第1章 持ち帰りたい光
舞台の上で、海が消えた。
さっきまで青く揺れていた布の波が、ただの灰色の布に戻っている。代わりに舞台の真ん中に立つ役者の顔が明るくなって、その人は台詞の途中で海のあった場所を振り返った。
「ほら。これなんだよ」
舞台の脇でオルネさんが言った。両手で抱えた箱のような道具を、客席の俺たちに向けて傾ける。
「役者を照らせば海が消える。海を照らせば役者が暗い。一台しかないからね」
劇団の稽古場は、組合から歩いて四半刻の古い倉庫だった。冬の入りの寒さが板壁の隙間から入ってきて、俺は上着の前を押さえていた。左腕はもう吊っていない。腫れは引いて、盾の紐を締めても痛まなくなった。
串焼きの屋台でカティアが眠る劇場の名を出してから三週間が経っていた。腕が治るまでの間、俺とノアは町の近くの小さな仕事を拾い、カティアとフィオナはそれぞれ別の組で短い依頼をこなしていた。四人で組合の掲示板の前に立ったのは昨日だ。紙はまだそこにあった。隅が反って、誰かが上から別の紙を貼りかけてやめた跡があった。
オルネさんの手の中の道具は、彩灯というらしい。箱の前面に色のついた板が差し込んであって、横の輪を回すと光の広がりが変わる。後ろに魔石をはめる口がある。さっきまで青い板で海を照らしていたのを、板を抜いて役者へ向けただけで、舞台の見え方がまるで変わった。
俺は口を開けたまま見ていた。
隣でノアが舞台と彩灯を交互に見ている。
「海と役者を同時に照らすには、あれが二台要ります。月も出すなら三台です」
「そう。うちにあるのは役者用の一台。あと二台、取ってきてほしい」
カティアは舞台を見ていた。でも見ているのは光じゃなかった。役者が二人、木の剣で打ち合いの稽古をしている。打つ、受ける、半歩引く。カティアの右手が膝の上で、受けるたびに小さく動いていた。
フィオナは逆に、舞台の光が当たっていない場所を見ていた。
「暗いところがあるから、明るいところが見えるんですね。全部照らすと、こうはならない」
「フィオナさん。あの波の布は、光が当たらない時は何色ですか」
「灰色です。さっき見えていた青は、板の色ですね」
「では海の色は、布ではなく板が持っているのですね」
ノアとフィオナは俺を挟まずに話していた。俺は間に座ったまま、二人の顔を順番に見た。
稽古が一区切りついた時、カティアが立って舞台の縁まで行った。
「今の受け。肘を下げたのは、わざと?」
「客席から剣が見えるように。本当の受けなら肘は上げます」
「見えるように、か」
カティアはその場で同じ動きを二度やった。肘を下げて受けて、半歩引く。役者が笑って、もう一度やって見せた。カティアは三度目をやった。
「カティアさん。仕事の話」
俺が呼ぶと、カティアは振り向かずに答えた。
「分かってる。あと一回」
役者が台詞を言い終えて、オルネさんが彩灯の魔石を抜いた。舞台が元の薄暗い倉庫に戻る。
俺はまだ、青い波のあった場所を見ていた。
*
依頼の話は、稽古場の隅の机でだった。
眠る劇場は、ベルナから南の街道を一日歩いた先にある。前文明の劇場で、劇団の先代がそこから今の一台を持ち帰ったという。
「客席の真ん中の通路を抜けて舞台に上がる。舞台の床は今でも回っていて、奥へ渡るには止まるのを待つ。先代は、待てない奴は行くなと言っていた。保管庫には使えそうなのが二台と、壊れたのがいくつか。それが先代の見た最後だから、今どうなっているかは知らない」
オルネさんは指で机に客席と舞台と保管庫を描いた。回る床のところで指を一度ぐるりと回した。
「一台持ち帰れば規定の報酬は出す。二台なら二台分。でもね、二台揃ったら海と月を一緒に照らせる。それをやりたいんだ」
オルネさんは机の上に、今使っている一台を置いた。これが見本だ。それから小さな袋から魔石を一つと、青い色板を一枚出した。試験用だという。板は予備で、向こうの物が割れていた時に差して確かめるためだ。
「後ろの口にはめて、横の輪を右へ回す。光が出たら、色板を抜き差しして色が変わるか。輪を戻して光が狭くなるか。この三つが動けば持ち帰る価値がある。光らない物や、輪が固まった物は置いてきていい」
「やってみな」
俺は彩灯を受け取った。両手で持つと思ったより重い。魔石を口にはめる。輪を右へ回す。
光が出た。
机の上に白い丸が落ちて、俺の手が震えているのが丸の揺れで分かった。板を差すと丸が青くなる。輪を戻すと丸が縮む。
「できた」
「できたね。じゃあ、次はノアさん」
ノアも同じ順番でやった。ノアの手は震えなかった。
「板は何枚ありますか」
「青と白と黄。保管庫の物にも入っているはずだが、割れていたら抜いてきていい。板だけなら作れる」
「月は黄ですか」
