第2章 誰もいない満員の客席
宿場の朝は霜が降りていた。
南の街道を一日歩いた宿場は、トルカより小さかった。宿も一軒きりで、主人は俺たちが劇場へ行くと聞くと、帰りの部屋を空けておくと言った。先に行った組も同じことを言って出て、二日目の夕方に手ぶらで戻ってきたそうだ。
「手ぶらでも、戻ってきたんですね」
フィオナがそう言うと、主人はうなずいた。
朝のうちに宿場を出た。荷は軽い。彩灯の試験用の魔石はノアの胸の袋に、借りた青い色板は布に挟んでノアの荷袋に、油と保存食と水は俺とカティアの荷袋に分けてある。盾は左腕。剣は腰。鞘が腿に当たる感じにも、三週間でだいぶ慣れた。
街道から外れて林の中の道を半刻。木の間から丸い屋根が見えた。
劇場は窪地の底に建っていた。石の壁が窪地の斜面に半分埋まって、屋根の丸みだけが地面から出ているように見える。入口は窪地を下りた正面にあって、幅の広い石段が落ち葉に埋まっていた。石段の上には大きな両開きの扉がある。片方は閉まっていて、片方は外れて壁に寄せてあった。
カティアが石段を上がって、扉の脇の壁に手を当てた。
「翔太。これ見て」
石の壁に、縦に四本の筋が入っていた。俺の指より太い。筋の中の石が白くて縁に細かい粉が残っている。
「新しい。古いのはこっち」
カティアが指した隣の筋は、同じ四本でも石の色が周りと同じ灰色になっていた。
「前にもいた。最近もいた。今もいると思って動く。それだけ分かればいい」
カティアは盾を左腕にかけ直した。俺も同じことをした。借り物の盾は腕の内側にちゃんと収まっている。あの庭へ行く前にカティアに一目で直されたのが遠い昔みたいだった。
「入る。私、翔太、フィオナ、ノア。中は暗い。灯りはフィオナ」
フィオナが手提げの灯りに火を入れた。ノアが最後に俺の肩越しに扉の中を見ていた。
*
入口の広間は、思ったより明るかった。
丸い屋根のどこかが割れていて、冬の白い光が斜めに落ちている。床は石で、落ち葉が吹き込んで隅に溜まっていた。正面に、もう一枚の扉。両側に小さな部屋の入口がある。カティアが左の部屋を覗いて空だと言った。棚が壁に沿って残っている。
「ここは後で使う。荷物を置ける」
その時、奥から音がした。
ぱち、ぱち、ぱち、と乾いた音が重なって大きくなって、やんだ。
四人とも止まった。
拍手だった。間違いなく。何十人もの手が叩く音だ。正面の扉の向こうから、壁をくぐって聞こえてきた。
「……聞いた話どおり」
カティアが低く言った。盾を前にして正面の扉に近づく。閉まっていない。隙間から向こうの暗がりを覗いてから扉を押した。
扉の向こうは、客席だった。
半円に広がる客席が、舞台へ向かって下っている。屋根の割れ目から落ちる光が座席の列を縞に照らしていた。
その座席が、全部埋まっていた。
人が座っている。背中を見せて舞台のほうを向いて、何百人も。帽子をかぶった頭、結い上げた髪、子どもの小さい頭。誰も振り向かない。しゃべってもいない。
「あの、すみません」
声が出ていた。自分でも分からないうちに。カティアの手が俺の肩を押さえた。
誰も振り向かなかった。
一番近い列の通路側の男の背中を俺は見ていた。茶色の上着。襟のところに糸のほつれがある。それくらい近い。
その上着に、屋根の光が落ちていた。光は上着の上で止まらなかった。上着を通り抜けて座席の板の上に落ちていた。
「透けてる」
言った時、客席の奥でもう一度拍手が起きた。
今度は見えた。何百人が一斉に手を上げて、叩いて、下ろす。その手の間を屋根の光が通り抜けていく。音は確かに耳に届いた。でも座席の埃は、一粒も舞わなかった。
俺は半歩後ろに下がって、気がついたら頭を下げていた。
「……何してんの」
「いや。拍手されたから、つい」
「あんたにしてない」
カティアが言った。フィオナの手の中で灯りが揺れた。
*
ノアは一列目の端でずっと座席を見ていた。
「マスター。左の列、前から三つ目の席。見てください」
言われた席には灰色の髭の男が座っていた。背中を丸めて膝に手を置いている。
「次に拍手が来る前に、その人が咳払いをします。それから隣の女の人がその人のほうへ顔を向けます」
俺は見た。
男の背中が揺れて、こほん、と音がした。隣の女の人の帽子が男のほうへ傾いた。それから客席全体が拍手をした。
「……当たった」
「当たったのではなく、見ていました。ここに入ってから、拍手の前は毎回この順番です」
ノアは席から目を離さずに言った。
「一つなら偶然でも、三つが毎回同じ間で揃うことはありません。これは記録だと思います。何で記録して何で映しているかは分かりません」
