第1章 相棒と最初の救助
気がつくと白い部屋で椅子に座っていた。壁も床も天井も継ぎ目のない白で、目の前の机には薄い光の板がいくつも並んでいる。
「鳴瀬翔太さん。ここまでの事情は先ほどご説明した通りです」
姿の見えない声が役所の窓口みたいな落ち着きで続けた。
「向こうの世界では衣服と靴と水、当面の生活資金、それと現地語の読み書きを基礎支援としてお渡しします。そのうえで特典を一つお選びください」
来た。
ネットで何百回も読んできた、あの場面だ。俺は身を乗り出して光の板を眺めた。《剛力》《頑健》《魔力増幅》《鑑定眼》と、どれも強そうな名前が並んでいる。そして一番端の一枚にはこう書かれていた。
《AIの相棒――観察、記憶、推論に優れた人格を持つ同行者》
「これ、相棒って人なんですか?」
「実体を持つ独立した人格です。食事も睡眠も必要で、あなたの所有物ではありません。また、向こうの世界の知識は持っていません。土地のことも魔法のことも、現地で学ぶことになります。通信網のようなものにもつながりません」
「つまり、一緒に覚えていく相手ってことか」
「その理解で結構です」
俺は腕を組んで考えた。《剛力》は強いけど、知らない土地の常識までは教えてくれない。《鑑定眼》で物の名前が分かっても、使い方は結局自分で考えるしかない。その点、相棒なら初めて見るものでも一緒に頭を使ってくれる。何でも知っている便利道具じゃなくても、そういう味方がいるのは大きい。
理屈としては完璧だ。
「ちなみに、その相棒の見た目って」
「成人女性の外見です」
成人女性。AIの相棒。まだ何も決まっていないのに、頭の中ではもう銀髪の美少女がこちらへ微笑んでいた。俺の想像力だけが全力疾走していた。
「これにします!!」
「承りました。では、よい旅を」
言い訳をさせてほしい。理屈はちゃんと先に考えた。美少女と冒険できたら最高だという気持ちが背中を思いきり押したことは、否定しないけど。
白い部屋がほどけるように消えた。
*
頬に風が当たって、草と土の匂いがした。目を開けると、なだらかな丘の上に轍の残る一本道が延びている。空は高く、雲がゆっくり流れていた。
「おお……!」
「おはようございます、マスター」
すぐ隣から澄んだ声がして、振り向いた俺は固まった。肩の下まである銀白の髪が風に揺れて、その間から透き通るような青い目がこちらを見ている。落ち着いた色の旅装を着て背筋をまっすぐ伸ばしたその人は、俺と同じか少し上くらいに見えた。
想像より、ずっと美人だった。
「私はノアです。本日からマスターに同行します。よろしくお願いします」
「よ、よろしく! 鳴瀬翔太です! ショウタでいいよ!」
「承知しました、マスター」
「聞いてた!?」
「はい。ですが呼び慣れておきたいので。お嫌でしたら変えます」
ノアは首をかしげた。からかっているのか本気なのか、表情からはまだ読めない。嫌かと聞かれれば、別に嫌ではなかった。むしろ顔が熱い。俺は咳払いをして話を変えた。
「じゃあ、まずは何ができるか試してみようか。この道、どっちに行けば町があると思う?」
ノアは足元にしゃがみ、轍を指でなぞった。
「蹄の跡がどれも坂の下を向いています。轍も深いので、重い荷を積んだ荷車が下っていったようです」
「おお、それっぽい!」
「ありがとうございます」
嬉しそうに立ち上がったノアと一緒に、俺は轍に沿って丘を下り始めた。
百歩も行かないうちに、坂の下から重い物が崩れる音が響いた。木の軋む音と荷の転がる音が続き、その後に人の悲鳴が上がった。
「今の!」
「坂の下です。荷車だと思います」
俺たちは走り出した。
*
坂を下りきった道の上で、荷車が一台横倒しになっていた。片側の車輪が外れて道の端に転がり、投げ出された木箱から赤い根菜や丸い芋がこぼれて、道一面に散らばっている。倒れた荷台の手前、俺たちが下りてきた坂の側には、人の背丈ほどもある大きな岩が道端に座っていた。
そして車輪の外れた側の端近く、荷台の縁の下に一人の女性が左足を挟まれていた。
四十歳くらいだろうか。日に焼けた腕で地面を押しているが、荷台と崩れた木箱の重みで足が抜けないらしい。
「大丈夫ですか!」
「あんたたち……! うちの子が巡回を呼びに行ったんだ。この先の詰め所にいつも人がいるから」
道の先を見ると、荷車から外したらしいロバにまたがった少年が、次の坂を駆け上がっていくところだった。
「マスター。荷台の向こうの茂みです」
