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二章第十一話 追う者、追われる者

 古ぼけたアパートの一室は、既に炎が渦巻き溢れていた。藍色の砲弾が炸裂した瞬間、壁紙がめくれ、天井の一部が崩れ落ちる。青白い散弾が迎え撃ち、寒色系の炎が狭い空間を喰らい合うように膨れ上がった。

 熱ではなく、冷たい圧迫感が部屋を満たす。蒼司は歯を食いしばり、青炎を両手に展開した。蛇の刺青が左腕に薄く浮き上がり、鱗光が走る。


 「面倒なのが居るな……」


 ドアを蹴破るように入ってきた男、顎はストライプのスーツに染み一つ付けず、神経質に指先を拭っていた。

 藍色の瞳が、蒼司と、その背後に控える響子を交互に捉える。


 「青の炎使い。そして……影淵の者か。紫苑の言う通り、器になり得るか、はたまた狂言か」


 顎が右手を上げる。指先に凝縮された藍色の炎が、弾丸の形状を取った。精密射撃。無駄のない軌道。蒼司は青炎の壁を展開して防ぐが、衝撃が腕に食い込み、足元が滑った。床に落ちていた小説のページが舞い上がり、炎に触れて黒く焦げる。

 響子の影が、急に長く伸びた。


 「っ……!」


 床を這う黒い何かが、顎の足元へ絡みつこうとする。虫の脚のようなものが節くれ立って生え、スーツの裾に触れかけた瞬間、顎は顔をしかめて藍色の炎を真下に放出した。影が焼かれ、嫌がりように縮む。

 響子の体が小さく震え、蒼司の背中に額を押し当てた。


 「蒼司君……熱が、足りない……」


 掠れた声。助けを求めるようで、同時に何かをねだるような粘つく声。蒼司は歯を噛み締めた。

 守ると決めた筈の彼女の影は、自分の炎を欲しがる。敵の動きを邪魔してはいるが、完全に味方とは言い切れない。熱が奪われる感覚が、指先から徐々に広がっていく。

 対する顎の攻撃は正確無比。青炎の防御を一点集中して穿ち、蒼司の左肩を掠める。シャツが裂け、血が噴く。痛みが走るが、それ以上に焦りが勝った。

 このままでは響子を連れて逃げられない。部屋は狭く、出口は顎に塞がれている。


 「邪魔だな、青。それに、その女も」


 顎が再び砲弾を形成した。銃弾ではなく砲弾、破壊力は先の比ではない。藍色の炎弾が放たれ、蒼司は青炎の出力を上げて何とか受け止める。

 壁が崩れ、衝撃で窓ガラスが砕け散る。夜気が一気に流れ込んできた。

 その瞬間だった。響子の影が、蒼司の足元ではなく、部屋の隅の闇に大きく広がった。虫の脚が何本も生え、天井まで届くほどに伸びる。顎の視線が、蒼司から僅かに一瞬だけ、離れた。


 「……今だ!」


 蒼司は意を決した。青炎を一気に収束させ、足元で爆発させる。衝撃で床板がめくれ上がり、粉塵が舞う。その煙と炎を盾に、蒼司は響子の細い腕を掴み、割れた窓へ向かって駆ける。


 「逃げるか!」


 初めて聞く顎の怒声が藍色の砲弾と共に放たれる。背中に熱を感じたが、直撃は回避していた。

 転がるように駆ける蒼司は、響子を抱きかかえて窓枠を乗り越える。二階とは言え高さはあった。だが、怖くはない。勢いのまま地上へ飛び降りた。着地の衝撃が膝を、全身を伝う。青炎を足裏出爆発させめ衝撃を殺し、すぐに走り出す。

 夜の住宅街。街灯の光が途切れる路地を選んで駆け抜けた。響子の体は意外と軽く、しかし冷たい。

 腕の中で、彼女の影が不安定に揺れていた。


 「蒼司君……逃げて、くれたの」


 息を弾ませながら、響子が小さく呟く。黒い瞳が、夜の闇の中でこちらを見つめていた。赤い光は、今は殆ど見えない。ただ、疲れた少女の顔だけがあった。


 「……黙ってろ。声が出るなら、走れる」


 蒼司は言い捨て、走る速度を更に上げた。後ろから追ってくる気配は、まだない。顎は慎重な男だ。すぐに飛び出すのではなく、炎の残滓を読んでから動くタイプなのだろう。だが、その時間的猶予は長くない。

