第2章 昼の星
朝の浴場は開いていた。
扉が内側に開いていて、昨日の札は裏返しで、朝からとだけ書いてある。坂を上がりきった四人の前に丸い屋根の石の建物が昨日と同じ形で立っていた。違うのは扉と、中から出てくる湯気と、湯気と一緒に出てきた髪の濡れた年寄りの男だった。男は俺たちを見て、入り口の奥を指した。
「金はそこ。着替えは左と右。湯は奥。中は暗いから、走るな」
それだけ言って坂を下りていった。
入浴料は一人分ずつ払った。ノアは自分の分を自分で出して、手帳を入り口の棚に預けた。濡れるから、と言った。
着替えは男が左で女が右。湯着が棚に積んであった。厚い麻の膝までの筒みたいなやつで、肩の紐で吊る。俺は一枚取って広げて、しばらく見た。
正直に言う。浴場と聞いた時から、俺はいろいろ考えていた。四人で入るとはどういうことか。ノアはどんな顔をするのか。カティアさんは。フィオナさんは。考えるたびに自分で自分を止めて、止めた分だけまた考えた。四日の街道で考える時間はたっぷりあった。
結論から言うと、麻は厚かった。
脱いだ物を棚に入れ、湯着を着て奥の戸を押した。
暗かった。
足元に湯の縁が白く見えるだけで、あとは何もない。戸を閉めると後ろの光も消えて、俺は立ったまま目が慣れるのを待った。水の音が低く響いている。昨日、扉の外で聞いた音だ。
「マスター」
右のほうから声がした。右の戸から入ってきたノアだ。暗くて顔は見えないけど、声の高さで分かる。
「ここだ」
「はい。今、そちらへ行きます」
「見えてるのか」
「見えません。声のするほうに行きます」
湯の中を歩く音が近づいてきて、俺の横で止まった。それで二人で湯の縁に腰を下ろした。湯は浅くて、座ると腰までだった。温い。冬の水とは違う、体の芯に届く温さだった。
「上を見てください」
ノアが言った。俺は上を見た。
星があった。
天井一面に白い光の点が散っていた。大きいのと小さいのがある。強いのと弱いのがある。並び方は、空の星と同じようで、同じじゃない気もした。目が慣れるほど数が増えた。最初は十か二十だと思ったのが、数えるのをやめる頃には数えられない数になっていた。
俺は口を開けていた。閉じたのは、ノアが隣で息を吸ったからだ。
「来ました」
「来たな」
それだけだった。ノアはもう何も言わなかった。俺も言わなかった。言いたいことはあったけど、天井を見ているほうが先だった。
左のほうで湯が動いた。カティアさんの声がした。
「温い」
冬の間ずっと水が冷たかったと言っていた人の声だった。カティアさんはそれ以上言わず、湯が大きく動く音がして、それから静かになった。
「翔太。ノア。見てる?」
フィオナさんの声は天井に向いていた。
「あの石、全部が同じ光り方じゃない。右のほうの、少し青いの。あれは別の種類の石だと思う」
言われて右を見た。確かに白い中に青みがかったのが混ざっている。言われなければ分からなかった。言われてからは、青いのばかり目についた。
「フィオナさんは、青く光る石の種類を知っているんですか」
「知らない。今、見つけた」
フィオナさんの声が笑っていた。
ノアは天井を見たまま動かなかった。濡れた髪が頬に貼りついているのが、目の慣れた今なら横顔の輪郭だけで分かった。手帳は入り口の棚にある。ノアは手ぶらで、天井を見ていた。
どのくらいいたか分からない。天井を見ている間、時間の数え方が分からなくなっていた。
「出ます」
ノアがそう言って立ったので、俺も立った。
戸を押して着替えの間に出た。明るかった。壁の高いところの窓から昼の光が入っていて、目が痛かった。着替えて入り口の棚で手帳を受け取って、外に出た。
昼だった。
当たり前なのに、空を見上げて俺は昼だと思った。青い空に雲があって、坂の下に沈み街の水が光っている。背中で丸い屋根の建物が水の音を立てている。今、あの中は星だ。ここは昼だ。両方が同時にあることに頭がついていかなかった。
ノアは外に出て空を見て、それから丸い屋根を見た。
「昼です」
「昼だな」
カティアさんが出てきた。髪を縛り直しながら坂を下りる方向を見ていた。フィオナさんは最後だった。出てきてすぐ丸い屋根を振り返り、屋根の上のほうを指でなぞるように見た。
「石が屋根の外まで出てるのか、中だけなのか。外からじゃ分からない」
「中だけだと思います」
ノアが答えた。
「天井に、継ぎ目がありました。石は、継ぎ目の間に埋めてありました」
「見えたの」
「目が慣れてから、見えました」
フィオナさんはもう一度屋根を見た。
「次は、継ぎ目を見る」
次、と言った。俺は何も言わなかったけど、聞こえていた。
*
坂の途中の菓子店は、昨日と同じ窓だった。
今日は四人で立ち止まった。年寄りの女主人が窓の向こうで俺たちを見て、昨日の二人だという顔をした。
ノアは三日月を一つ。俺は星を一つ。カティアさんは丸いのを二つ買って、一つはその場で食べた。フィオナさんは星を取って砂糖を指で払い、払った砂糖を見て、またかけるように指をこすった。
「昨日はどっちを食べたの」
フィオナさんがノアに聞いた。
「三日月です。苦いほうです」
「今日も」
「はい。好きなので」
石垣に四人で並んだ。昨日二人で座った石垣だ。四人だと端から端まで埋まった。
