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二章第九話 長い夜の始まり

 重ねた唇から、舌が入り込んできた。こじ開けられる口。抵抗する暇もなく、柔らかな舌が口腔を侵す。

 流れ込んでくるのは、単なる冷気ではなかった。命の炎——魂そのものが、ゆっくりと、しかし確実に吸い出されていく感覚。体の芯から熱が奪われ、指先が急速に冷えていく。胸の奥で灯っていた青い炎が、揺らぎ、小さくなり、消えかけた。

 蒼司は、その違和感に気づいた瞬間、響子の肩を強く押し返した。力が入らない。尻餅をつく。アスファルトのざらついた感触が背中に痛い。見下ろす響子の黒い瞳には、愉悦の光が灯っていた。

 街灯の光を受けて、その瞳の奥で何かが赤く瞬いた気がした。


 「初めて、だったかな?キスするの」


 自らの唇を指でゆっくりとなぞる響子。指先に、まだ蒼司の温度が残っているかのように、丁寧に、愛おしむように動かす。笑みは深く、どこか影を帯びている。欠落した何かを、ようやく埋めた者の顔だった。


 「蒼司君、大丈夫?震えてるね」


 言葉通り、蒼司の体は小刻みに震えていた。

 恐れか、怖れか、畏れか。それとも、魂を削られた後の寒気か。

 判別できない。歯の根が合わず、息が白い。響子は蒼司の隣に屈み込み、街灯の光の下で顔を近づける。黒髪が頰に触れそうになる。


 「昼間晴れてた分、夜は冷えるね。放射冷却だよ」


 指先が、蒼司の頰と唇に触れる。冷たい。さっきの唇と同じ冷たさだった。人間の体温ではない。影の冷たさ。感情を持たない者の、欠落した温度。


 「影がね、出るの。だから……助けて、蒼司君」


 その声は、助けを求める少女のものだった。同時に、何かを誘う影の声でもあった。甘く、依存的で、逃れられない糸のような響き。蒼司は答えを出せずに、ただ震える手を膝の上で握りしめた。


 蒼司にメールを送っても、返事は来ない。既読もつかない。トウマは駐車場の車止めから立ち上がり、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。

 傷が深い。足取りがふらつく。肩と腕から滴る血が、アスファルトに小さな染みを作る。しかし、それでも歩き出そうとする。アオシを放っておけなかった。同じ炎使い、協力した仲。借りがある。

 それ以上の理由は、今は言葉にできなくてもいい。


 「アオシを探す」「アオシ……?」「さっきも話しただろ。青の炎使いだ」


 一連の会話と直近の出来事から、一弥はトウマが言う青の炎使いが、先刻影淵の者と戦っていた少年であることを理解した。

 腕を組んだまま、低く、しかしはっきりと告げる。


 「もう、手遅れかもしれん。ヤツは影だけではなく、炎使いを喰らう」「……手遅れとか言うな。決め付けんな、オッサン」


 苛立ちが、トウマの声に混じる。橙の瞳が鋭く細められた。歩き出そうとするトウマだが、膝が折れた。血の気が、急に遠のく。

 一弥が素早く脇を支えた。大きな掌が、トウマの体重をしっかりと受け止めた。


 「怪我が酷い。休め」


 一弥の言葉通り、トウマの負傷は深かった。痛みを感じなくなっている分、自分でも怪我の度合いを見誤っていたようだ。棘が食い込んだ痕、裂傷、内出血。血がタンクトップに大きく染み、夜風が傷に触れる感触だけが残る。熱いはずの血が、すでに冷え始めている。

 一弥はトウマを引きずるようにして、歩を進めた。トウマの足が地面を引きずる音が、夜の駐車場に小さく響く。


 「影淵の者は、ただの影ではない」


 その声は、トウマの耳に重く落ちた。智香の仇でも、組織の人間でもない。別の、もっと根の深い何かを、この男は追っている。


 静かなビルの一室。薄明かりだけが灯る室内。カーテンは閉じられ、外の夜景は見えない。

 神威紫苑はソファーに深く腰掛け、脚を組んで静かな声で話していた。聞くのは藍原顎と周防翠。顎は壁に背を預けて腕を組み、潔癖そうに指先を時折拭っている。翠は床に座り込んで、紙袋から取り出したスイーツを食べていた。クリームの甘い匂いが、部屋の空気に薄く漂う。


