃなくて。見に行く場所。今日みたいに」
「海」
俺は言った。言ってから、本物の海を見たことがないのに気づいた。布の海と記録の海しか見ていない。
「本物の海。冬は無理か」
「無理ではありません。寒いだけです」
ノアが言った。それから間を置いた。
「私は、行きたい場所があります」
「どこ」
「まだ言いません。手帳に書いてからにします。書いてからマスターに見せます」
ノアは袋の上から手帳を押さえた。
「どうせ見せるなら今言えばいいだろ」
「見せ方があります」
俺は何か言おうとして、やめた。
「じゃあ、書けたら」
「はい」
串焼きの屋台が、通りの先で煙を上げていた。四人とも、同時にそっちを見た。
「四本」
俺は言った。盾は自分の物になった。鞘はまだ実用一点張り。でも今日は、四本買っても足りた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




