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二章第七話 絡み付くモノ


 一晩経っても、一日経っても、「戦う理由」は見つからなかった。

 蒼司は自室のベッドに横になったまま、天井の染みを見つめ続ける。変電所でギターを失った夜の感触。廃モールで四色の炎が交差した熱。トウマが魂を燃やしてケイを守った、あの圧倒的な燈色の炎。

 自分の中に点けられた火と熱は、確かにそこにある。胸の奥で小さく、しかし絶えず燃え続けている。なのに、それをどこへ向ければいいのか、答えが出ない。

 影淵の者を倒す明確な理由を持つ一弥の言葉が、重い鉛のように胸の奥に沈んでいた。生半可な気持ちで相対すれば、死ぬ——その通りだと思う。自分の熱は、まだ誰かを守るためでも、何かを討つためでもなく、ただ行き場を失ったまま揺らいでいるだけだった。

 月曜日。一応は学校の門をくぐった蒼司。ホームルームには顔を出したが、その後の授業には出ずに足は自然と図書室へ向いていた。隅の席に座り、イヤホンを両耳に差す。スマートフォンの音楽アプリ、再生ボタンは押さない。好んで聴いていたデスメタルも流されないまま。

 青い瞳が、開いてもいない文庫本のページをぼんやりと映す。ページの文字は頭に入ってこない。


 「東堂君、サボり?」


 突然、掛けられた声に顔を上げる蒼司。隣の椅子に、黒髪の少女が既に座っていた。

 黒崎響子。いつものように地味で目立たない制服姿。だが、右頬に貼られた大きめのガーゼが、不自然に目を引く。


 「黒崎響子……」「フルネームで呼ぶの?」


 響子は右頬のガーゼを細い指先で軽く触れた。薄く、影のある笑い方をする。


 「ちょっと、怪我しちゃって」「……そうか」


 蒼司はそれ以上聞かなかった。響子が炎使いの存在を知っている事、あの夕暮れの路地で見せた不自然な影の長さを、問うべきか迷う。言葉が喉の奥で止まる。

 沈黙が、図書室の空気に落ちる。その沈黙を、響子が破った。


 「東堂君、学校抜けて買い物に行かない?」


 クラスでは「地味子」と陰口を叩かれる少女が、薄く笑い、すっと立ち上がる。蒼司に付き合う積極的な理由はなかった。かといって、明確に断る理由も見つからなかった。

 蒼司は小さく息を吐き、肯定の意味でイヤホンを外し、席を立つ。

 買い物先は、駅前のショッピングモールではなかった。もう少し奥まった、昔ながらの商店街。古い看板が並び、狭い路地が続き、昼間なのにどこか薄暗い場所。

 二人は小さな本屋に入った。響子が棚から抜き出したのは、ハードカバーの恋愛小説だった。カバーには淡い色のイラストが描かれている。


 「新刊なの。恋愛小説」


 蒼司は興味なさそうに、別の棚を見ている。指先で背表紙をなぞるだけで、手には取らない。


 「物語は好き。感情の色が読めるから」


 意味深に言って、響子は苦笑いをした。黒い瞳が、本の表紙ではなく、どこか遠いところを見ているように揺れる。

 