ノアの声が低くなった。道の反対側の藪が揺れて、灰褐色の鼻先が突き出る。ずんぐりした胴体に短い脚。俺の知っている猪より一回り大きく、肩の毛は鎧の板みたいに盛り上がっていた。
猪は俺たちに目もくれず、道の根菜に鼻を突っ込んで食べ始めた。
「襲ってはこない、のか?」
「今は食べ物に夢中のようです」
ほっとしたのは一瞬だった。道の根菜を食べ尽くした猪は、荷台の向こう側へ回り込んだ。倒れた荷台の下には、芋の詰まった木箱がまだ一つ挟まっている。猪はそこへ鼻をねじ込み、荷台ごとぐいぐい押し始めた。
荷台がぎしりと揺れた。
「ああっ!」
女性の顔が歪む。荷台が揺れるたびに、挟まれた足へ重みがかかっているのだ。
剣なんて持っていない。持っていたとしても、あの鎧みたいな毛の猪と戦える気はしない。でも巡回が来るまで待っていたら、あの人の足がもつかどうか分からない。
「マスター。荷台を少し持ち上げれば、あの方は足を抜けると思います。起こす必要はありません」
「でも相当重いぞ、あれ」
「てこを使いましょう」
ノアは女性のそばに膝をついた。
「すみません。この荷車に長くて丈夫な棒はありますか」
「荷台の横に幌を張る樫の棒が差してある。金具を外せば抜けるよ」
女性は痛みに顔をしかめながらも、はっきり答えた。荷台の側面には確かに太い棒が二本留めてある。俺は金具を外して一本を引き抜いた。背丈より長くて、ずっしりと重い。これなら折れそうにない。
「差し込む場所は荷台の縁から指三本分内側です。そこなら板ではなく枠に掛かります」
「指三本って、誰の指で!?」
ノアは自分の手を見下ろした。
「……私の指です。失礼しました。ここです」
ノアの指が縁の一点を押さえた。そこへ棒の先を押し込もうとして、俺はすぐに行き詰まった。縁と地面の隙間が狭すぎて、棒が入らないのだ。支点にしようと拾った石も、地面が柔らかくてぐらぐらする。ノアが両手で石を押さえてくれたが、俺が棒に体重をかけた途端に石ごと横へ滑り、ノアもつんのめった。
「すみません。押さえきれませんでした」
ノアは赤くなった手のひらを見て、悔しそうに眉を寄せた。知識はあっても、手が慣れていないのは俺と同じらしい。
「その車輪」
女性が道の端に転がった車輪を目で示した。
「外れた側の車軸の下なら、少し浮いてる。棒はそこから入るはずだ」
ノアがすぐに荷台の端へ回り込み、身を低くして覗いた。
「入ります。車軸の受け金の下に棒一本分の隙間があります。支点はあの車輪を寝かせて使いましょう。幅が広いので、柔らかい地面でも沈みにくいはずです」
外れた車輪を転がしてきて平らに寝かせ、その上に棒を渡す。車軸の下へ先端を差し込むと、今度は手応えがあった。棒の先が枠を噛んで、ぴたりと止まる。
これなら上がる。
そう思った時、荷台がまた大きく揺れた。向こう側の猪が苛立ったように鼻息を荒くして荷台を押している。今持ち上げても、猪が押せば荷台はまた揺れて落ちてくるかもしれない。
「ノア。あいつを何とかできないか」
「観察した範囲ですが、あの猪は私たちを相手にしていません。道の根菜も転がった方向へ順番に移りながら食べていました。今は荷台の下の箱が一番近いので、そこを押しています」
「つまり、もっと取りやすい場所に餌があれば」
「そちらへ移る可能性が高いです」
道の先を見ると、荷台から十数歩離れたところに蓋の割れた木箱が一つ転がっていて、中にはまだ芋が残っている。俺は足元にこぼれていた芋を二つ拾い上げた。
「ノア、棒を頼む。どこに体重をかければいいか分かってるのはノアだ。俺は道の先側の端から、あいつを箱へ誘う」
「分かりました。マスターは荷台の陰から出ないでください。猪との間に必ず車体を挟んでください」
「了解」
「芋は箱の向こう側へ。猪が箱へ向かう道筋と、マスターの戻り道が重ならないようにしてください」
「了解!」
ノアが棒の端を握り、俺は荷台の端へ回った。倒れた車体の陰に身を屈めると、板の隙間から猪の灰褐色の背中が見えた。間近で見ると本当に大きくて、膝が勝手に震え出す。
動物園以外でこんな生き物をこの距離で見たことはない。でも数歩先では、あの人が今も痛みに耐えている。
俺は車体の陰から腕だけを出して、一つ目の芋を猪の鼻先へ放った。芋が荷台から少し離れた地面に落ちて転がると、猪の耳がぴくりと動き、鼻をひくつかせて荷台から頭を離した。
がりがりと芋を噛む音がする。
「次!」
二つ目は思いきり遠くへ。道の先の木箱を越えて、その向こうへ落ちるように投げた。