「黄に、白を少し重ねる。それは帰ってから見せるよ」
ノアは黄の板を灯りに透かして見ていた。
「契約の前に、一つ聞いていい?」
カティアが机に肘をついた。
「この依頼、組合の板に貼ってからひと月になる。なんで残ってる」
「冬に入ったからね。遠出する組が減った。日帰りじゃないし、先に行った組は中で拍手を聞いたと言って、何も持たずに戻ってきた」
「拍手」
「誰もいない客席でね。先代も聞いたそうだ。害はなかったと言ってたが」
カティアはフィオナと目を合わせた。フィオナはうなずいた。それが怖がる顔じゃなくて、面白がる顔だったのを俺は見た。
「宿場は往復とも同じところを使う。行きに一泊、劇場で一日、帰りに一泊。それでいい?」
「十分だ」
契約の紙に四人の名前を書いた。俺の番が来た時、ペンを持つ右手がさっきの彩灯のせいでまだ重かった。
稽古場を出ると、カティアが先に歩きながら肘を下げて右手を振っていた。フィオナが横で見ている。
「本当の受けじゃないんでしょう」
「違う。でも客席から見えるってのは、こういうことか」
カティアはもう一度振った。フィオナが口元を押さえた。
*
帰り道、俺はノアに聞いた。
「二台持ち帰ったら、盾買えるよな」
これは質問じゃなかった。買えると言ってもらうための聞き方だった。盾は今日も組合から借りる。借り賃を払って、傷をつけたら修理代を払って、帰ったら返す。剣は自分の物になったのに、左手には借り物がある。
ノアは歩きながら指を折った。
「二台分の報酬から、四人で分けます。マスターの取り分から、往復の宿代が二泊、盾の借り賃、油と保存食、それから」
「それから?」
「宿場での食事です」
「食事は別だろ」
「別とは」
「旅の楽しみだから。経費じゃない」
ノアは指を折る手を止めて俺を見た。
「経費から外しても、払う額は変わりません。残る額が増えるのではなく、数えない項目が増えるだけです」
「……」
「食事を抜けば残ります。抜きますか」
「抜かない。食う」
「はい。では盾には、二台でぎりぎりです」
ぎりぎりでも届く。俺はそれで十分だった。
「ノアは何か欲しい物あるのか」
「あります。でも今は言いません。帰ってから、店で自分で選びたいので」
ノアはそう言って、服の胸の上を軽く押さえた。欠片の入っている場所だ。
組合の装備窓口で盾を借りた。受付の女性は俺の腰の剣を見て、それから借用の紙に盾だけを書き込んだ。
「剣は自分の物になったんですね」
「はい」
「盾もそのうち」
女性は紙を渡しながら言った。俺は返事の代わりに頭を下げた。
訓練場の前を通ると、セドリクが槍を立てて汗を拭いていた。俺の腰の剣に目を止めて、それから左手の盾を見た。
「剣は買ったのに盾は借り物か」
「次で買う」
「劇場だろ。板に貼ってあったやつ」
「見たのか」
「見た。俺はやらない。中で待つ時間が長そうだ。回る床が止まるのを待つとか、そういうのは向いてない」
セドリクは槍を肩に担いだ。
「それより、その剣で来いって言ったろ。帰ってから一本やろう」
「二本取る」
「言ったな。覚えてるぞ」
俺たちはそれだけで別れた。背中で、セドリクが槍を振り始める音がした。
*
その夜、宿の部屋で剣の手入れをした。
鞘から抜いて、刃に油を薄く引く。柄の革の巻きを指でなぞって緩みがないか確かめる。武具屋の店主に教わったとおりの順番だ。実用一点張りの鞘は、三週間で少し艶が出ていた。
部屋の灯りは暗い。俺は鞘の口金に指を当てて《灯火》を点けた。金具が手元を照らす程度に光って、刃の油の引き残しが一か所見えた。そこだけ布でなぞる。五十を数えたあたりで光が消えて、もう一度点けた。この魔法でできるのはこれくらいだ。でもこれくらいは、できる。
「マスター」
「ん」
「公演の日、四人で並んで見たいと言っていましたね。オルネさんに」
言っていた。契約の後に、自分から。二階の正面の席なら海も月も役者の顔も全部見えると教えてもらって、その席を四つ並べてもらえるか聞いた。オルネさんは、公演の日に四つ空けておくと言ってくれた。
「言った」
「私も、見たいです。完成した舞台を」
ノアは膝を抱えて、俺の手の中の剣を見ていた。
「でも先に、劇場の中が見たいです。拍手が残っている劇場なら、光や舞台の記録も残っているかもしれません」
「拍手しか聞いてないぞ」
「はい。だから推測です。見て確かめたいです」
俺は剣を鞘に戻した。かちん、と小さな音がした。
誰もいない客席の拍手。保管庫で待っている二台。そして二階の正面の、四つ並んだ席。
欲しい物が、いつもより多かった。
明日の朝、南の街道を下る。
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