 「恋愛、してみたいなぁ……って」


 学校では見た事のない、よく話す姿。声のトーンも、いつもより少しだけ、半音は高い。対する蒼司は短い返事しか返せなかった。

 店を出て、日差しの残る商店街を並んで歩く。響子が尋ねる。


 「たこ焼きとアイス、どっちにしよう」「アイス」「溶けちゃうよ?」「溶ける前に食べればいい」


 コンビニで買ったアイスを手に、少し寂れた昼間の商店街を歩く。他愛のない会話が、ポツリポツリと続く。


 「東堂君、趣味ってある?」「……前はゲーム。その前は楽器。今は……ない」「一年生の頃、軽音楽部だったよね」「……黒崎はずっと帰宅部」「バレちゃった」


 響子が小さく笑う。ガーゼの貼られた右頬が、僅かに動く。蒼司はアイスの棒を噛みながら、その笑い方にどこか影を感じた。だが、深くは追わない。

 話ながら歩く先、辿り着いたのは近所の小さな公園だった。木陰のベンチに並んで座る。蝉の声がジジジと高く、容赦なく響いていた。

 沈黙。響子は買った本を開く。しかし、目はページを追っていない。指先だけが、紙の端を無意味になぞる。


 「街を歩くとね、学校でもそう。恋人同士って見かける。羨ましいなぁ……って。人を好きになる気持ち、欲しいなぁ……って」「……だから恋愛小説?」「……うん」


 蒼司は答えに詰まった。自分自身、初恋らしい初恋はまだなかった。恋愛、恋人同士という言葉は、どこか遠い。

 脳裏に過るのは、トウマとケイの関係だ。トウマはケイのために自分の魂すら燃やした。あの熱い熱。守るための炎。蒼司は再び、自分の炎の行き場を自問する。

 響子は小説を読み始め、気付けば空は夕暮れに傾いていた。本を閉じる音が、小さく響く。


 「今日はありがとう、東堂君」「……帰るか」「うん」


 短く言葉を交わし、歩き出す二人。方向は同じだった。背中に夕陽を受け、影がアスファルトに長く伸びている。

 「……なあ、黒崎」


 身長は蒼司の方が高い。なのに、地面に落ちた影は、響子の方が長かった。不自然なほど長い。違和感が、青い瞳に刺さる。

 蒼司が気づいて横を向いたとき、響子も同じように蒼司を見つめていた。黒い瞳。微かに頰が赤い気がする。夕陽のせいだろうか。


 「何だか、デートみたいだね」


 人気の無い住宅街。響子の声が、夏の残熱を帯びた空気に溶ける。


 「東堂君の青い炎、好きよ」


 熱い。夏の空気のせいだけではなかった。体温が急に上がる。響子が一歩、また一歩と近づいてくる。蒼司は動けなかった。動けないのは、足下の影がすでに彼の足首に、冷たく、しっかりと絡み付いていたからだ。黒い影が、彼の靴を、裾を、這い上がるように拘束する。


 「こんな、時にっ!」


 蒼司が青炎を灯そうとした瞬間、別の影が響子の足下からも湧き上がっていた。黒い影が、響子の細い足首に絡み付き、彼女の体を急速に縛り上げていく。蒼司は自分の足下の影を青炎で焼こうとし、青い光が迸った。

 だが、響子を拘束する影は彼女の小さな体を容赦なく包み込んで呑み込むように覆い隠していく。


 「黒崎!!」


 悲鳴に近い声が、蒼司の喉から出た。響子を覆った影の塊から、細長い虫のような脚が何本も生える。節くれ立った黒い脚が地面を掻き、それごと路地裏の闇へと走り去っていく。

 消える直前、影の隙間から、響子の黒い瞳が一瞬だけ蒼司を見た気がした。それは助けを求める目なのか、それとも別の何かなのか、判別できない。

 蒼司は唇を強く噛み、全力でその影を追い掛けていく。青い炎が、夕暮れの路地に散る。


 日の沈む街を、トウマは一人で歩いていた。ケイとはメールをしている。画面に並ぶのは短い文言だけ。『買った飯食ったか』『食べた』『そうか』——それ以上の言葉は、どちらからも出てこない。留年しているが一応は高校生のトウマは、いつものようにケイを学校から送り届けた後、同じような制服の学生たちや、手を繋ぐカップルとすれ違いながら歩いていた。

 桃色の髪をした女性が、視界の端を過ぎる。一瞬、足が止まった。智香の髪色に近い。肩が軽くぶつかる。


 「悪ぃ」


 謝罪の言葉は、ほとんど反射だった。気付けば、足は自然と路地裏へ向いていた。

 低く唸り上げている室外機に腰掛け、ポケットからタバコを取り出す。Zippoの蓋を開け、火を点ける。カチ。紫煙が、夜の気配を帯び始めた空気に溶けだした。

 感情を持つようになったケイが、自分に恋心を抱いている事にトウマは気づいていた。

 瞳の色、声のトーン、服の裾を掴もうとする小さな仕草。全部、わかっていた。なのに、それを受け入れることができない自分自身がいる。

 自分にとってケイの存在は何なのか。守る対象。それ以上の何か。答えが出ない。

 タバコの煙と香りと共に、智香と過ごした日々が鮮やかに思い出される。ピアノの旋律。重ねた身体。雨の夜。桃色の炎。火傷しない温もり。

 「生きて」と告げた声。今の自分は智香に救われた命だ。彼女の炎の残滓で、燃え尽きかけた魂を繋ぎ止められた体だ。救われた分、ケイを守ることが贖罪になっているのか。

 握り締めた拳に、爪が深く食い込む。血が滴り、アスファルトに落ちた。だが、痛みは感じない。火力が上がった代償、魂を燃やした後遺症。

 感覚が、少しずつ遠のいていた。

 室外機の低い音だけが聞こえ、揺れる煙。静寂ではないが穏やかさを感じる路地裏に、破砕音が響いた。

 コンクリートが割れる音。トウマは顔を上げる。くわえていたタバコを地面に投げ捨て、踵で踏み消した。

 臨戦態勢。全身に薄く橙の炎が灯る。橙の瞳の先、現れたのは、虫の四肢を持った大きな影だった。

 黒色の体躯が、路地の闇にうねり、複数の節足が壁と地面を掻いている。敵意と、明確な、何かを探すような動き。


 「……物想いに耽る暇はねぇ、ってか!」


 Zippoの蓋が、再び開く。カチ、という乾いた金属音と共に、橙の炎が路地裏を染め上げるように広がった。熱風が黒色の影を包み込む。

 トウマの瞳が、炎の向こうで鋭く細められる。痛みを感じない身体で、トウマは影に向かって踏み出した。



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