芋を食べ終えた猪が顔を上げ、ほんの一瞬こちらを見た気がした。心臓が跳ねる。だが猪はすぐに鼻先を地面へ戻し、転がった芋のほうへ歩き出した。そして途中にある蓋の割れた木箱へ、鼻を突っ込んだ。
俺は車体の陰を伝って、手前の大岩の側へ戻った。
「ノア、今だ!」
「はい!」
ノアが棒の端に体重を預けた。車輪の支点が軋み、荷台の縁がほんの少し浮き上がる。
「上がりました! 今です、足を!」
「く……っ!」
女性が両腕で地面を押した。俺は駆け寄ってその脇に手を入れ、一緒に引っ張る。
「抜けた!」
ノアが棒から手を離すと、荷台がどすんと地面に戻った。道の先では猪がまだ木箱に頭を突っ込んでいる。
「あちらの岩の陰へ」
ノアが示したのは最初に見えていた大岩だった。俺とノアで女性の両肩を支え、三人でゆっくりと移る。女性は足を引きずっていたが、自分の足で歩けていた。
岩陰に腰を下ろした途端、全身から力が抜けた。
「はあああああ……」
「助かったよ。骨は大丈夫そうだ。挟まれたところが痛いだけで」
女性の顔色はまだ悪かったが、声はしっかりしていた。見下ろした俺の手のひらは、土と汗でぐちゃぐちゃだった。
やがて次の坂の向こうから蹄の音が近づいてきた。馬に乗った男が二人と、その後ろからロバで戻ってくるさっきの少年だ。
「母さん!」
少年が駆け寄り、女性がその頭をくしゃくしゃに撫でた。巡回の男たちは状況を見るなり、一人が女性の足を診て、もう一人が道の先の猪へ慎重に近づいていく。木箱の芋を食べ終えた猪は、人数が増えたのを見ると鼻を鳴らして藪の中へ戻っていった。
「餌がなくなりゃ帰る。あいつらはそういうもんだ」
巡回の男は肩をすくめて、俺たちを振り返った。
「よく荷台を上げられたな。二人でやったのか」
「はい。ノアがてこで持ち上げてくれて」
「マスターが猪を引き離してくださったので」
声が重なった。顔を見合わせると、ノアがくすっと笑った。
「二人でやりました」
「……うん。二人で」
足はまだ震えていたけど、口元が緩むのは止められなかった。
*
女性の手当てを巡回に任せて、俺たちは散らばった荷を拾い集めるのを手伝った。女性は芋を分けてくれようとしたが、それは断った。代わりに、このまま道を進んで次の坂を越えればベルナという町があること、そこに冒険者の組合があることを教えてもらった。
「冒険者!」
「なんだい、急に元気になって」
「いえ、なんでも!」
本当にあるんだ、冒険者組合。
巡回の男たちに礼を言われて、俺たちは道の先へ歩き出した。次の坂を上りきったところで、隣のノアが自分の手のひらを見ていることに気づいた。棒を握り、石を押さえていた手だ。まだ赤い。
「痛む?」
「いいえ。少し驚いているだけです。手で押さえるのは思っていたより難しいですね」
ノアはそう言って手を下ろし、次はマスターの手で測れる言い方を考えます、と付け足した。俺は可笑しくなって、それから素直に思ったことを口にした。
「ノアを選んでよかった」
言ってから照れくさくなった。ノアはすぐには答えなかった。
「……はい」
返ってきたのはそれだけで、さっきまでのすらすらした返事とは違う声だった。
照れ隠しに顔をそらして遠くを見た俺は、そこで息をのんだ。
坂の向こう、ずっと遠くの山の手前に、細い塔が何本も立っていた。塔の間には段々になった緑の大地が積み重なり、その一番高いところで光がきらめいている。晴れているのに、そこだけ雨が降っているように見えた。光の帯は消えてはまた現れ、ゆっくりと形を変えていく。
「……なんだ、あれ」
「分かりません。塔と段丘に支えられた、高い場所のようです。雨にも見えますが、ここからでは何が光っているのか判別できません」
ノアは目を細めて、しばらくその光を見つめていた。
「人が作ったもの、なのかな」
「おそらく。ですが、何のためのものかは分かりません」
ノアにも分からない。
それがなぜか嬉しかった。分からないなら、行って確かめるしかない。あそこにはどんな景色があって、どんな花が咲いていて、昔の誰が何のためにあれを作ったんだろう。
「ノア」
「はい、マスター」
「いつか、あそこに行きたい」
口に出したら胸の奥がどきどきした。猪の前にいた時とは違う鼓動だった。
ノアは俺の顔を見て、それからもう一度遠くの光へ目を向けた。
「はい。私も見てみたいです」
風が吹いて、丘の草が波のように揺れた。遠くの段丘の上では、光る雨がまだ静かに降り続けていた。
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