第2章 初仕事は泥まみれ
ベルナに着いたのはその日の夕方だった。
石壁に囲まれた町は思っていたより大きく、門の前には荷車が列を作っていた。基礎支援でもらった硬貨で安宿に部屋を二つ取り、俺たちは屋台の煮込みを食べて早めに眠った。ノアは煮込みの豆を一粒ずつ確かめるように食べていて、最後に「これは好きです」と言った。
そして翌朝、冒険者組合の扉を開けた。
天井の高い広間に長い受付台と掲示板が並んでいる。朝から剣を下げた男や弓を背負った女、大きな袋を抱えた少年が行き交い、どこを見ても俺の想像していた冒険者組合そのものだった。
「すげえ……!」
「マスター、口が開いています」
「開くよこれは!!」
受付の女性は手慣れた様子で、俺とノアの名前を帳面に書き込んだ。
「お二人ともF級からの登録です。F級は組合の貸し出し装備を使えますので、必要なら奥の窓口へどうぞ。返却時に破損があれば修理代をいただきます」
貸し出し装備。
その言葉だけで俺の心臓は昨日の猪の時より速く打った。
奥の窓口で渡されたのは刃こぼれを研ぎ直した片手剣と、木に革を張った小盾、それに使い込まれた革の胸当てだった。どれも誰かのお下がりで、剣の柄には前の持ち主の手の形がうっすら残っている。それでも腰に剣を下げた瞬間、自分が一段階強くなった気がした。
「どうだ、ノア」
「剣帯の留め具が一つずれています。歩くと鞘が膝に当たると思います」
「……直します」
留め具を直して掲示板の前に立つと、一枚の依頼書が目に飛び込んできた。
《雨待ちの庭にて薬草採取。トルカ宿場経由の遠征。D級以上の同行を推奨》
「ノア、これ」
「はい。昨日見た、あの光る場所のことだと思います」
受付へ戻って、昨日丘の上から塔と光る雨が見えたことを話すと、受付の女性はうなずいた。
「ええ、それが雨待ちの庭です。天気のいい日は町の外の丘からよく見えますよ」
あの塔と光る雨にはちゃんと名前があったのだ。
庭までは歩いて二日ほどかかり、途中のトルカという宿場で一泊する必要があるという。遺跡の中には住み着いた生き物もいて、登録したばかりのF級が行く場所ではないと、はっきり言われた。
「まずは近場の仕事で組合のやり方に慣れてください。新人の方にはこちらがおすすめです」
差し出された依頼書にはこう書かれていた。
《東の農場にて跳ね牙の生け捕り。一匹。依頼主の希望により殺傷不可。捕獲箱貸し出しあり》
俺は依頼書と腰の剣を交互に見た。
「……生け捕りって、剣は」
「使いません。捕まえた跳ね牙は組合の係が森へ放しに行きます」
剣を下げて一段階強くなった気分が静かにしぼんでいった。
*
組合で借りた捕獲箱を背負い、東の農場へ向かった。町の門を出て、畑の間を半刻ほど歩いた先だ。
昨夜の雨で畑はぬかるんでいて、歩くたびに靴の底に土がまとわりつく。依頼主の農夫は日に焼けた大柄な男で、俺たちを畑の北側へ案内してくれた。
畑の北の端には腰の高さほどの古い石垣が延びている。その手前に葉物の畝が何列も並び、石垣に近い列ほど葉がかじられていた。石垣の東の端には納屋の壁に沿って薪が高く積んである。
「毎晩のように石垣のほうから来て、葉っぱを食い荒らすんだ。朝のうちにも顔を出すことがある」
俺が背負ってきた捕獲箱を、農夫は慣れた手つきで地面に下ろした。底のある木の箱で、入口に落とし扉が付いている。扉を棒で持ち上げておき、紐を引けば扉が落ちる仕組みだ。
「餌はこれを使ってくれ。兎みたいなもんだから、好きだろう」
渡されたのは太い人参が三本だった。
農夫が畑仕事に戻ると、俺は胸を張った。
「任せてくれ、ノア。こういうのは知ってる」
罠の仕掛け方なら、昔読んだ漫画で何度も見た。獲物の通り道に箱を置き、餌を中に入れて、離れた物陰から紐を引く。俺は石垣のすぐ手前、葉が一番かじられている場所に箱を据え、入口の扉を棒で持ち上げて奥に人参を置いた。紐を伸ばして薪の山の陰まで下がり、ノアと並んで身を屈める。
