二章第十話 逃避行
トウマの住処である元ライブバーは消毒液の刺激臭と、鉄の匂いが混じり、満ちていた。ケイは救急箱を膝に置き、トウマの肩と腕の傷から目を離さない。ガーゼは既に赤く染み、彼女の指先にも薄い血が付いていた。
一弥は壁に背を預けて腕を組み、赤い瞳を二人に向けている。虎の刺青が、薄暗い照明の下で黒い線として浮かび上がっていた。
ケイの「詳しく聞かせて欲しい」という言葉が、まだ部屋の空気に残っている。トウマは短く息を吐き、天井のシミを見上げたまま、低い声で口を開いた。
「影淵の者だ。ただの影じゃねぇ。人の形をして、影を喰らい、時には炎使いの炎をも喰らうんだとよ」
一弥が続ける。声は低く、感情を意図的に削ぎ落としたようだった。弟を失った夜の感触が、その声の底に沈んでいる。
「元は炎使いだ。自らの魂を燃やし尽くした後、影を喰らって生き延びた者。欠けた魂は感情の炎を渇望する。俺の弟も、ヤツに喰われた」
トウマは肩の傷に触れる。痛みはない。血が指に付く感触と、包帯の下で肉が開いているという情報だけがある。火力を上げた代償が、感覚を削っている。
「さっきアオシと戦ってた虫みたいな影の中に、女が取り込まれてた。いや——取り込まれてたように見えた。アオシは彼女を助けたつもりでいる。だが、オッサンの話じゃ、その女自身が影淵の者の可能性が高いんだろ」
ケイの焦げ茶の瞳が、大きく揺れた。蒼司の名前。影。自分に関係があるかもしれない、という予感が、胸の奥で動くなる。桃色の残光が、瞳の奥で小さく瞬いた。両手を膝の上で握りしめ、ケイは前かがみになった。
「蒼司君を、助けたい。私にも関係があるなら、知りたいし、どうにか、したい」「危ねぇだろ」
ケイの申し出を間髪入れず止めるトウマ。危険を理由に、ケイを守る対象として後ろに置こうとする。だが、ケイは首を横に振った。焦げ茶の瞳が、トウマを真っ直ぐに見据えた。
以前の黒瞳にはなかった、感情の輪郭、焦げ茶の瞳、燈火がそこにあった。
「私はもう、ただ守られるだけの器じゃない。トウマが傷つくのは嫌。蒼司君が危険なのは、助けたい」
ケイの言葉を耳にしつつ、一弥は深く息を吐き出し、扉に手をかけた。肩幅の広い、屈強そうな背中が、ドアの方を向く。
「情報は出したが、共闘はしない。今のお前は戦力にならん。覚悟はあれども、な」
虎の刺青が、夜の空気の中で一瞬だけ光る。一弥の背中はドアの向こうに消えた。階段を下りていく大きな足音。部屋には血の匂いと、消毒液の匂いと、ケイの浅い呼吸だけが残った。
蒼司は、響子に連れられて歩いていた。夜の住宅街を抜け、少し廃れたアパートの前に立つ。外壁は汚れ、ポストは錆び、廊下の照明は一つおきに切れている。
響子が鍵を開け、蒼司を招き入れる。玄関から真っ直ぐ続く、招かれた一室はカーテンが閉じられ、照明が弱く点いている。生活感は薄い。ベッドと小さなテーブル、本棚に並んだ小説。恋愛小説が多い。響子は入口で振り返り、薄く笑った。黒い瞳の奥に、赤い光がまだ小さく残っている。
「側にいて欲しいな。影がね、出そうになると、熱が欲しくなるの」
蒼司は窓辺に立ち、指先に淡く青い炎を灯した。青白い光が、薄いカーテンに影を作る。響子の影が、床に不自然に長く伸びかける度に、その青い炎で抑える。影は青白い光に触れて、嫌がりように縮んだ。虫の脚のようなものが、生えかけて、消える。
……守っている。そう自分に言い聞かせる。だが、響子が近づき、青炎に手をかざすたびに、僅かに熱が奪われる感覚があった。指先が冷える。胸の奥の炎が、また小さく揺れる。魂を吸われた後の虚脱が、まだ体に残っているのか。
「蒼司君の青、綺麗だね……好き」
響子はそう言って、青炎の残した熱を愛おしむように見つめた。飢えた者が、炎を見る目。欠落を埋めようとする者の、必死な目。
蒼司は違和感を覚えつつも、「守る」と決めた言葉を取り消せなかった。トウマがケイを守った熱に触発された自分は、今、この冷たい手を離すことができずにいる。
