第7章 舞台袖の攻防
幕は動かなかった。
音も、しなかった。背中の側で歯車が回っていて、板の隙間から青が点いて消える。それだけが動いている。幕の黒い布は、垂れたまま。
「マスター」
ノアの声は低かった。柱の根元から俺の背中へ向けて。
「最後に見えたのは、右の幕の壁側の端、上から三分の一の高さです。今はどこにいるか分かりません」
「分かった」
分かったのは、分からないということだけだ。
「見えない間は、どこにいてもいいと思って動く」
カティアが言った。床の真ん中で盾を構えて、幕の全体を見ている。一か所を見ていない。上から下まで、端から端まで、目を動かし続けている。
「上から来るなら私。横から出るなら翔太。幕の裾からでも、板の道からでも」
横。俺は幕の壁に近い端を見た。幕の裏に板の道があるのは朝に見た。あの道は幕の裏を、保管庫側の壁から回る床の縁まで通っている。手前の端は、俺が立っている場所のすぐ横だ。
幕の裏を板の道で来れば、俺の横に出る。柱の二人の斜め前に出る。
盾を少し横へ向けた。
幕の裾が揺れた。右の端。それから、真ん中。
真ん中のほうが新しい。向こうは壁側から真ん中へ動いた。たぶん。盾を持つ手に汗が出て、俺はもう一度紐を握り直した。
「来るなら来い」
口の中で言った。声にはしなかった。カティアが聞いたら「呼ばなくていい」と言うに決まっている。
来なかった。
揺れが止まって、また待つことになった。背中の青が点いて、消えて、点いた。
待つのは慣れたと思っていた。朝も昼も、この床で待った。でもあの時は、待てば隙間が開くと分かっていた。今は何が出てくるか分からない物を待っている。待つ中身が違うと、同じ床がこんなに広く見えるとは知らなかった。
「翔太。肩」
カティアの声だった。盾の肩が上がっていた。下ろした。朝、ノアに言われたのと同じ場所だ。
*
「マスター。板が」
ノアが言った。
振り向きたくなるのを我慢して、首だけ回した。背景板の隙間の青が、さっきと違う場所に落ちていた。幕の裾の手前の床。幕と背景板の間の暗かった床が、青く照らされている。
「板の向きが変わりました。海の絵の板が、こちらを向いています。幕の下が、しばらく見えます」
見えた。幕の裾と床の間。黒い布の下の暗がりが、青い光の中で灰色になっている。何もいない。幕の裾の下には、何もいない。
下にはいない。なら上か、幕の裏か。幕がそこにあるから、そこは見えない。
俺は自分の盾を見た。借り物の盾。三本の筋。この盾で隠せるのは俺の胸と、俺の後ろに立つ人の胸までだ。後ろにノアとフィオナがいて、その後ろにやがて開く隙間がある。
「カティアさん」
俺は言った。言い直す余裕はなかった。
「俺はここから動きません。開く側はここです。カティアさんは幕の手前へ。フィオナさん、綱。幕を寄せてください。板の道が見えれば、見えない場所が減ります」
言い終わるまで、誰も何も言わなかった。
「翔太はそこ。守る側」
カティアが言った。
「私が出る側。フィオナ、綱を引いて留めて、すぐ柱に戻る。ノアは見て、言う」
「はい」
「はい」
フィオナが立った。右の柱の腰の高さの留め具。朝にフィオナ自身が巻き直した綱だ。フィオナは綱を留め具から外して、両手で持った。
「引きます」
天井で滑車が鳴った。
右の幕が横へ動いた。壁のほうへ、襞を寄せながら。埃が降った。俺は目を細めて、咳をしなかった。咳をする余裕はなかった。
幕が壁際に寄って止まった。フィオナが綱を留め具に二度巻いて、端を挟んだ。朝と同じ巻き方。手を離して、柱の陰にしゃがんだ。速かった。
幕の裏に、横に走る板の道。壁沿いに、頭より上。
朝と同じ場所に同じ道があった。違うのは、その上に乗っている物だ。
いた。
板の道の真ん中。幕があった時の、真ん中の裏だ。灰色の塊が板の上に伏せていた。長い脚を折って、頭を低くして。頭はこっちを向いていた。俺のほうを。
向こうも動かなかった。
「板の道の真ん中。伏せています。頭はマスターのほうです」
ノアの声は、ちゃんと聞こえる声だった。震えていなかった。俺のほうが震えそうだった。
背景板が回って、青い光が床を滑った。塊の脚が光の中で動いた。前の脚が一本。板の道を、俺のほうへ。
俺は一歩出そうになった。
見えている。背中が見えている。脚の付け根が見えている。カティアが小さいのを払った場所と同じところが、俺の剣でも届きそうな高さにある。踏み込んで、下から。
足を止めた。
出れば、ここが空く。ノアとフィオナの前が空く。カティアはもう幕の手前にいる。向こうが板の上を戻って、俺のいない場所から飛べば、ノアとフィオナの頭の上だ。
盾を戻した。胸の前に。半歩分後ろへ。背中に板の音。
「翔太。そこでいい」
カティアの声だった。
カティアは板の道の下にいた。幕が寄ったので、幕の裏の壁が見えている。カティアは板の道の真下より少し手前に立って、盾を上に構えていた。塊はカティアの頭の上にいる。でも頭はカティアを見ていなかった。俺を見ていた。盾を構えて動かない人間より、盾の後ろに二人隠している人間のほうを。たぶん、そう見えたんだと思う。
*
来た。
板の道を三歩。脚が長いから三歩で俺の前の端まで来た。板の端で止まった。小さいのと同じ飛ぶ前の一拍。
飛んだ。
上から。板の道の高さから斜めに俺の盾へ。影が大きくなって、灰色の毛と黒い爪と開いた口が見えた。