ノアは石垣と畝のあたりをじっと見ていた。
「マスター。足跡がほとんどありません」
「昨日の雨で流れたんじゃないか?」
「そうかもしれません。少し見ていてもいいですか」
「いいけど、たぶんすぐ来るぞ」
すぐには来なかった。
薪の陰で膝を抱えているうちに、靴の中まで湿ってきた。日が高くなり、畑の向こうで鳥が鳴く。俺が三回目のあくびを噛み殺した時、ノアが俺の袖を引いた。
「来ました。石垣の上です」
石垣の上を何かが跳ねていた。
兎より一回り大きく、後ろ脚が長い。灰色の毛に覆われた体の下顎から、小さな牙が二本突き出ている。そいつは石垣の上を軽やかに跳ねて渡り、箱の真上まで来ると、首をかしげるように人参を見下ろした。
よし、そのまま降りて箱に入れ。
跳ね牙は降りなかった。石垣から箱の屋根へぽんと跳び移ったのだ。
小さな体でも、跳び乗った勢いは十分だった。支えの棒が外れ、入口の扉がばたんと閉じる。中には人参しか入っていない。跳ね牙は閉じた箱の屋根を蹴って、もう一度石垣の上へ戻った。
「あっ、待て!」
俺は薪の陰から飛び出した。
二歩目でぬかるみに足を取られた。三歩目は踏み出せなかった。気がついた時には、俺は畝の間の泥に顔から突っ込んでいた。
顔を上げると、跳ね牙が石垣の上からこちらを見ていた。それから長い後ろ脚で一跳びして、石垣の向こうへ消えていった。
「マスター、お怪我は」
「……ない。プライド以外は」
口の中が土の味だった。
*
井戸の水で顔を洗いながら、俺はがっくりと肩を落とした。最初の仕事が罠に失敗して泥に顔を突っ込むことだなんて、漫画では見たことがなかった。
「マスター。一つ、分かったことがあります」
隣でノアが言った。箱を開けて取り出したらしく、手に人参を持っている。
「あの跳ね牙は今日は一度も地面に降りませんでした。石垣の上を渡って、箱の屋根に跳び乗って、また石垣へ戻りました。足跡が少なかったのは雨のせいだけではないと思います」
「高いところが好きってことか」
「好きかどうかまでは分かりません。ですが、石垣を足場にして動いているのは確かです。それと、これです」
ノアは人参を軽く振った。
「この畑でかじられていたのは石垣近くの葉物の外側の葉です。人参を食べるかどうかは分かりませんが、実際に食べているのはあの葉だと思います。それに、石垣の上から首を伸ばして届く外葉はもうほとんど残っていませんでした」
言われてみれば、農夫も兎みたいなものだと言っただけだ。人参を食べるところを見たわけじゃない。
俺は泥だらけの袖を見下ろして、それから石垣と畑を見渡した。
「じゃあ、こうするか。箱を石垣から離して、跳び乗れる高い場所がないところに置く。餌はかじられてた外葉にする。届く葉がもうないなら、降りてくるしかない」
「はい。それから、箱までの間に外葉を一枚ずつ置いて、道を作るのはどうでしょう。石垣から降りてこないと届かないように」
「降りたら、そこはぬかるみだ」
さっき俺が顔から突っ込んだ泥である。
「跳ねる力が強くても、柔らかい地面では踏ん張りが利きにくいはずです。マスターが走れなかったのと同じように」
「そこは同じって言わなくていい」
農夫に断って、収穫の時に外した柔らかい外葉を籠に一杯もらった。箱は石垣から十歩ほど離れた畝の間、周りに積み石も杭もない泥の真ん中に据え、石垣の下から箱まで外葉を点々と置いていく。最後の一枚は箱の奥だ。
紐を伸ばして、今度は薪の山ではなく畝の端に伏せた。箱までの間に遮るものがなく、紐がまっすぐ張れる場所だ。
待つ時間はさっきより長かった。
昼を過ぎて腹が鳴り、伏せた胸当ての内側まで冷たくなった頃、石垣の上に灰色の影が戻ってきた。