 「恐らく、元は炎使いだね。自らの魂を燃やし尽くした後、影を喰らって生き延びた者。影は感情の残滓。欠けた魂は、感情の炎を渇望するんだよ」


 紫苑の説明は、優しく、しかし容赦なく核心を突いていた。顎が短く反応する。


 「この街で異様に影が減った理由は簡単。影淵の者が来たからさ」「青と橙の炎使いだけではないのが証明された、と言う事だな」「うん、そうだね。器が見付かったのは偶然の産物。僕等の元々の目的は、影が減った原因の調査」


 スイーツを食べ終えた翠が、口を挟む。指先に残ったクリームを舐めながら、無邪気な、どこか楽しそうな声で言う。


 「で、そのエイエンノモノを倒せば良いのかナ?」「違うよ、翠。影淵の者は影だけじゃなく、炎を喰らう。喰らって、沈殿させる事が出来る」「……器と、同じ」「正解だよ、顎」


 紫苑が薄く笑い、頷く。翠は不満そうに唇を尖らせ、空き容器を握り潰した。紫苑は続けて、赤色の炎使い——一弥が影淵の者を追ってこの街に来ていることを伝えた。翠が「強かったヨ」と短く頷く。緑の瞳に、戦いの記憶が愉しげに揺れる。


 「蒼井景とは別に、器となり得る存在……捕らえようか」


 上層部の一員である紫苑の指令を受け、顎は無言で部屋を出て行く。ストライプの背中が音もなくドアの向こうに消えた。見送る翠の緑色の瞳が、ゆっくりと紫苑に向く。


 「ねぇ、紫苑。玩具、いつくれるのかナ?」


 薄明かりの下、燃える緑の瞳。破壊を求める炎が、そこにあった。童顔の下に隠された、異常な渇望。紫苑はソファーから立ち上がり、翠の眼前へ歩み寄る。プラチナブロンドの髪が、薄明かりの中で淡く光る。紫と緑の瞳が交錯する。距離が近い。


 「ふふ、もう少し待ってね。とっておきをあげるよ」


 紫苑の声は優しく、憐れむような響きを帯びていた。翠はそれを、次なる破壊の約束として一応は受け取った。


 「早くくれないと、ボク、暴れちゃうよ?」


 影が出る——。確かに、響子の影は異様に長かった。思えば、あの虫のような影は、彼女の影から湧き出ていた。唇が冷たいのは、言うとおり夜が冷えるからか。放射冷却という言葉が、頭の中で虚しく反復される。思考が、ゆっくりと、泥の中を歩くように回る。

 冷えて動けない体を、蒼司は無理に奮い立たせた。歯を食いしばり、震える指でスマートフォンを取り出す。画面は割れていた。戦いの衝撃で、液晶が蜘蛛の巣状にひび割れている。トウマに連絡を取ろうとしても、画面が正しく反応しない。


 「助ける、ってどうやれば良い……?」


 声が、掠れる。

 響子は優しく答えた。


 「簡単だよ。蒼司君が側に居てくれれば良い」「……側に?」


 反芻する。明らかな違和感はあった。魂を吸われた感覚。冷たい唇。不自然に長い影。それでも、響子の話はどこか合点もいく。影が出る。助けて欲しい。側にいて欲しい。迷う。

 自分の炎は誰の為にあり、いつ燃やすのか。トウマはケイを守るために魂すら燃やした。あの熱に触発された自分は、同じようになれるのだろうか。守るべきモノを持てば、この熱に行き場ができるのだろうか。


 「うん。側で守ってくれれば良い。それだけだよ」


 愉悦から薄い笑みへ。響子はゆっくりと立ち上がり、蒼司の手を取った。冷たい手の感触。骨の感触まで伝わるような、薄い手。引き寄せられるように立ち上がる。足に力が入らない。響子の体に寄りかかる形になる。