盾を斜めに。
考えなかった。体がそうした。カティアが鎧猪にやったのを何度も見て、俺が一度だけ真似た角度。盾の面を右へ傾けて、同時に左足を一歩引く。柱の二人は俺の左の後ろだ。流すなら右しかない。
爪が盾に当たった。
重い。腕の骨まで響いた。盾の表面を爪が削って、鳴った。でも正面では受けていない。斜めの面を灰色の体が滑って、俺の右脇へ抜けていく。
抜けなかった。
盾が右下へ引っぱられた。滑り落ちるはずの体が、盾の右の縁で止まっている。前脚の爪が木の縁に掛かって、後ろ脚は床に着いて踏ん張っていた。幕を登った時と同じ掛け方だった。
流したはずの物が、まだ盾に付いている。腕が下がる。下がれば胸が空く。引けば、こいつは縁を伝って盾の内側へ上がってくる。
「右の前脚が縁に掛かっています。左の前脚は浮いています。後ろ脚は二本とも床です」
背中からノアの声がした。
掛かっているのは、右の前脚だけ。
左足はそのまま残した。右足を半歩前へ出して、盾の右の縁を外へ倒した。盾は胸の前から動かさずに、縁の向きだけを変える。爪の下から、木の縁が逃げた。
爪が外れて、灰色の体が俺の右の床へ落ちた。柱とは反対側だ。頭は外を向いていた。
その後ろに、カティアがいた。
塊が盾に残っている間に、カティアは床に踏ん張った後ろ脚の側へ回っていた。剣が一度光った。後ろ脚の付け根。脚が一本、動かなくなって、塊が横に傾いた。カティアは止まらなかった。盾で塊の頭を床へ押しつけて、剣を首に当てて、引いた。
音は、短かった。
塊は一度だけ脚を伸ばして、伸ばしたまま動かなくなった。
*
誰も、しばらく動かなかった。
背中で歯車が回っている。青が点いて、消える。板の道の上には何もいない。幕は壁に寄ったまま。床の上に、灰色の塊が一つ。朝に見た小さいのが頭ほどだったとして、これは胴だけで俺の盾ほどある。脚を伸ばした長さは、俺の背より長かった。
「翔太。腕」
カティアが言った。剣を下ろさないまま。
「動きます」
動かした。盾を持ち上げて、下ろした。痛い。でも動く。盾の表面を見た。三本だった筋が、何本になったか分からなくなっていた。
「ノア。フィオナ」
「無事です」
「……はい。無事です」
フィオナの声は一拍遅れた。柱の陰で、両手を膝に置いている。綱を引いた手だ。手のひらが赤かった。
「フィオナさん。手」
「大丈夫です。綱が古くて、ささくれていました。それだけです」
フィオナは手のひらを一度握って開いた。それから、俺の盾を見た。
「翔太のほうが、ひどいです」
「盾です。俺じゃない」
「盾でよかった」
カティアが剣で塊の脚を突いて動かないのを確かめ、寄せた幕の向こうの板の道を端から端まで見上げた。
「いない」
カティアが言った。
「翔太がそこを空けなかったから、あれは外へ落ちた。私は脚だけ見ていればよかった」
カティアは剣を拭いて鞘に戻した。俺が返す言葉を探している間に、鞘の音がした。
「マスター」
ノアが柱の陰から立ち上がって俺の隣に来た。盾を見ている。筋を数えている目だった。
「数えなくていい」
「数えていません。……七本以上です」
「数えてるじゃないか」
ノアは答えなかった。でも俺の盾の縁に手を置いて、一度だけ押さえた。
*
「箱を取る。今のうちに」
カティアが保管庫の扉を見た。半分開いたまま。
箱は角材の隣の床に、置いた時のままあった。
フィオナが鞄から縄を出した。手のひらが赤いので、ノアが代わりに縛った。箱の上を二度回して、横で結ぶ。
「持てます」
「持たない。ノアとフィオナで、出る時に」
ノアとフィオナが箱を柱の根元まで運び、俺は背景板の縁に戻った。カティアは寄せた幕の向こうを見ていた。
長かった待ちは、終わる時は勝手に終わった。縁の灯りが順に消えて、床が止まり、隙間の向こうに客席の通路が見えた。
「渡る。箱の二人を真ん中」
渡った。
客席の通路を上がる間、拍手が鳴った。透ける客が、朝と同じ顔で手を叩いている。俺は頭を下げなかった。でも一度だけ、客席を見た。
この人たちは本物の月を見た。俺たちは裏から見て、今は月の半分を箱に入れて運んでいる。残りの半分は、入口の小部屋の棚の上だ。
入口の広間の左の小部屋。棚の上の一台目。ノアが蓋を指一本分開けて確かめた。
「一台」
「二台」
俺が続けた。ノアが俺を見て、今度は口を押さえなかった。
「ここから外までは一人一台。ノアは二台目、フィオナは一台目。私と翔太は手を空ける」
カティアが言った。フィオナが棚の箱を抱えた。手のひらを箱の底に当てて、指に力を入れないようにしている。
「持てます。重くはないです」
カティアが先に広間へ出た。朝に爪の跡を見た壁。天井の割れ目。順に見て、それから扉へ目を戻した。俺は後ろで、客席の扉のほうを見ていた。何も出てこなかった。
劇場の入口の扉を出る時、拍手がもう一度鳴った。朝に頭を下げたのと同じ拍手。
振り返らなかった。でも、聞いていた。
空はまだ明るかった。日は低い。宿場まで、箱を二つ抱えて歩く。外に出てからは、俺とカティアも一台ずつ代わった。腕は痛い。でも、この二つがオルネさんの舞台でどう見えるのかを考えると、歩く分には足りた。
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