跳ね牙は石垣の上で止まり、下の外葉を見下ろした。しばらく鼻を動かしてから、ひょいと地面へ降りる。一枚目の葉をくわえ、二枚目へ跳ぶ。泥に着地するたびに、後ろ脚がわずかに沈んだ。
三枚目、四枚目。跳ね牙は葉を追って箱へ近づいていく。周りを見回しても、跳び乗れる高い場所はない。
最後の一枚に向かって、跳ね牙が箱の中へ頭を入れた。
体まで入った。
俺は紐を引いた。
棒が外れて、入口の扉がばたんと閉じる。中で何かがばたばたと暴れ、箱が泥の上でがたがた揺れた。
「押さえる!」
俺は箱に飛びついて、両手で屋根を押さえ込んだ。中から跳ね牙が体当たりするたびに箱ごと泥の上を滑り、跳ねた泥が顔にかかる。それでも手は離さなかった。
やがて中の音が静かになった。
「……捕まえた」
「はい。捕まえました、マスター」
ノアが扉の留め金を下ろした。俺は箱を抱えたまま泥の上に座り込んで、長い息を吐いた。
服も胸当ても、たぶん髪まで泥まみれだ。格好よさとはまるで縁がない。それでも箱の中には確かに跳ね牙が一匹入っていた。
戻ってきた農夫は箱を覗き込んで、大きな手で俺の泥だらけの肩を叩いた。
「やるじゃないか! 外葉で釣るとは思わなかったな」
「でしょう!」
泥だらけのまま胸を張ると、農夫は俺の格好を上から下まで眺めて豪快に笑った。隣ではノアが口元を手で押さえていた。
*
組合に戻って跳ね牙を係の人の籠へ移すと、受付の女性は俺の姿を見て一瞬だけ眉を上げたが、何も言わずに完了の印を押し、報酬を二つに分けて台に置いた。
一人分は昨夜の宿代と夕食を払えば少し余るくらいの額だった。ノアは自分の分を受け取ると、両手でそっと包んだ。
「初めての報酬です」
「俺もだ」
多くはないけど、自分たちで捕まえて稼いだ金だ。
貸し出し装備を返しに奥の窓口へ行くと、先客がいた。
背の高い女の人だった。短く切った赤茶色の髪に、使い込まれた盾を背負っている。年は俺より少し上だろう。窓口の男と依頼の話をしていたその人は、振り返って俺を見るなり目を丸くした。
「うわ、すごい泥」
「……初仕事だったもので」
「何の仕事?」
「跳ね牙の生け捕りです」
「ああ、東の農場の。あれ、なかなか捕まらないって聞いてたけど」
その人は俺が抱えている空の捕獲箱に目をやった。
「捕まえたんだ。やるじゃない」
さっきの農夫と同じ言葉なのに、胸の奥がくすぐったくなった。ただ、せめて泥を落としてから会いたかったし、もう少し格好いい返事も用意しておけばよかった。
その人の目が俺の左腕に移った。
「でも、その盾。紐、緩いまま着けてたでしょ」
「え」
「腕の外側に回っちゃってる。それだと、いざ構えた時に盾が逃げるよ」
見下ろすと、正面にあるはずの盾が腕の外側へ半分ほど回り込んでいた。今日は一度も構えていないのに、一目でそこまで分かるのか。
「カティア。D級の剣盾使い」
その人は軽く手を上げた。
「朝なら組合の裏の訓練場にいることが多いよ。新人向けの稽古もやってる。安いけど、ただじゃないからね」
「鳴瀬翔太です。こっちはノア」
「よろしくお願いします」
カティアは俺とノアを見比べて、ふっと笑った。
「じゃあね、泥の新人くん」
彼女が去った後も俺はしばらく盾の紐を見ていた。この盾も腰の剣も結局今日は一度も構えていない。昨日、猪の前で膝が震えたことを思い出した。
庭へ行くにはたぶんこのままじゃ足りない。
「ノア。明日の朝、訓練場に行ってみようと思う」
ノアは俺の顔を見て、それから泥で固まった前髪に目を移した。
「はい。その前に、お風呂ですね」
「……そうだな」
服の泥はもう乾いてぱりぱりになり始めていた。
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