 幾つかの番地を駆け抜けた先、古い公園に差し掛かった所で、蒼司はようやく足を止めた。

 ベンチの陰に身を隠し、響子を下ろす。自分の肩の傷から血が滴り、地面に小さな染みを作っていた。炎で軽く焼いて止血する。痛い。熱が、また少し削られた気がした。

 響子はベンチに座り、膝を抱える。黒髪が頰にかかり、俯く表情は見えない。だが、その影は街灯の光の下で、まだ不自然に長かった。

 

 「……ごめんね。私の影が、邪魔した」「邪魔……いや、助けになった」


 蒼司はゆっくりと立ち上がり、夜空を見上げる。星は少ない。街の光が空を濁している。

 胸の奥で、青炎が小さく揺れていた。守るために燃やす熱。なのに……守っている相手から熱を奪われている矛盾が、じわりとじわり効いてくる。

 響子が、そっと袖を引いた。


 「蒼司君の青い火、炎……やっぱり綺麗だね。側にいると、影が少しだけ静かになるの。ありがとう」


 その声は、昼間の学校で聞いたことのある、地味で小さな声だった。飢えた影の声ではない。ただ、誰かに側にいて欲しいと願う、普通の少女の声。蒼司は何も答えられなかった。ただ、青炎を指先に灯し、響子の影が再び伸びないように、静かに照らすだけだった。


 一方、古いアパートには別の熱……トウマとケイの姿があった。トウマはバイクを路地に止め、エンジンを切った。ケイが後ろから降り、すぐにトウマの肩に手を添える。包帯の下から、また血が滲んでいるのが分かった。


 「トウマ、また開いてる……」「気にすんな。それより、ここだ」


 物が燃え、焦げる匂いと、寒色の炎の残滓が濃厚に残っていた。二階の窓は完全に吹き飛び、カーテンが未だ消えない僅かな火に煽られて黒く揺れている。

 トウマはZippoを指で転がさせながら、階段を駆け上がった。ケイが後に続く。部屋の中は惨状と表すしかない。壁は崩れ、床は抜け、小説のページが焼け焦げて散らばっている。藍色と青色の炎がぶつかり合った痕跡が、はっきりと残っていた。


 「アオシの炎だ。それに……もう一人」


 トウマは蹲り、床に残った黒い染みに触れる。影の残り香。腐った甘さ。少し前までここにいたのだろう。

 ケイは部屋の中央に立ち、焦げ茶の瞳を細めた。桃色の残光が、奥で小さく瞬く。


 「蒼司君は、逃げた。女の子を連れて。……影の匂いが、ついてる」「ああ。アオシの奴、面倒なのに捕まったな、いや、掴んだのか」


 トウマは立ち上がり、割れた窓から外を見下ろした。夜の街が、静かに広がっている。追うべき弱い火は、まだ新しい。

 ケイがトウマの袖を握った。力が、少しだけ強い。


 「追うんだよね。私も、行く」


 トウマは一瞬、何かを言いかけるように口を開き、すぐに閉じた。橙の瞳がケイを見る。以前なら「後ろにいろ」と即答したはずだ。だが、今は違う。彼女の瞳には、灰色の世界にいた頃の空虚さはもうない。感情の輪郭が、意志の炎と色がはっきりとそこにある。


 「……わかった。けど、俺の声にに従え。勝手に動くなよ」「うん」


 ケイは小さく頷いた。

 トウマはZippoの蓋を開き、閉じる。カチ、という音が、焼けた部屋に小さく響いた。二人は部屋を出て、夜の街へ降りていく。青炎の残滓と、影の甘い匂いを追いながら。


 蒼司は、響子を促して再び歩き出した。公園を抜け、閉店後の商店街へ入る。シャッターが下りた店が並び、街灯だけがポツポツと灯っていた。人通りはほとんどない。響子は蒼司の少し後ろを歩き、時折、その影が長く伸びかけて、青炎の光に触れて縮む。


 「ねえ、蒼司君」「何」「どうして、助けてくれるの?」


 蒼司は歩を止めなかった。答えを探すように、しばらく黙って歩く。青炎を灯した指先が、夜気に晒されて冷たい。


 「……理由なんて、後でいい。今は動けるうちに距離を稼ぐ」「ふふ……蒼司君、意外だね」


 響子が、小さく笑った。その笑みは、影の愉悦とは違う。どこか寂しげで、しかし確かに、人間らしい温もりがあった。

 二人は商店街を抜け、住宅街の奥へと消えていく。後ろから追ってくる気配はない。だが、夜は長く、追う者たちは確実に近づいてきている。

 蒼司の青炎が、暗い路地で小さく揺れる。響子の影が、その光を追い求めるように、静かに長く伸びていた。

 

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