ノアは三日月を食べ終えてから手帳を開いた。昨日の頁。菓子店、坂の途中、三日月と書いてある横に新しく書いた。
俺は横から見た。隠さなかったので見た。
浴場。
その下に、マスター、カティアさん、フィオナさん。
それだけだった。星の数も湯の温さも青い石も書いていない。誰と行ったか、だけ。ノアは書き終えて、手帳を閉じた。
「それだけか」
「はい。あとは、覚えています」
覚えています、と言った。手帳に書く人が、書かないほうを選んだ。俺はそれ以上聞かなかった。
*
帰りは、カティアさんが別の道を選んだ。
「宿の人が、下の道を回れば街を一周できると言っていた。坂が少ない」
坂が少ないという一言で、四人の意見はまとまった。
下の道は上街の縁に沿うように回っていた。右手に沈み街の水、左手に石の壁。壁が切れたところで、急に広くなった。
円い場所だった。
円い床を囲む段がすり鉢みたいに上へ上がっていて、段の半分は新しい石で、もう半分は古い石のままだった。古いほうは段が崩れていて、崩れたところから先に縄が張ってあり、縄には立入禁止と書いた木の札が下がっている。新しい石の段は平らで座れるように削ってあった。床のほうも円の真ん中は新しい石で張り直してあって、縄の向こう側だけが古い床のままだった。
「闘技場」
フィオナさんが言った。
「前の人たちの。直して、使ってるんだね」
床の上に人がいた。五、六人で、盾を持っていて、木剣を持っているのもいた。打ち合ってはいない。床の端から端まで歩いて、途中で止まって足で床を踏んでいる。踏んで、頷いて、また歩く。
一人、耳のある男がいた。頭の上に短い三角の耳が二つ、尻に短い尾がある。犬みたいな。盾を背負って床の継ぎ目のところで膝をつき、指で継ぎ目をなぞってから立って、同じところを踵で踏んだ。
「獣人の人だ」
フィオナさんが声を落とした。
「この辺りの人かな」
俺は耳より盾を見ていた。背負っている盾は丸くて、縁の鉄が黒かった。汚れじゃない。使い込んで手入れしてある黒だった。
縄の手前の柱に、紙が貼ってあった。
盾の試し。明後日より二日間。盾持ち一対一、三本先取。登録は上街の組合窓口。
俺は二度読んだ。
「下見だな」
カティアさんが床の人たちを見て言った。
「出る人が、床を確かめてる」
床を踏んでいた男がこちらを見た。耳の男じゃない。別の背の高い男だった。見て、特に何もせずまた床を見た。俺たちは観客でも出場者でもなく、ただ道を通っている四人だった。
「行こう」
俺が言った。
*
食堂は、闘技場の下の道を少し行ったところにあった。
昼飯を食べる店で、長い机に大皿が並んでいる。壁に料理の名と値が書いてあって、皿と書いてあるだけで人数が書いていない。
「四人だから四皿か」
俺が言うと、隣の席から声がした。
「それは、三人で一皿だ」
振り向いた。耳の男だった。闘技場で膝をついていたあの獣人だ。盾は椅子の脇に立ててある。もう料理が来ていて、大皿を一人で前にしていた。
「四人なら二皿で余る。一皿と、あっちの小さいのを一つ。それで足りる」
「……ありがとうございます」
「旅の人か」
「はい。昨日着きました」
「浴場か」
「はい」
「いい時に来た。春は湯が一番温い」
男は自分の皿に戻った。俺は言われた通り、一皿と小さいのを頼んだ。来てみたら本当にそれで四人分だった。多すぎず、足りなくもなく。
「あの」
俺が言うと、男は顔を上げた。
「闘技場の。明後日の」
「出るよ」
男はすぐ答えた。隠すことでもないという顔だった。
「オルダン。この辺りで護衛をしてる。春になるとあれに出る」
「翔太です。……出るのは、どういう人ですか」
「出たい人だ」
オルダンは、大皿の最後のひとすくいを口に入れた。
「盾を持って、組合で手続きをして、木剣を振り回さないって約束できれば誰でも。見るなら新しい段のほうに座れ。古いほうは縄の向こうだ」
それだけ言って立ち上がった。盾を背負う時、尾が一度椀の縁を払った。
「湯、もう一度入るなら夕方がいい。人が少ない」
オルダンは出ていった。
カティアさんが、出ていった戸のほうを見ていた。
「盾の黒いの。見た?」
「見ました」
「縁の鉄があそこまで黒くなるのは、何年も毎日使って、毎日拭いた盾だ。翔太のも、そうなる」
それだけ言って、カティアさんは皿に戻った。
ノアは、食べながら俺を見ていた。見ているのは分かった。俺は皿を見ていた。
*
宿へ上がる道で、俺は一度止まった。
闘技場じゃない。組合の窓口の壁だった。同じ紙が貼ってあった。
カティアさんとフィオナさんは先に行った。ノアは、俺の横で止まった。
俺は紙を読んだ。三度目だった。
右の手が肩に行った。肩の紐を探した。盾は宿にある。朝、浴場に行くのに置いてきた。手は紐のない肩を一度つかんで、下りた。
「マスター」
「ん」
「予定にありません」
ノアの声は、菓子店の時と同じ高さだった。
俺は紙を見たまま、言おうとした言葉を一度飲んだ。言ったらノアが何を見せるか、だいたい分かっていた。
「分かってる」
そう言って、俺はもう一度読んだ。今度は下の小さい字まで。盾は検査を通れば自分の物を使える。
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