響子の指が、青炎の輪郭を撫でる。撫でた箇所から、熱が、また僅かに消えていく。
一弥が去った後、トウマはゆっくりと立ち上がろうとした。膝が笑い、肩から血が再び滲む。ケイが腕を伸ばして支え、ソファーに押し戻した。
ケイの手が、トウマの裸の肩に触れる。熱い。血の熱と、体温。トウマはそれを、痛みのない体で受け止めていた。
「痛く、ないの?」
ケイの声が、初めて強くなった。トウマに抱く違和感。
トウマは苦笑いに近いものを浮かべ、首を横に振る。橙の瞳がケイを見つめた。
「大丈夫だ、炎使いは傷の治りも早いからな」
嘘は言わない、だが、伝えれない。
その言葉に、ケイは傷に再度ガーゼを当てながら俯いた。指が、震える。
トウマの心の中では、ケイの恋心を受け止めきれない感情が渦を巻いていた。……智香の残滓、想い出、彼女への、想い。
雨の夜に揺れた桃色の炎。「生きて」と告げた声。贖罪。自分の熱がケイを傷つける恐れ。守ることはできても、それ以上の熱を返す資格が、自分にあるのか。
ケイがトウマのZippoに触れる。ポケットから覗いていた金属の感触が、彼女の指に冷たい。トライバルの装飾が、指の腹に沈む。
「私はもう、ただ守られるだけの器じゃない。トウマが傷つくのも、蒼司君が危険なのも、知りたい。関わりたい。灰色の世界にいた頃の私じゃ、もうない。それに……」
好きだから。その言葉は出ない。
焦げ茶の瞳が、トウマを見上げる。桃色の炎の残光が揺れる瞳。映すのは、トウマの左耳に揺れるピアス。女物、レディースデザインの、リングピアス。ケイは俯く。
トウマは長く息を吐き、Zippoを握りしめた。蓋に親指をかける。開かない。ただ、感触を確かめるだけだ。
「……わかった。だが、俺の後ろにいろ。絶対に前に出るな」
ケイは小さく頷いた。リングピアスは誰のモノなのかは、今は聞くべきではない。
トウマは傷を包帯で仮止めし、柄物のシャツを羽織った。血の匂いが、生地に移る。痛みのない体で、夜の外へ出る準備をする。
ケイは白いカーディガンの袖を握り、トウマの背中を追った。
街を、藍原顎が歩いていた。紺のストライプスーツに赤いネクタイ。同じ色の革靴が、夜のアスファルトを音なく踏む。潔癖そうに指先を拭いながら、夜の匂いを嗅ぐ。
影淵の者の気配。腐った甘い匂いと、欠落した感情の残り香。そして、青炎の残滓。器となり得る存在を捕らえる、という紫苑の指令が、頭の中で反復される。同時に、捕らえてどうするかと言う疑問。
湧いた疑問を無視し、顎は青の残り香を追う。
いくほどなく歩き、廃れたアパートの並ぶ一角で足を止めた。窓の隙間から、僅かに蒼い光が漏れているのが見えた。
神経質な藍色の瞳が、細められる。
「……青か。面倒なのが居るが、何故だ?」
毒を含んだ声が、夜の空気に溶けた。
トウマはケイをバイクの後ろに乗せ、夜の街を走っていた。ケイの腕が、トウマの腰に回る。体温が背中に伝わる。傷が開く感触があるが、痛みはない。ただ、血が包帯の下で広がっていくぬるい感触だけがある。蒼司の居場所の見当をつけながら、トウマはアクセルを捻った。
エンジンの低い音が、夜の住宅街に響く。
一方、アパートの一室では、蒼司が響子の影を抑えきれずにいた。青い炎を大きくしても、影は床を這い、細長い脚が節くれ立って生えかける。響子の黒い瞳が、愉悦と渇望で大きく揺れる。唇が、僅かに開く。
「蒼司君、もっと……熱を。側にいて。守って」
その声は、助けを求める声であり、餌を求める声でもあった。
蒼司の青炎が、揺れる。その時、ドアの外に、冷徹な気配が重なった。
冷たく神経質な藍色の炎が、銃弾となってドアを貫く。鍵穴が穿たれ、ドアノブが軋み、ゆっくりとドアが開く様を蒼司は見詰めていた。その手には青い炎。
開かれるドア、電灯を背に立つ長身が、問答無用で藍色の炎で作り出した砲弾を撃ち込んだ。
息する暇も無く迫る砲弾、迎え撃つのは青い炎の散弾。藍と青の炎が、ぶつかり合い、膨れ上がって小さな部屋に溢れていく。
古ぼけたアパートの一室に、寒色の炎が燃え上がった。