カティアが腰の袋から小石を一つ出した。髭の男の背中へ下から投げる。小石は背中を通り抜けて座席の板に当たってころころと転がった。男は咳払いの姿勢のまま、動かなかった。
「記録ね。庭の水球と同じ。前の人たちの仕掛けが、まだ回ってる」
フィオナが言った。
「でも仕掛けが動いていることとここが安全なことは別です。外の爪痕は、仕掛けじゃない」
「分かってる」
カティアは小石を拾って袋に戻した。
フィオナは灯りを掲げて、客席の天井と壁を順番に照らしていた。
「どこから映しているのか分かりません。屋根の割れ目の光ではないです。あれは上から落ちているだけで、人の形は作れません」
「分からなくていい。今は、進む道と、生き物と、この人たちを分けられればいい」
「はい。でも帰る前に、一度は探したいです」
フィオナは灯りを下ろしたが、目はまだ天井を見ていた。
ノアはまだ髭の男を見ていた。
「マスター。もう一度咳払いまで見ていてもいいですか」
「見てただろ」
「隣の女の人が顔を向ける時の顔が気に入りました。迷惑そうなのに、少し笑っています。もう一度見たいです」
俺はノアの横に並んで言われた席を見た。
男が咳払いをした。女の人の帽子が傾いた。帽子の下の横顔が見えた。眉を寄せて、でも口の端が上がっている。
ノアの言うとおりだった。
「……ほんとだ」
「はい」
拍手が起きた。ノアはその間、ずっと女の人の横顔を見ていた。
*
客席の真ん中を通路が一本、舞台まで下っていた。
座っている人たちの間を歩いた。右も左も、光を通す背中ばかりだ。誰かの肘が通路にはみ出していて、俺はそれを避けて歩いた。避ける必要はないと分かっていても、足が勝手に避けた。
途中で一度、振り返った。客席の後ろの壁に二階の席が張り出しているはずの場所は、床ごと落ちて暗い穴になっていた。オルネさんの劇場の二階は、こうなっていないといい。
この満員の客席の前に、俺はこれから上がる。誰も見ていないと分かっていても、背筋が伸びた。
舞台が近づくと別の音が聞こえ始めた。
拍手じゃない。低い、重い音。石臼を回すような音が、床の下から続いている。
舞台の前に立って見上げた。
舞台の手前は一段高い石の床で、動いていない。その向こうで、舞台の真ん中の丸い床がゆっくりと回っていた。床の上に人の背より高い板が何枚も立っている。板には絵が描いてあった。塔、海、空。板は床と一緒に回って俺たちの前を横切っていく。板と板の間に時々隙間ができた。隙間の向こうは暗くて、何も見えない。
「上がる。手前の床だけ。動いてるところに足を乗せないで」
カティアが先に上がって、俺の手を引いた。石の床は冷たくて埃が厚かった。足跡が付く。
四人で並んで回る床を見た。
回る床の縁に、小さな灯りが埋まっていた。等間隔に、ぽつぽつと。それがひとつずつ順番に消えていく。全部消えた時、床の下の音が変わった。重い音がひときわ大きくなって、床が止まった。
板が止まる。板と板の間の隙間が俺たちの正面で開いた。
隙間の向こうに、舞台の奥側が見えた。もう一段の石の床と、その先に扉。
「保管庫だ」
言ったのは俺だった。オルネさんが机に描いた絵と同じ並びだ。
床は止まっていた。隙間は開いていた。でも誰も足を出さなかった。
「渡るなら、ここから。止まってる間に」
カティアが言った。
「でもどれくらい止まってるか、まだ知らない。渡りきる前に動いたら、板に押される」
床の下で、音がまた低く鳴り始めた。縁の灯りが消えた順番と逆にひとつずつ点いていく。板が動いた。隙間が閉じて、塔の絵が目の前を横切っていった。
「今、止まってから動くまで。翔太、何を数えてた」
「……数えてません。保管庫の扉を見てました」
「正直でいい。次は数えて」
「私は数えました。止まってから動くまで、ゆっくり数えて百ほどです」
ノアが言った。
「でも一度だけです。次も同じとは限りません。もう一度止まるまでここで見て、灯りの消え方と音の変わり方が同じかを確かめたいです」
カティアがうなずいた。
「荷はここに下ろす。待つ間、私は客席側を見てる。外の爪の主がどこから来るか分からないから。三人は床を見て」
カティアは盾を前にして客席のほうへ体を向けた。俺とノアとフィオナは石の床に並んで座った。目の前で塔の絵が横切っていく。
後ろの客席で、拍手が起きた。何百人の透けた手が、舞台と俺たちの背中に向かって鳴っていた。
俺は振り返らなかった。回る床の縁の灯りがまたひとつ、消えた。
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