 「守って、蒼司君……」


 迷いは残る。頭のどこかで、警報が鳴っている。それでも、蒼司は指先に淡く青炎を灯した。火傷しない程度の、小さな熱。響子の冷たい指に、青白い光が映る。


 「……わかった。俺が、黒崎を守る」


 その言葉が、夜の空気に落ちた。響子の黒い瞳が、細く喜ぶように揺れた。赤い光が、その奥で一瞬だけ強く瞬いた。蒼司は気づかなかった。あるいは、気づかないふりをした。


 「トウマ!! 怪我してる……!!!!」


 一弥に引きずられるようにして、元ライブバーの自宅にたどり着いたトウマを待っていたのは、ケイだった。エントランス近くに立っていた彼女は、トウマの姿を見た瞬間、駆け寄ってきた。メールが返ってこず、心配して待っていたという。

 トウマの肩や腕に残る傷、血の跡を見て、焦げ茶の瞳が大きく見開かれる。唇が震える。

 一弥がトウマをソファーに座らせ、ケイは慌てて救急箱を探した。棚を漁り、消毒液とガーゼと包帯を抱きかかえて戻る。

 トウマはタンクトップを破り捨てるように脱ぎ、乱雑に血を拭い、消毒液を傷にかけた。刺激があるはずなのに、表情はほとんど変わらない。歯を食いしばる様子もない。ただ、機械的に処理していた。


 「痛いだろう? 大丈夫か?」「……うるせぇ。見てる方が痛いって顔してんぞ、オッサン」「あ、あの……何があったかわからないけど……ありがとうございます、オジサン」「オジサンではない」

 一弥が短く訂正する。

 ケイはトウマの傷の深さに唇を噛み、治療しようとした。ガーゼを当て、押さえようとする指が、血で赤く染まる。トウマはその手をやんわりと拒んだ。


 「大丈夫だ。汚れる」


 拒まれた指先の感触が、ケイの胸に残る。温かい血。トウマの血。トウマを傷つけた者への、小さな、しかし確かな怒りが湧いてくる。悔しさと心配が、胸の奥で混じり合う。また誰かの為に戦ったのか。自分の知らない所で、怪我をしたのか。俯く。焦げ茶の瞳から、感情が溢れそうになる。必死で抑え込む。トウマが炎で抑えてくれるはずの感情が、今は一人で溢れてきそうだった。


 「影淵の者を、この街で撃滅する」


 一弥の声が、部屋に落ちる。低く、揺るがない声。トウマが続ける。血の匂う部屋の中で、橙の瞳が前を向く。


 「俺は蒼司を助ける。その影淵の者ってヤツを倒してな」「共闘はしない」「……虎は群れねぇ、ってか?」


 トウマの視線が、一弥の右肩——虎の刺青へ向く。黒い線が、筋骨隆々の肌に食い込んでいる。一弥の赤い瞳もまた、トウマの右腕の狼の刺青を捉えた。孤狼。孤独な狼。

 二人の刺青が、薄暗い部屋の中で、静かに対峙する。


 「狼も同じだろう。孤狼と言う言葉がある位には」「虎狼の心、じゃねーだろ。家まで運んでくれた礼は言っとく」


 赤と橙の瞳がぶつかり合う。しかし、争いは起きない。熱が、同じ方向を向きかけているだけだ。その間に、景が割って入った。声は震えていた。それでも、言葉ははっきりしている。前に出るケイ。トウマの傷から目を離さずに、二人を見る。


 「今は、二人が戦う理由ないよね……? 詳しく、聞かせて欲しいの。トウマの怪我、心配だし……蒼司君の事も、影が関係してるなら、私にも関係してるかも知れないし……」


 揺れる心。怒りと心配。守られたい気持ちと、知りたい気持ち。ケイの焦げ茶の瞳が、しっかりと二人を見開かれていた。桃色の炎の残光が、その奥で小さく揺れる。

 長い夜が、始まろうとしていた。




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